その後、ラサ島燐礦会社が同島でリンを採掘した。新南群島と呼んた。」という記事見ましたが。小倉中佐の探検は、国として行われたんでしょうか。個人ででしょうか。(小倉中佐が退役後に探検したのか、わかりませんけど。)
「標柱を立てる」以外、なにもしなかったんでしょうか。日本政府も含め。
宜しくお願いします。
これによると、日清戦争で清国から獲得した訳でもなく、蘭印や、米領(フィリピン)から獲得したわけでもなく。
また、係争地であったが、日清戦争で係争が止み、日本領となったわけでも、
第一次大戦後、係争が済んで日本領となったわけでもないようですが、この理解でよいでしょうか。
つまり、まったく平和なプロセスで日本領土になったということです。この理解が正しいかも、よろしくお願いします。
南沙諸島という呼び名はどういう経緯なんでしょうか。これもよろしくお願いします。
(日本では、樺太をいまだにサハリンと呼ぶより樺太と呼ぶのが主流です。なら、南沙諸島も、新南群島がいいと思いました)
1933年になり、フランス(仏領印度)が、新南群島のうちのいくつかに対し、領有権を主張したという記事もあるようです。1918年から10年以上も経過しています。どういうことなんでしょう。
以下は私の想像です。
たとえば、ベトナムの漁民がこれらの島を使い始めたということでしょうか。
これでは、まったく、通らないですね。フランスの国力軍事力が強力であれば、
日本も折れたかもしれませんが。
いや、そうではなく、ベトナムの漁民が過去から使っていたことに気が付いた
ということかもしれません。しかし、それもいまさらの話で通らないでしょう。
フランスの国力・軍事力が強力なら日本も折れたかもしれませんが。
フランスの国内向けのポーズかもしれないと思います。
これは私の想像ですから、どうぞ無視してください。
実際には、この背景はどうであったのだろう、その点が知りたいです。
また、顛末も知りたいです。第二次大戦で、フランスがナチスに降伏するまで、
フランスは、公式には、主張を取り下げたりはしなかったのでしょうか。
質問文を編集しました。詳細はこちら。
たぶん事実関係が間違ってます。
http://nekonote.jp/korea/old/mil/ww2/namsa-islands.html
沿革
大正6年6月 平田米治が新南群島長島を探検
第一次探検(大正7年11月23日)東京月島を出帆
ラサ工業株式会社の探検船(第三次報效丸:83t:帆船:千島開拓事業で使用した船)に
海軍中佐:小倉卯之助以下6名の探検隊と船員10名、人夫5名が乗り込んでいた。
大正8年
1/10 西青島(west york)に木票を立て「占有」とし,帰途。
こちらの資料によれば発見者は平田米治となります。
http://user.keio.ac.jp/~shimao/SCS%20supplement4.3%20shimao.pdf
次の
項で取り上げる小倉卯之助の回想録によれば[小倉 1940:155]、1918 年 6 月に彼に先ん
じて日本人の船が North Danger に到着していることを島に滞在中の海南漁民から聞かさ
れているが、これが池田・小松の船であれば、ちょうど神山らの申請書に記された調査期間
と矛盾しない。
こちらの資料は平田米治の発見を虚偽のものとしていますが、
上記の通りなのでやはり小倉中佐による発見は否定されます。
1918 年 5 月から 9 月にかけて、あるいは 1917 年 2 月から 8 月にかけて(後述、2.2.2ii)、
小松重治(重利、重春)と池田金造がパラセル諸島(2島)とスプラトリー諸島(3 島)の
燐鉱を探査し、その帰属を外務省に照会したが、判明しなかった。1918 年に神山閏次と橋
本圭三郎の名義でその領土編入願いがだされ、その後、パラセル諸島、スプラトリー諸島を
再調査した上で 1919 年 5 月 13 日再度領土編入による採掘願いが出されたが、外務省はい
かなる措置もとらなかった。
外務省に照会して帰属が判明しなかったものを、
日本政府の命令で調査したり編入願いが出されたりというのもおかしな話です。
前の資料にあるように、
小倉中佐はラサ工業の探検に同行しただけと受け止めるのが自然でしょう。
> 南沙諸島という呼び名はどういう経緯なんでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B2%99%E8%AB%B8%E5%B3%B6
日本政府による正式な名称は第二次世界大戦前からの「新南群島」であるが[1]、日本はサンフランシスコ平和条約に伴って領有を放棄しており、中国語の"南沙群島"から南沙諸島、又は、英語の"Spratly Islands"からスプラトリー諸島と呼ばれることが多い[1]。
敗戦後の領有権放棄に伴って、中国語の名称である南沙が取り入れられたようです。
呼び名のことですが、
サンフランシスコ条約の訳文を見たところ、日本が放棄すべき領土として、新南群島と、西沙諸島となっていました。西沙諸島の方は、中国式の呼び名が日本統治時代から、日本でも使われていたのだな、と思った次第です。