たとえば、有名どころでは、たぶん、勝海舟や、橋本左内あたりが、そういう現実派だったろうと思います。
現実もなにも、当時は現在進行形でしかなく。その未来から過去を眺めるような思考で歴史を見てはいけませんよ。歴史を肯定してしまうと間違える元です。
幕府側でもよければ、井伊直弼や松平忠固など。アメリカが来て口では「攘夷!」と言いつつ、早くから西洋の技術を取り入れていた鍋島直正は現実主義者といえばそうかも。
ありがとうございます。井伊直弼侯や松平忠固侯ですね。お話しを伺い、福山侯の阿部正弘伊勢守はどうなのだろうか、と思いました。水戸斉昭の意見を聞いたりしていますが、開国論を表明して進めていくのは、幕閣の中の自分の立場を考えると危険すぎるので、そうしただけで、彼自身は、心の中では、開国止む無しであったのかもしれないと思いました。鍋島侯は、そうですね。現実主義な感じです。島津斉彬侯はどうであったか、途中で急死したので、なんともわかりにくいですが、気になりました。越前侯も、橋本左内と横井小楠をブレーンにするくらいですから、現実主義的な人なのかな、と。
わたしのイメージですが、松平忠固は信念のまま開国を受け入れた人、井伊直弼は信念は置いておいて大老として開国を受け入れた人。阿部正弘は行き当たりばったりなイメージです。(ペリーが来る前から対策しておいてほしかった)島津斉彬や松平慶永は一橋派としての国内の政治的な立場があったので、開国か攘夷かは二の次のような。開国・攘夷と言っていても、心の底からそう思っている人もいれば、立場が言わせてる人もいたんだと思います。
皇室に限らず、歴史的に公家社会は穢れから逃げる。
つまり、必要であろうと無かろうと争いごとそのものを忌避する。
国際情勢についての知識があろうと無かろうと、当時も今も絶対平和主義とでも言える。
朝廷が治安まで放棄したのが原因で戦国時代の無秩序が発生した。
その体質は現在も変わっていない。
幕府上層は、もっとも海外情報に接していたということはあると思いました。オランダからの情報もあると思います。
そういう意味では、水戸家はどの程度、情報を掴んでいたんでしょう。いつも江戸に居ますし、溜り詰めか何かに詰めている。島津斉彬侯は、琉球の情報でしょうか。島津久光侯も、その点では、同じレベルの情報に接していたと思います。
民間では、林子平の「赤蝦夷風説考」もあれば、高野長英の「夢物語」などもあります。蘭学者を中心に、ある程度、もやもやとしたレベルの情報は(西欧とまともに戦うと負けるぞというレベルの感覚)つかんでいたような気もします。科学技術のレベルが高いということは軍事技術も高いということは、まともなインテリ(理系インテリ)ならわかる筈のことですから。
朝廷ですが、「異人は嫌いじゃ」というのは、本当かどうかわかりませんが、現実主義的なスタンスは感じられないです。
朝廷が「異人は嫌いじゃ」というのは、要は為政者層は統治が万全であれば食うに困ることはなく、あえて外部から刺激を取り入れる必要性がないという極右的保守的な意味合いでしょうけど、江戸時代も後期は人口増を支えるだけの食料もなく飢餓が頻発していた訳で、左翼的にもっと社会を変革しないと飢え死んでしまうわ!という人もいたでしょうね・・・
飢饉による餓死者が出たのは3年連続で飢饉になった時が
江戸時代中に1回あるのみというのを以前どこかで見かけた記憶がある。
つまり2年分の蓄えは常に確保していたわけですね。