大きなものと小さなものが対になっているという一説です。
「お馬の親子」に出てくる「なかよしこよし」も、「夕焼け小焼け」の場合と同じく大きなものと小さなものの対だと思います
URIでは接頭語「こ」関連の議論をしています。
私見では
焼け →こやけ
良し →こよし
はずかしい→こっぱずかしい
しゃく →こしゃく
粋 →こいき
憎らしい →こにくらしい
のように幹語のニュアンスを弱めています。
なるほどー。面白いですね。確かに「こ洒落た」「小耳を傾ける」という言い方も有りますね。
韻を踏んでいるんだと思います。Humpty Dumpty。。みたいなものだと。
この解説の「こよし」はちょっと仲良し
「こやけ」はちょっと夕焼けっていうのも
面白い解釈だと思います。
回答2のBBSにも出てきますが、「ちょっと」という意味を含んでいるのかも知れないですね。
面白いのでもう少し回答をみたいと思います。
ゆーやけこやけ2
夕焼け小焼け
【三省堂新明解国語辞典によると、「夕焼けがだんだん薄れること」だそうです。】
【「夕焼け小焼け」の歌は、夕焼け→小焼け→日暮れ→鐘の音 という時のながれと考えると納得できるような気がします。】
(「面白いページ」はアーカイブに残っていますので末尾に入れました―引用者)
【「夕焼け小焼け」というのは、語調を整えるとともに、時の流れを凝縮して言い表すことばだったんですね。
叙情たっぷりなこのことばは、いつどこでだれが生み出したんでしょうか。】
じぶん更新日記
9月22日(金)
【ちょっと思ったこと】
「夕焼け小焼け」その後
【匿名御希望の方は『日本国語大辞典』の解釈を支持されておられるが、私個人は、「太陽の沈んだあと暗くなる前に西の空に赤みが残るのが「小焼け」」のほうが趣があるようにも思える。夕焼けには空の半分以上が赤く染まる「大焼け」のほか、太陽が沈む直前、西の空の雲の下から光があたる時に一瞬とても綺麗な赤みが出ることがある。これは「中焼け」と言ってよいだろう。さらにその後、太陽の沈んだ周りだけがちょっぴり赤く残るがこれを「小焼け」と呼ぶとまことに趣があるように思える。】
夕焼け、小焼け: 6.「夕焼け、小焼け」 〜小焼けってなーに〜
【北海道富良野で夕日を撮影中に夕日だけを撮っている写真マニアに聞いたことをご紹介します。
夕日は夕焼けと一般的言われるが、実は夕日が沈んで暗くなった後に
もう一度赤く光る「夕焼け」が見える。
これを「小焼け」というそうだ。
知らない私は夕日が落ちて撮影機材を片付けようとしたときに、この話。
写真はビデオテープからキャプチャーしたもので、かすかに赤い陽が見られる。
気象状況によって見え方が異なるそうだ。】
夕焼け
【童謡を思い出させるような夕陽、この後唄のように小焼けとなった。】
http://www.zeroemission.co.jp/B-LIFE/SFC/speech02/sp0210c.html
B-LIFE21:2002年度寄付講座:第10回
B-LIFE21:2002年度寄付講座:第10回
【この様子は、実は日本の童謡にいろいろありますが、夕焼けの歌があります。夕焼けというのは太陽が西の空に沈むときに空が赤くなるのを夕焼けと言います。太陽が沈んで10〜15分するともう一回空が赤くなります。これが「小焼け」と言うのです。夕焼けと小焼けは違います。その小焼けのときにならなければツバメはやってこない。ですから夕焼けのときに行ってもツバメは1羽もいません。しかし、小焼けになったときに行くとツバメがわっと集まってきます。】
3日目
大天井岳
【小焼けと月】写真→
見事な小焼け(フォトレタッチ無しでこの赤さ)→
山歩き 山岳信仰
たたりに見る日本人の霊魂信仰
6 日本の神の畏怖(いふ)すべき性格
「夕焼小焼」に秘められた日本仏教の根本的精神
【韓国の仏教学者「李箕永」先生が「自分は日本人がとてもうらやましい。なぜなら、日本人の心の中に仏教が深く、広く浸透しているからだ」「え?どうして」すると先生は、「あなたがたは『夕焼小焼』という童謡を歌うでしょう。あの中に仏教の根本的精神が全部歌い込まれていますよ。」】
【平安時代以来、歌人、詩人、家たちの作品に「夕焼け」の光景がどれほどうたわれ、また描かれてきたのであろうか。あるときそれがおびただしい数にのぼることに気が付いた。日本の画家たちがいかに夕焼けの光景を好んで描いているかを、ヨーロッパのルネッサンス以降の画家たちと比較したことがある。問題にならないほど日本の方が多い。ではなぜ我々日本人はこんなに夕焼け空に感動するのか。それにこだわり続けてきたのか。それは夕焼けの彼方に浄土をイメージしてきたからではないか。李先生は夕焼けの彼方に浄土あり、ということは一言もおっしゃってないけれども、落日の光景と浄土信仰の関連がピンときた。】
【二行目の「山のお寺の鐘が鳴る」は日本の仏教がやがて山の仏教として定着したことを象徴する一句だと解釈した。奈良時代の仏教は都市仏教、学問仏教だったが、比叡山に最澄が天台宗を開き、空海が高野山で真言宗を開いた平安時代以降、仏教の真の土着化が始まったのだと思う。お坊さんたちが山に入って修行をするようなり、そこから新しい日本の仏教が展開して現在に至っているが、その山の仏教が、朝晩山頂で鐘を鳴らしていた。その鐘の音がやがて『平家物語』の冒頭に出てくる「諸行無常」を響かせるようになったのである。山のお寺で鳴らされる鐘の音を聞きながら、庶民は毎日の生活を送っていたのである。】
高尾の文学散歩
夕焼小焼と日本人の無常感
【この夕焼け小焼けに、日本人の無常感を重ねあわせる宗教学者もおられるようです。「夕焼け小焼けで日が暮れてとは、落日の風景であり、その落日の向こうには極楽浄土があるというのです。「おててつないで皆帰ろ」も、そのとおり読めば、遊びつかれた子供たちが、みんなで連れ立って家へ帰る様子と受け止められるのですが、これもあえて読めば、みなが本来帰る場所へさあ帰ろうではないかと読めるのだという。「烏といっしょに....」も人間だけでなく、鳥も動物も虫達もさあ一緒に帰ろうではないかといっていると言うのだ。】
【果たして、本当に雨紅が、この歌詞にこの無常感を埋め込んだかは今となっては知る由もないが、こう考えると童話の世界に秘められたメッセージがぼんやりとうかび、これはこれでまた違った受け止めができるのかもしれない。】
――等々。「こよし」にとりたてて意味はないと思いますが、「小焼け」は、上記の意見を総合してみると、ある、と言っていいと思いますね。
1、独立した「小焼け」の用例がある。
2、日没後の「小焼け」の説明がある。
3、日本画家が夕焼けを取り上げた作品は多い(西洋画との比較で)。
4、浄土信仰の関連、との指摘がある。
などの点を考えあわせれば、「時の流れを凝縮して言い表」したという解釈も、あながち無理な説明と言い切ることはできないように思えます。
参考:
おじゃまむし64(「面白いページ」としてあげられていたもの)
童謡「赤とんぼ」に寄せて
赤とんぼ(三木露風作詞)
「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」(中村雨紅作詞)
童謡
日々の暮らし(2)夕暮れ(「ゆうぐれの そらの やさしさ」と題した写真集)
【夕焼け小焼けと言うけれど、夕焼けと小焼けはどう違うのだろう。
お日様がまだ地平線の上にあるのが夕焼けで、
沈んでしまった後、空が赤く染まるのを小焼けというのだろうか?
そんな疑問が湧いてきて、今度、誰かに教えてもらおうと思う。】
opponentさんが興味を持ってくれると良いなあと期待してました。(笑)いつもながら完成度の高いご回答敬服致します。
「小焼け」に関するご説明は非常に説得力がありますね。納得しました。有り難う御座いました。
ふむふむなるほど...