大学の母体である、①イギリス聖公会の教義、②会衆派(カルバン系)の教義、③カルバン系長老派(米国のドイツ改革派)の教義、④メソジスト派の教義、⑤バプテスト派の教義では、
「強姦されて妊娠しても、妊娠中絶は神の教えに逆らう」として、中絶は禁止なのでしょうか。ご存知のところだけでよいので教えていただければ、有り難いのですが。
髪の毛、一本も神の意思でなく、抜けたりしない、と聞きますから、
強姦による妊娠も神の意思なのでしょうか。
イサクの聖餐を思い出します。その子を殺せというのも、神の意思であったような。
こういう風に余分な条件付け加えて考えるから問題が複雑化して見えるんだ
要は中絶は殺人か否かってだけの話だ
つまり強姦は全く関係ない
あと検索すればわかるけど米国聖公会は中絶を公認しているらしい
以下のページのコメント欄も参照
https://blogs.yahoo.co.jp/david_solomon2011/12230905.html
日本の聖公会と他の国の聖公会と基本教理に違いがあるそうだよ
他の教派だって同様かもしれないから
日本の教会の基準がそのまま母体の教理と同じとは限らないよね?
情報源は知恵袋・・・
以下が参考になるんではないかと
http://www.christiantoday.co.jp/articles/7578/20051230/news.htm
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1451397424
URLをみたところ、
米国のカトリック、正教会、聖公会、南部バプテスト協議会は、妊娠中絶反対の立場だ、
という記事でした。メソジストとルター派、長老会はやや柔軟、という感じでした。
カトリックは、ローマをトップに一枚岩が建前ですから、世界共通。
正教会も、いちおう、世界共通、であると思います。
ですから、日本のカトリックも、日本正教会も、妊娠中絶絶対反対という事になります。
しかし、聖公会やバプテストや長老会、メソジスト派は、さまざま分派していますから、
詳しくみないといけないと思いました。
生まれてきた子供は、被害者側が引き受けるのでしょうか。
被害者が未婚者の場合、被害者が既婚者の場合、それぞれ、大きな問題になってくると思いました。
保身のためには銃を取って戦う事も辞さないっていう教えなんだけど
これはつまり右の頬を叩かれたら左の頬を差し出しなさいっていう
キリスト教の本道とは正反対の教えでもあるんだよね
カトリック内部ではその対応を持て余していてるようで
影響範囲があまりにも広いので破門したくてもできないという事情があるようだ
ブラジル一国をまるごと破門するようなもんだからね
つまりカトリックでさえ決して一枚岩じゃありませんっていう実例の1つとして
質問者から、みたいな
~全ての出来事は神のご意志による~
みたいな考え方を予定説と言います
ツヴィングリの改革派から分派したカルバンが唱えた説ですね
後に長老派などに受け継がれていますが
他のプロテスタント諸派はもちろんカトリックも正教会も
そういう考え方は否定しています
で、最初のコメントのリンク先に書いてあるのは
聖公会は世界全体で見ると予定説なんだけど
日本の聖公会は予定説を否定してるよって事です
予定説の件、ありがとうございます。
>髪の毛一本でさえ、神の意思でなくては、ぬけおちない、
というのは、聖書のことばかどうか、自分は知らないんですが、
聞いたことありました。
私はカトリックにはやや縁がありますが、他の系統の教会には行ったことはありません。
よって、カトリック信者から聞いたのだと思います。
しかし、たしかに、これは予定説に馴染む考えですね。
ほかに、「主はパロの心をかたくなにしたので。。。」というのがあります。
これも予定説に繋がりやすいところだと思います。
>日本の聖公会と他の国の聖公会と基本教理に違いがあるそうだよ
聖公会は、カトリックに近いと聞いていまして、
そのため、私は、聖公会は、カトリックと同じで、予定説は取っていない。
と単純に思い込んでました。しかし、聖公会は全世界で見ると予定説なのですね。
日本の聖公会ですが、米国と英国の双方から布教されたと想定してますが、
今は、「現在の日本の聖公会では、予定説を否定している」ということなのか、実に、いろいろなのですね。
表現が正確ではありませんが
出典はマタイ10章29-31節で間違いないと思います
その比喩において落ちるのは鳥であり、髪の毛ではありません
> ほかに、「主はパロの心をかたくなにしたので。。。」というのがあります。
> これも予定説に繋がりやすいところだと思います。
普段は人間社会に全く介入しないが必要に応じて介入するという意味にも取れますから
必ずしも予定説と関係してるとは言い難いです
ファラオの心を頑なにしたのは神の栄光を示すため
とその記述付近のどこかに書かれていた気がします
この出来事は十の災厄をエジプトにもたらす事で
エジプトで崇められている神々が無力であり
自らこそが信じるに値する神である、という事を示す出来事だったわけです
もしこの時ファラオが聞き分けが良かったら力を示す事ができず
信仰の対象に相応しい神である事を示す機会を失っていたでしょうから