A1.人間は外部世界(外部)を認識する
A2.外部は認識によって内部世界(意識、内部)に現れる
A3.外部の認識はいつも不完全である
C-1:内部化された外部は外部そのものではない
B1.外部の如何なるものも内部によってのみ制作されうる
B2.内部によって制作されたものは、外部のそれと比べて差異は無い(eg 夢)
B3.他人は外部の一つの物事である
B4.よって内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異はない
B5.内部によってのみ制作された他人への感情(愛)と、外部のそれへの感情(愛)に差異はない
C-2:内部(虚構)の他人への愛と、外部(現実)の他人への愛は同一である
C1.同一の質的な面で二つの物事の一方が勝っている情況において、人間ならば質的に勝る方を取る
C2.内部で制作されたものは、理解という質的な面において外部に勝る
C3.理解は愛の必要条件である
C-3:人間は虚構への愛を取るべきである
D1.C1の対偶を考えよ
C-4:現実の他人に愛を抱く者は人間ではない
前提:語義の一般性、意識の存在
うーん。とりあえず。
感情的な反論:人を好きになったり自分の子供に愛情を抱いたりする者は人間ではないなんて、そんなばかな!
論理的な反論:結論から言えば、論理的でない。この前提のみと論理から導きだされる命題とは言えないものが、ずらりと並んでいる。意識があるからと言って、人間が外部世界を認識すると、なぜ言えるのか。
というか、前提もあやうい。「語義の一般性」「意識の存在」というものは、いろいろに解釈できるし、前提としてふさわしくない。
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/kripke-s.htm
Miura Toshihiko's page: 知の先端18人:ソール・クリプキ
ダイアリーを拝見しましたら、この質問には元ネタがあるとのこと。だったら引っかかってみよう、ということで参加してみることにしました(?)
恋愛シミュレーション、なのでしょうか。残念ながらゲームについては無知です。
3つ項目ピックアップして考えてみます。(全部じゃなくても良いですよね?)
質問者は「AIを前提として」と仰ってますが、わたしは虚構の対象を生身のアイドルなんかも含めて、考えました。(本人の能力の得意不得意ゆえ)
【C3.理解は愛の必要条件である】
<感情的>
理解とは知ろうという欲望、「好奇心」。
好奇心とは、対象を量化し分析して「あばきたてる」振るまいでもあって、
反対に、愛を抱く者にとって、その対象相手を「あばく」ことは恐れ、オブラートにかけたい心情にかられるのが道理。
<理性的>
クリプキの「可能世界」という概念がある。
これを手がかりに仮にヨン様を例に上のテーマを考えてみるとする。
韓流スターのペ・ヨンジュンという存在の固有名が、
「ヨン様」に附随する性質の「束」(眼鏡、『冬のソナタ』、生い立ちのエピソード etc.)についての記述自体と、置き換えられることはない。
「ペ・ヨンジュン」の名前は「『冬のソナタ』に主演した」と等価で置き換わることはない。「『冬のソナタ』に主演しなかったペ・ヨンジュン」という仮定の元にある「可能世界」は、無数に想定しうるのだ。
ペ・ヨンジュンという存在者の名前も、『冬のソナタ』というタイトルもどちらも個有名詞ではある。
しかし、ヨン様の名前はこの世界全体から彼が位置する彼の同一性を規定する「固定指示詞」であり、
『冬のソナタ』・彼の仕事・生い立ちといった属性の事々は「非固定指示詞」であり他とも「入れ替え可能」であるので、
それらヨン様の性質の束(記述)と、世界の同一性の中で占めるヨン様の「場所・位置」とは、代謝不可能である。
そこで、何故、貴女はヨン様を愛するのか。
→ex.「美しいから」「逆境にめげず努力した人で尊敬に値する」etc.
ところが、それは「美しい男性」というカテゴリー中にいる人、「逆境にめげず努力を惜しまなかった人」カテゴリー中にいる人、といった様に、
彼の持ち合わせる「美質」も「人生ドラマ」もどんな価値要素でも、愛と深い共感でもって理解を捧げると途端、
貴女にとってかけがえのないヨン様であるはずが、「他の誰かと入れ替え可能」な相対的な価値存在に還元されてしまうだけという「矛盾」が生じてしまうのを、避けることはできないのである。
ここで留意すべきなのは、存在者自体が世界で占める「位置・場所」の方こそが、「そこにあてはまるあらゆる要素」よりも優位なのである。*
これは人間にとって実存的な問題である。
これは否定神学としても命題である。
*ちなみに、例えば「日本の総理大臣」というと「位置・場所」であって、それに対して小泉、海部、橋本等の各人の方が入れ替わる「要素」ということになる。国王、天皇もしかり。
http://www.cmp-lab.or.jp/~narusawa/9401.html
�v���[�X�g�F�͕킷���~�]
http://www.socius.jp/lec/18.html
Socius_社会学感覚18音楽文化論
【B4.よって内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異はない】
&【C-2:内部(虚構)の他人への愛と、外部(現実)の他人への愛は同一である】
<感情的>虚構で制作された「他人」には生命がない。命が宿っているかという点で現実の他人と虚構の他人とは違う。
虚構の他人は現実の複製で、現実の他人は唯一無二で複製できない。ゆえに現実の他人へ賭ける愛こそ真に実存を賭けた愛であって、複製である虚構の他人への愛は所詮、入れ替え可能ではないか。現実の他人への愛こそが優位、虚構で制作された他人への愛は劣位と思う。
<理性的>虚構で制作された他人にはアウラが宿っているのである。「アウラ」を備えているかという点で、現実の他人と虚構の他人とでは、存在感の濃密さが違う。虚構の他人の存在感の方が濃密に感じとられる。
生身の役者や舞踏の演技による制作された「他人」も同様。
そしてしばしば人間は、虚構世界(思想、芸術、政治、etc.)に実存を賭けることによってこそ、その生を濃密にしてきたではないか。
現実的に、「現実」と「虚構」とが相対立するものではないとは思いますが、あえて単純化。
2つめのは<感情的>も<理性的>も要するに審美観になってしまいました。わたしの心情的には<理性的>に与するものです。
一つめの<理性的>は、ほとんど悪いギャグみたいですね。ヨン様に悪気はないです。
元ネタは質問終了直前にでもお答えします。勿論、その前に指摘して下さっても構いません。
オタクの萌え(愛)の完全肯定、及びその優位性を主張する議論に相当させているつもりです。
>全部じゃなくても良いですよね?
はい。全てでなくて構いません。
感情、感性的な反論に関しては、最後の結論にも答えていただけると嬉しいです。
>C3
クリプキを持ってこられると、未だ浅学の僕としましては議論を擁護しにくいですね。提示された論証について、文句を挟むところはありません。確かにC3の『理解』は矛盾しております。出来るとすれば、虚構世界に対するもっと良い説明を行うことでしょうが、議論が錯綜してしまうため控えさせて頂きます。
YOWさんの議論を容認すると、虚構世界の優位性は失われますが、C-2(Conclusion-2を意味してます)まで逆戻りすることのみに留まってしまいます。現実世界への愛を(虚構世界のそれよりも)重視する方にとっては、『現実世界の他人への愛と虚構世界の他人への愛は同一である』という結論以前の命題を否定しなくてはなりません。
また、愛の必要条件で『理解』の他に挙げられるものをXと仮定して、Xが現実より虚構の方で優位に立つならば、C系列を全て入れ替えることで、C-3及びC-4は擁護できるかな、と思います。
>B4 & C2
理性的な反論の方では、虚構の優位性を援護して下さっているのでしょうか。
感情的な反論に反論するのは気が引けますが、
>現実の他人は唯一無二で複製できない
ということに対しては、A系列において、「現実の他人の完全な認識は出来ない」という(いささか認識論的懐疑の)議論を行っているつもりです。この議論の結論として、「現実の他人」も認識を通した結果、「虚構の他人」へと変遷していることを主張しています。ここから、主体にとっては「現実の他人」と思っているものが実は、「(内部世界によって作り出された)現実の他人」であり、「(内部世界によって作り出された)虚構の他人」も同様のプロセスを経て生起しているのだから、それらに差異は無い、という運びをするつもりでした。
この結論が真だとすると、
>生命がない
という一見外的な要素さえも、内部世界によって制作された要素となり、制作された要素に差異はないのだから、現実及び虚構の何かに対する「生命がある/ない」という区別による優位性の判定は、恐らく使えないのではないでしょうか。
>「現実」と「虚構」とが相対立するものではないとは思いますが
念のため記述しておきますが、当方もその意見に同意しております。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061823337/
Amazon.co.jp: 四季 春: 本: 森 博嗣
論理的な反論
Aに関しては特に問題いが、BはAと矛盾している。Aの結論であるC-1によれば、内部化された外部は不完全であるのに、どうやれば内部によって製作されたものと外部のそれを比べることができるのか。
それに、不完全に認識された外部と同じものでさえ、内部で製作出来るとはかぎらない。例えば、外部にある音楽、絵、小説、映画などを内部で製作できるだろうか。人の手によって作られたものは、少なくとも誰かの内部にあったものなのだが、それが誰にでも製作できるとは限らない。
外部と同等の他人を内部に製作することについて考える場合も、同じような問題がある。絵の描けない人の内部に、絵を描ける他人を製作できるのだろうか。また、外部に他人が存在するのと同様に複数の物事を処理できるのだろうか。
コンピュータならば、内部に別のコンピュータを存在させることができるが、その処理能力は元のコンピュータを超えることはない。2つのバーチャルマシンを実行させた場合にも、2台のコンピュータと同じ処理能力が得られるわけではない。
Bが成り立たないとCも成り立たないが、Cだけで考えても問題がある。
まず、外部の他人は内部にも存在するが、内部で製作された他人は当然ながら内部にしか存在しない。そのため、外部世界で活動できないというデメリットがある。
また、理解が勝ることは必ずしもメリットではない。全てがわかってしまってはつまらないと感じることもある。
Cが成り立たなければ、Dの問いには意味が無い。ちなみに「C1の対偶」ではなく、「C-3の対偶を考えよ」ではないですか?
感情的な反論
内部によって製作された他人が、外部の他人よりも勝っているのなら、内部の人に質問したらどうでしょう。
感情的な反論2
内部に製作した恋人が、自分の内部に製作した人を愛してしまったらどうするんですか?
リンク先は、森博嗣の「四季 春」を紹介しているアマゾンのページです。主人公は「天才」で、内部に複数の他人を製作してます。
他人をエミュレートすることで、相手の心を読むのと同等なことも出来ます。
>どうやれば内部によって製作されたものと外部のそれを比べることができるのか。
B1、B2については説明を端折った部分があります。
外部が内部化された時点でそれは内部なのですから、正確に言えば「(内部化された)外部 & 内部」を比較することになります。だから、比較という行為自体は可能です。
>例えば、外部にある音楽、絵、小説、映画などを内部で製作できるだろうか。
出来ると思います。
まずC-1より外部芸術品を完全に模倣しなくてもいいということになります。
また、外部芸術品を記憶として再生してみたとき、凄く曖昧なものが想起されると思います。
そして想起自体は制作の一種です。
よって、外部芸術品は制作可能ということになります。
ですから、
>それが誰にでも製作できるとは限らない。
という疑問に対しては、誰もが制作できている、と返答します。
(ちょっと僕の反論は粗いので後ほど改定するつもりです。)
ついでにB2について補記しておくと、「何故、『この世界が夢の世界かもしれない』という疑問がリアリティを持つのか」を考えてみて下さい。夢の中の世界でも、音楽を聴いたり絵を見たりした経験はあるかと思います。それらは内部によってのみ制作されたものですが、夢の中ではリアルとして感じられます。
>絵の描けない人の内部に、絵を描ける他人を製作できるのだろうか。
『絵を描ける』という属性を与えて制作すればいいだけです。
>外部に他人が存在するのと同様に複数の物事を処理できるのだろうか。
>その処理能力は元のコンピュータを超えることはない。
コンピュータとのアナロジーは面白いのですが、処理能力という点で外の人と同等でなければならない、ということはありません。愛において「理解」が大事であるという命題が議論に含まれておりますので、その点で処理能力は今回の議論とは無関係であると思います。
また、B4については、「人間は、自分が理解できる範囲で、他人を理解している」という意味を含ませているです。どんなに外の人が高い能力を持っていようと、認識という窓を通されると、自分の理解の範囲内に収まってしまうということです。例えば、赤ちゃんにノーベル賞の教授を見せても、偉大な人だとは思わないでしょう。僕が「%”$%#’(|#|」と喋っても、それが火星語だと地球人は理解してくれません。
>外部世界で活動できないというデメリットがある。
中の人への「理解」もしくは「愛」が勝るという素晴らしいメリットについてお話しているので、この指摘も少し議論とは関係ないのでは。
>理解が勝ることは必ずしもメリットではない。全てがわかってしまってはつまらないと感じることもある。
理解してしまったら、つまらない、つまり愛が潰える(かもしれない)ということでしょうか。
現代社会における愛という行為は、mutualな大人同士が相互理解を深めていくことだと認識しておりますが、その相互理解の努力は破滅への道なのかもしれませんね。その論で行くと。
>ちなみに「C1の対偶」ではなく、「C−3の対偶を考えよ」ではないですか?
C1です。「質的に勝る方を取らないならば、人間ではない」となります。当然のように受け入れさせた命題を最後に引っくり返すことで、ちょっとした驚き効果を狙っていたりします。
>外部の他人よりも勝っているのなら、内部の人に質問したらどうでしょう。
『中の人』は「私が行う『中の人』の理解において」勝っているのみなので、外の人より頭が良いとは限りませんから。勿論、外の人は『僕が理解できる範囲で』頭が良いのです。
>感情的な反論2
それもまた、主体の望んだことなのでしょう。少なくとも、寝取られ属性(NTR)というものはこの世の中に存在するようです。
>他人をエミュレートすることで、相手の心を読むのと同等なことも出来ます。
他我問題のsimulation theoryに拠れば、それは誰でもやっていることであります。程度の差はあるでしょうが。
面白そうだったので参加です。
元ネタのタイトルは分りましたが、やってないのでなんとも。すいません。
【感情的な反論】
繁殖できない人間は、一世代で滅ぶ事になる気がするんだけど。
つまり親は人間ではなかったんだろうか。
【論理的な反論】
まずC-1~C-4についての結論を述べる。
・C-1は真である。
・C-2は必ずしも真であるとは言えない。
・C-3はC1-C3から導き出される結論として正しくない。
・C-4はC1が真であるとするには立証が不足している為、真と判断は下せない。
次に各結論について
・C-1
A1~A3は妥当であると考える。
導き出される結論C-1も論理的に導き出されているのではないだろうか。
・C-2
B4の「内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異はない」は、妥当な反証が1つでもあれば崩れる前提である。
C-1での結論から、内部化された外部は外部そのものではないとする。
内部化された外部と、外部に発生しやすい差異として代表的な例として時間による変化がある。
美しい少女が居たとする。
100年後その少女が死んで遺骨になっていたするとどうだろうか?
内部化された美少女と、100年後の現実として存在する美少女であった遺骨に差異はあるだろうか。
極端な例であるが、内部化した外部は更新しなければ、実際の外部とはどんどん食い違っていく。
少女の遺骨を見せられても、これはかつて少女であった物だと認識しなければ、内部化された少女であるとも認識出来ないのである。
しかしその反面、時間やそうした変化に影響されない物も存在する。
内部化されたショパンの曲の旋律、現実のショパンの曲の旋律などに差異はないと言える。
よって、B4は「内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異がない場合がある」という表現が正しい。
C-2の結論である「内部(虚構)の他人への愛と、外部(現実)の他人への愛は同一である」は上記で挙げた例で言えば、内部の少女が外部の情報の更新により老人になろうが、化け物になろうが愛する事の出来る類の愛情であれば、真であると言えるだろう。
・C-3
C1~C3が正しいと仮定しても、C-3の妥当さは疑問が残る。
正しくC-3に導き出される結論は以下だ。
「愛の必要条件の1つの理解面において虚構は現実に勝るため、人間ならば優秀である方の虚構を選択する」
これは「人間は虚構への愛を取るべきである」とイコールではない。
似たような文にするならば「人間は虚構への愛を取る」だろう。
C-3に「人間は虚構への愛を取る」と書かれていると仮定した上でC1-C3を含めた反論を以下に記述する。
C1は「同一の質的な面で二つの物事の一方が勝っている情況において、人間ならば質的に勝る方を取」らない人間が居る事を1つでも示せば崩れる。
例えば私が「なんでも奢ってあげる」と言われて、食事に連れて行かれたとしよう。
相手は金持ちではない、どちらかといえばとても貧乏な人だ。
そういう人に数万円の食事を奢らせようと考えるだろうか。
相手はお人よしで、数万円の食事でも嫌がらないで奢ってくれる。恨みもしないだろう。
こういう場合は、高い物を奢ってもらえば貰うほど特であるが、相手の気持ちや財布状態を考慮して、”それなり”の所を選んでしまうのが一般的であり人間的と考える。
以上の事に反証が出来ないという事であるならば、これは偽である。
C3は、愛の中に要素としての理解が含まれるという記述である。
これとC2を踏まえて導き出した結論C-3に論理性は無い。
言ってる事は言い換えるとこうなる。
C2’ Windowsは普及率の面において、Macより優れている。
C3’ WindowsはOSの1つである。
結論 Windowsは優れたOSである。
結論’ 人間ならば優れたOSであるWindowsを使う
これが論理的な結論というならば反証して頂きたい。
愛の中の理解面では虚構が勝っていても、その他の部分が現実が勝る事の証明が不十分である。
C1の反論にあるような「相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。」は愛である。
・C-4
内容にC2,C3が含まれている点が疑問だが、C1の反証をしている為省略。
まずはB4について。
『点時間tにおける』を付与してあげて、
「点時間tにおける内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異はない」
とすれば回避出来る反論であるかと思います。
音楽など、「連続性が重要なのだ」と反論できる外部については、「世界は離散的である」という風に返しておいて、また別の場所で議論してもらおうかと思います。
C1について。
例は「金銭的な面において」と解釈しました。これは量的な問題であります。だから少し違うのではないかなぁ、と思いました。
また、質的な問題として捉えると、
>こういう場合は、高い物を奢ってもらえば貰うほど特であるが、相手の気持ちや財布状態を考慮して、”それなり”の所を選んでしまうのが一般的であり人間的と考える。
という反論は、「金銭的な面」だけではなく、他の要因、つまり「相手の気持ち」「財布状態」を混ぜてしまっています。例での判断は、これら三つの要因を『奢らせる』『奢らせない』の両者が所持していることになります。そして件の判断では、これら三つを合わせたものを比較したときに、『奢らせる』『奢らせない』のどちらが勝っているかといえば、その人にとっては後者だったということです。よって、この判断は『質的に勝っている』と捉えることになり、命題の真理性を保持するものと考えます。
C3について。
この命題についての脆弱性は、承知しております。
(だからここへの反論がすぐに来ると思っていました。)
>愛の中の理解面では虚構が勝っていても、その他の部分が現実が勝る事の証明が不十分である。
この反論については、こちらが敗北せざるを得ません。
ただ愛の必要条件が他に何があるか、というと中々思い付きませんし、仮に思いついたとしても、その要素において虚構の方が質的に勝ることの証明が出来てしまいそうです。
いつか愛の必要条件でも質問してみようかな、と思います。
それから、
>C1の反論にあるような「相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。」は愛である。
やはり愛という言葉が曖昧ですね。慈悲の心を愛だと思わない人もきっといるでしょう。
本問題における愛とは、いわゆる恋愛の愛を想定しております。
最後に、感情的な反論について。
>繁殖できない人間は、一世代で滅ぶ事になる気がするんだけど。
>つまり親は人間ではなかったんだろうか。
そう、厳密には人間ではなかったのです。
理性が本能に勝る、新しい定義の『人間』が自分たちの世代である…のかもしれません。
それで滅亡してしまうとしても、それはそれということで。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%EA%A4%AB%A4%A4&...
国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書
感情的な反論:勝手にやってくれ。虚構の愛に没頭しようと、するまいとあなたの自由です。どんな愛を楽しんだとしても私が反論する筋合いはないです。ただし、論理性は認めませんが。(私はそもそも語義の一般性を認めません;書き言葉や話し言葉は媒体として外部世界を経由するものの、すべての単語は、それぞれの人にとって少しずつ異なるイメージを想起させます。A3の命題もこのことを支持しています。とくに「愛」は抽象名詞であって、「これです」といって指し示せるものではないのでなおさら)
要するに、前提「語義の一般性」がすでに主観に満ち満ちている。ルールに文句つけて失礼w
論理的反論:論理的でないものに論理的に反論することはのれんに腕押しのような気がしますが、ここまでcogniさんの提示された命題を全て真として、論理もすべて成立するとして、読んでみました(回答者とそのコメントもとても参考になりました)。
そこで注目したのがC2です。理解というものがどういうニュアンスで使われているのか不明ですが、自分の頭で想像して(むしろ創造ですか?)作り上げたキャラクターなので理解ができている、という「理解」と、外部の本物の人間を理解するときの「理解」は異なっています。
①内部制作の他人の「理解」はそのキャラクターに何をすればどういう反応が返ってくるということが予測できる、ということなのでしょうか?自分で作り上げた人物だから、当然理解できているということでよろしいのでしょうか?恋愛シミュレーションとかやったことないので分かりませんが、そういうことにさせて頂きます(^^;
一方で、
②外部の他人の理解は、その人の考えていることに共感できたり、その人の反応を予測できたりするようになることだと思います。言い換えれば、自分なりにその人をエミュレーションして、それが結構あたっているということです。そしてそのエミュレーションは、お互いにしているので、気が合っていればお互いに理解していることに気づいて嬉しく思ったりして、そのうちに仲良くなってゆくわけですよね。
前者には理解度(エミュレーションの正確さとか)は外部の人間に対する「理解」に勝りますが、予測不可能性が極めて少ないですよね。理解できて当然です。
理解のプロセスも違います。前者は自分が作り上げるのに対し、後者は相手との(リアルな=完全な予測不可能性を伴った)コミュニケーションのうちに輪郭がはっきりしてくるという感じです。また、リアルな人間関係のほうが自分自身の人生観や生き方も変えられる可能性があるのではないかと思います。様々な意味で利点があると思っています。(それだけでもはてなの一質問として成り立つでしょう)
※完全な予測不可能性とは、一定の枠組みの中でパラメータがランダムに変動する予測不可能性ではなく、パラメータや枠組み自体がランダムに変動し、パラメータの計測可能性自体も保証されないような予測不可能性を指す
結局私の主張はどうなのかというと(すいません論理的な構成になってなくて(>_<))・・・
C2の比較は曖昧。「理解」の内容が内部制作の他人と外部の他人とで異なる。内部制作の他人の理解は当然可能である一方で、自由度が低い(=予測可能性が高い)ので自分がそこから得る喜びが少ない。
C3は誤り。「愛」は抽象名詞であって、各人の定義があってよいが、かりに「愛」の必要条件というものがあったとして、そこに含まれるのは内部制作の他人に対する「理解」のような理解ではなく、外部の他人の「理解」が含まれる。
この質問面白いので、時間あったらまた回答させて下さい、よろしくデスヽ(°_°>)
ではまず、議論を客観的に定位することから。
>語義の一般性
語義は外部から獲得するのは確かですが、一度そのwordを理解してしまえば、それは内部にあるものと見なせないでしょうか。
加えて、如何なるwordであれ、その語義が『社会的に見てtrue』である十分条件は存在すると考えます。
(何故、我々はコミュニケーション出来るのでしょうか。それは語義を共有しているからでしょう。ですから、我々がコミュニケーションできているという事実は、語義の成立の十分条件の存在を肯定してくれるかと思います。)
ですから、
>それぞれの人にとって少しずつ異なるイメージを想起させます
という命題はtrueだとは思いますが、この問題の反論としては不適であると思います。
また、語義が『社会的に見てtrue』である十分条件の存在を肯定すると、
>要するに、前提「語義の一般性」がすでに主観に満ち満ちている。
については、主観的に満ちていようとも、社会的合意の置ける範囲で、質問文の当て嵌めが全人類に対して可能であると思います。
次に理解について。
>予測不可能性が極めて少ないですよね
>自由度が低い(=予測可能性が高い)ので自分がそこから得る喜びが少ない。
これら文言より、「理解は喜びが大きい」という必要条件をinferしましたが、果たして『喜び』が必要条件であるかは疑問であります。他人の悪い面を知ったとき、それは他人を理解したことになると思いますが、そこに喜びはありますでしょうか。
また、説明文中では、予測不可能性と理解との関係が明瞭ではないと思います。
>リアルな人間関係のほうが自分自身の人生観や生き方も変えられる可能性があるのではないかと思います。様々な意味で利点があると思っています。
それが利点であるかは疑問です。現実世界の人間関係によって磨耗したり、犯罪を行った人だって、何らかのeventで自分自身の人生観や生き方を変えられたのではないですか?
これらの疑問及び反論全般を通して、
>「理解」の内容が内部制作の他人と外部の他人とで異なる。
については納得できませんでした。
>以下の議論へ感情的な反論と理性(論理)的な反論の双方を書いて下さい。
です。
定形できるのに、今現在定形出来ていないから、そういう犯罪が起こっているのかもしれません。
その主張を受け入れるには愛の定形の不可能性を論証しなければなりませんが、それはまた別の所でやることにしましょう。
http://x51.org/x/04/07/0800.php
X51.ORG : 恐怖が消え去り、全てが性交の対象になる - クリューバー・ビューシー症候群とは
再度回答です。このテーマは考えるうちに色々な問題が出てくるので面白いですね。面白すぎて1回目はかなり焦点ボヤけましたが(^^ゞ
前回、語義の一般性が成り立っていないと言ったのは、より明確な議論のために、「理解」など多義になりうる言葉について定義を明確にしておく必要がある、ということです。前回回答7~8行目が誤りである、とおっしゃるならば、内部制作の他人に対する理解がどのようなものか、コメントして下さることを期待していたのですが、残念です。まぁ回答にそう書いとけば良かったんですが笑(外部の他人は予測を超えた言動をしますが、内部制作の他人の言動は常に自分の想像の範囲内ですよね?従って、両者の「理解」は異なるものだと思うのです。)
まぁ、今回も似たようなテーマなんですが、今度はストイックに一点張りで笑。端的に言います。
「愛」は定義不可能。少なくとも、演繹的に定義されるものではない。C3のような命題をあげる前に「愛」の定義を明確にしなければならない。
「愛」は人それぞれのカタチがあります。恋愛一つをとっても様々です。それを一部の人達の頭で考えて、あるべき「愛」のカタチを定義する(例えば「愛」の必要条件を決める、という形式で定義する)ということは無意味です。つまり常にそれを逸脱する愛が存在する可能性があります。ご自分がそれを愛と呼ばない、と主張するのは勝手ですが。それが語義の一般性がなりたたない、ということでもあります。ここにおいて無理に社会一般の通念としての「愛」を作り出すことは危険※ですらあります。不完全に「愛」を定義して、それ以外の愛を実践するヤツは人間じゃない、なんて本気で主張したら人権侵害ですよね笑 その意味では「楽しい」とか「悲しい」とかを無理やり定義するのと似ている気がします。(※例えば独裁者が挙国一致で戦争を行うときにはよく「平和」のために、「国家」のためにと主張します。抽象的な概念の単語を振り回すことはそれ以上の具体的な考察を省略することになるので危険です。詳しくはちくま新書「『脳』整理法」(茂木健一郎著)の「偶有性」「大文字の概念」に関する記述を参照。リンク先は本の紹介http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003795.html)
むしろ、愛は論理より感情が先にあります。愛すべき理由が見つかるより先に「愛」を感じるのです。ちなみにいわゆる人や物の好き・嫌いは脳の扁桃体の活動が深く関わっていると言われています。早い話が、そこが活動した時に愛情を感じたり、嫌悪を感じたりするということです。扁桃体が障害される疾患にクリューバービューシー症候群があります(上記URLなど参照)。扁桃体が破壊されたサルは何とでも(無生物とでも)性交しようとします。人間では、地面と性交しようとした例もあります。それでいて他の高次機能(読み、書き、など一般的な認知機能)は正常です。それくらい、扁桃体の威力はスゴいです。クリューバービューシー症候群の症例から分かるように扁桃体は時に大脳皮質の判断に優先するということですね。冒頭URLはカルト系ニュースで、あたかも扁桃体は性交するためにあるみたいな印象を受けるかもしれませんが、現在知られている扁桃体の役割はあくまで(人や物に対する)好き嫌いの感情を生み出すことです。あしからず。
つまり、愛の定義があるとすれば、あとから帰納的に表現したものに過ぎないということです。それで先ほど、愛をいくら定義しても、「常にそれを逸脱する愛が存在する可能性があります。」と言ったのです。
もちろん、扁桃体が活動するような愛とは違うものを愛と定義しているのだ、とあなたが主張することは可能ですが・・・それは恋愛や親子愛など『社会的に見てtrue』な愛ではないでしょう。
要するに、愛は、一部を記述可能であるとしても、全てを包含するように定義することは不可能です。
あなたがたとえ虚構のキャラクターに恋したとしても、それは愛の一つの形であって、その一経験によって愛が定義されるものではありません、よね?
以上は一応、論理的な反論にしといてください。感情的な反論はもちろん、「勝手にしてくれ」です。こういう主観的なことがらですので。ストーカーのたぐいは人権侵害ですので、愛の定義とは別の問題ですね。追っかけやファンクラブは社会のルールを守ってやってくれれば誰も怒らないし、間違ってないと思います。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/brain4.html
�l�͂Ȃ������邩�E����
ちょっと文学的でおおげさな説明な気がしますが、ここを見れば扁桃体がどういう働きをするか分かります。
で百歩譲って、「愛」をすべての人が「愛」と称するものの和集合と考えたとしても、
C3.理解は愛の必要条件である
は、根拠がないです。恋愛に例を求めるなら、お互いに理解していないけれど愛し合っているカップルなんていくらでもあるのでは? もちろん時期が経つにつれてお互いの理解は深まっていくのでしょうが、はじめから理解できているカップルなんてなかなか無いんじゃないかな。はじめから完全に理解できてたらやることなさそうだしw また理解が深いほど愛が深いかといえばそれも違うでしょう。結婚したらお互いの悪いところが見えてくるといいます。結婚は忍耐だとか言ってる人はこういうことを指してるんでしょうね。そして互いの欠点を受容すれば、そこには新たな夫婦愛があるのでしょう。この受容は、互いの欠点を理解する事とは限りません。あきらめるとか見慣れるというのも受容の一つの方法です。いずれにしても、理解度と愛は必ずしも相関しません。cogniさんならそこで、全く理解しない愛などないだろうから、やはり全ての愛において理解がある⇒理解は愛の必要条件なのでは?と思うかもしれません。しかし、C3において理解のある/なしを問題にするならC2における内部制作の優位性は消滅します(外部の他人に対しても理解は存在する)。C3は「理解が深いほうがよりよい愛となる」など、質的関係に言及した命題にしないと論理がなりたちませんね。
URLは愛について書いてます。上記の私の主張の通り、全ての愛を記述するものではないですが、結構いろいろ載っててイイですネ笑
cogniさんの定義と上記URLの記述の違うところは、後者は愛について記述しているだけで、愛のあり方を制限していないところです。前者の「~は愛の必要条件である」という表現は、~をもたない他の愛を愛として認めないということです。これにはそれなりの説得力のある説明が必要です。
追伸:ていうか、内部制作の他人にたいする愛(とくに恋愛)ってオナニーと対比させてもいいような気がしました。相手が外部世界に実在しないって言う点で共通ですよね。
理解については、ある程度の共通了解が得られており、議論で使用できる程度の明確さがあると考えておりますので、余り詳しく話そうとは思っておりません。
個人的には、
>外部の他人は予測を超えた言動をしますが、内部制作の他人の言動は常に自分の想像の範囲内ですよね?
という前提は認めますが、この前提から
>従って、両者の「理解」は異なるものだと思うのです。
という結論にジャンプするのはよく解りません。
まあ、それは別の話題ということにしておきましょう。
>「愛」は人それぞれのカタチがあります。
ということですが、虚構への愛は認める、ということでいいでしょうか(後半を見るに、肯定いらっしゃるようですが)。C系列に反論するということは、C-2を認めてしまうということです。認めてしまうと、オタクの萌えを批判することは出来なくなります。
>つまり常にそれを逸脱する愛が存在する可能性があります。
いや、必要条件さえ満たせば愛と呼べるので、条件を満たしていれば逸脱しても構わないのですが。
>不完全に「愛」を定義して、それ以外の愛を実践するヤツは人間じゃない、なんて本気で主張したら人権侵害ですよね笑
不完全に「愛」を定義して、それ以外の愛を実践するヤツは人間じゃない、なんて本気でストーキングなどの行為に罰則を与えている我々の社会は、人権侵害を犯しているでしょうか。
その辺り、文中の文言である、
>ストーカーのたぐいは人権侵害ですので、愛の定義とは別の問題ですね。
という文と齟齬が見られるような気がします。
「ストーキングは間違った愛」だから「人権侵害」なのでしょうか。それとも「ストーキングという行為自体が人権侵害」なのでしょうか。まぁ、これも本質問からは少し外れてしまいますので、別の時にでも。
>愛は論理より感情が先にあります。愛すべき理由が見つかるより先に「愛」を感じるのです。
本質問は、どういう条件で「愛」を感じるのかという議論でもあります。感情が先にあるからといって、論理でその必要条件を解明できないとは証明されていません。
>あなたがたとえ虚構のキャラクターに恋したとしても、それは愛の一つの形であって、その一経験によって愛が定義されるものではありません、よね?
はい。だから、一般了解としての愛のあるべき形を皆さんと議論しております。
>こういう主観的なことがらですので。
なんか相対主義の香りが。
まぁ、そういうのは簡単なのですが。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html
この辺りの『「相対主義」が嫌われる理由』を読んで下さい。
>お互いに理解していないけれど愛し合っているカップルなんていくらでもあるのでは?
ここには暗黙の前提として、「カップルならば愛し合っている」という命題があると思いますが、果たしてそうなのでしょうか。
>そして互いの欠点を受容すれば、そこには新たな夫婦愛があるのでしょう。この受容は、互いの欠点を理解する事とは限りません。あきらめるとか見慣れるというのも受容の一つの方法です。
うーん、「欠点を理解した」後の行為として、諦観とか慣れとかがあるような気がしますが。欠点を理解せずに受容しようとすると、何を受容すればいいのか解らないのでは。
>後者は愛について記述しているだけで、愛のあり方を制限していないところです。
そう、その記述はfalseであるかもしれないということです。偉人による愛についての曖昧な言葉なんて、共感にしか訴えることの出来ないくせに、過大に擁護されてしまう変な言葉だと思います。
>内部制作の他人にたいする愛(とくに恋愛)ってオナニーと対比させてもいいような気がしました。
個人的には、外の人に対する愛って、オナニーと同類と言ってもいいような気がしています。ああ、これは独身男性男の僻みです。
あと、ちなみに、僕が上の議論を本気で信じているわけではないので、返答1でも書きましたが、頭の体操程度と受け取って下さい。
http://www.hatena.ne.jp/1129342127#11
人力検索はてな - 以下の議論へ感情的な反論と理性(論理)的な反論の双方を書いて下さい。 A1.人間は外部世界(外部)を認識する A2.外部は認識によって内部世界(意識、内部)に現れる A3.外..
A1.人間は外部世界(外部)を認識する
A2.外部は認識によって内部世界(意識、内部)に現れる
A3.外部の認識はいつも不完全である
C-1:内部化された外部は外部そのものではない
(感情的に)
①内部も外部も自分によって構成されてる。
②内部は俺で外部は他人。それ以上ではない。
(論理的に)
内部があるのであれば外部があり、外部があるのであれば内部がある。
A2のように内部=意識という判断であれば、外部には二通り存在することになる。
一つは理解している外部。二つ目は理解していない外部。
前者は、自分の意識したことを言葉あるいは行動で他に示したときの対象。
後者は、自分はまったく理解していない未知、あるいは不可知のもの。
つまり後者の場合は内部に還元されることはないので、A1,A2は正しくない。
そもそも内部と外部が存在するのであれば、そのしきりが存在するということになる。
そのしきりが、自分自身の体であるならば、外部の認識は完全であるといえる。
つまりA3は正しくない。
もしそのしきりも自分の内部、あるいは外部に存在する不透明なものであるとすれば、どこからが内部でどこからが外部か自分自身で判断できていないということになるので、A1,A2は正しくない。
つまりA1~3は直結していない。
C-1について。上記によって考えると、内部と外部のしきりがはっきりしている場合、内部は内部であり外部は外部でありそれ以上のものではない。つまり内部と外部が混在することはありえないので、正しくない。
逆に内部と外部のしきりがはっきりしていない場合、内部の外部が混在することになり、そもそも内部も外部もなくすべて一緒と考えて差し支えないはず。
つまり、内部化された外部というものすらなく、文自体が成り立たない。
結論:A1~3およびC-1は正しくない。
Aに対しての回答がなかったようなので、書いてみました。
屁理屈かも。。
>つまりA1〜3は直結していない。
とのことですが、確かにA系列はC-1に納得してもらえれば別に必要は無いんですよね。論理的な帰結でないことは了解しております。一応のため書いた部分です。
>A2のように内部=意識という判断であれば、外部には二通り存在することになる。
>一つは理解している外部。二つ目は理解していない外部。
そうなんですか?
もしそうだとしても、
>前者は、自分の意識したことを言葉あるいは行動で他に示したときの対象。
>後者は、自分はまったく理解していない未知、あるいは不可知のもの。
>つまり後者の場合は内部に還元されることはないので、A1,A2は正しくない。
この辺りは不可解です。
外部の『全て』が内部化されるとは書いておりませんので、外部世界に不可知なものがあっても反駁したことにはならないかと。
>そもそも内部と外部が存在するのであれば、そのしきりが存在するということになる。
これはtrue。
>そのしきりが、自分自身の体であるならば、外部の認識は完全であるといえる。
しかし、これは全く解りません。論理が飛躍しすぎでは。
一応、認識における内部/外部の境目というのは、主観性の届く範囲みたいなものを想定しておりました。
>つまり内部と外部が混在することはありえないので、正しくない。
なるほど、内部化された外部(=内部の一種)と内部に起因する内部が混在することはない、という前提に立っているわけですね。これはB1、B2に関わってくる問題になりますが、当方が論点先取りでA系列に挙げてしまっていたのかもしれません。
まぁ、C-1を擁護するには、主観的な外部認識が正しくないこと、例えば幻の存在などを指摘すればよかっただけかもしれませんけれど。
http://www.188.jp/mika/Kotoba/001.html
Vincent-Mika
AだとかBだとかごちゃごちゃわからないけどさ、結局持ち出した結論は「現実の他人に愛を抱く者は人間ではない」だろ?
そりゃ結論が間違ってんだからどっか前提がまちがってんだよ。
>そりゃ結論が間違ってんだからどっか前提がまちがってんだよ。
妥当な推論だと思います。しかし正しくは、結論が間違っていると『思う』からである、とも反論させて頂きます。間違っているとは限りません(あくまでこちらの立場上の反論ですが)。
>自己を認識することによって外部を認識できるようになるんだ。
群生し始めて自己が生成された、という意見もありますが、この命題の論拠はどこなのでしょうか? 皮肉などではなく、本当に知りたいです。
>細菌やウイルスでさえこの自己認識機能によって唯一、自分と他己を識別できる。
参考サイトは、かなり低次のレベルでの話のようで、高次の自己認識、つまり我々人間が行っているrecursive、もしくはメタなそれと同様に扱ってよいのかは判断しかねます。一応、この議論は、質的で主観的な意識から派生する認識というレベルでの議論ですので。
植物でなくとも、我々人間は免疫機能系で自己認識をしているわけですが、幾つかの免疫機能系が破壊される病気になったときも、我々は自己同一性を保存しているようです。そういう事例から考えると、低次での自己認識機能を高次に直接アナロジカルに持ってくるのは危険ではないかな、と思います。
もしそういう単細胞生物並の生物が意識を持っていて、recursiveな自己認識が出来るという論文が出ていれば、是非教えて下さい。個人的にはまだ犬猫レベルに自己認識機能はあるのか、というレベルの話が一般的だと思ってました。
>自己の認識が充分であれば、起因が内在的なものなのか、外来的なものなのかは容易に識別できるからね。
そうですね。
でも自己の認識が十分になることはありえますでしょうか。
指摘されて気付きましたが、当方には、「人間である限り、自己認識は不十分である」という前提があったようです。そもそも「十分」というライン自体の線引き自体が難しい問題であるとも思いました。人間はいつだって(デカルトのように)何かを疑えるわけですから、外界が不確実か確実かを一意に線引きできることは出来ないのでは、ってこれじゃ実りの無い懐疑論ですね。
>m9っ`Д´) 自分を見つめなおすんだね。
この対処法はいささか不適かと思いました。内観をすることで自己認識が上達するのか、そもそもどのような状態が「よりよい自己認識」なのかという面白い問題が派生してきます。個人的には内観でどうこう出来る問題ではないと思います。
http://www.bk1.co.jp/product/1666673
オンライン書店ビーケーワン 404 ページを表示することができません
反論の余地がありすぎてどこから突っ込めば良いのか迷いますが、
出来るだけシンプルに答えてみましょう。
まず感情的反論。かわいそうな人ですね。
以下本題。
A1~B1、B3までに異論はありませんので、ここまでは前提とします。
B2がポイントになります。この条件はA3に矛盾します。
A3によれば、外部と内部に差異が無いと感じるのは当人だけで
実際には必ず差異が生じます。外部の認識は常に不完全であるからです。
よって、B4以下の条件は全て破棄されます。
蛇足として議論を続けるならば、
B2’内部によって制作された外部は常に不完全である
B3 他人は外部の一つの物事である
B4’内部によって制作された他人は常に不完全である
B5’人は自らに対する正しい認識を望む
B6’よって、内部に制作された他人は常にアップデートする必要がある
といった展開が予想されます。まだ愛に対する言及にたどり着いていませんが、
前提をひっくり返した以上、今後は方向が変わって行きますので
反論としてはこのへんで十分かと思います。
URLは認知科学の良本です。
>B2がポイントになります。この条件はA3に矛盾します。
>A3によれば、外部と内部に差異が無いと感じるのは当人だけで
>実際には必ず差異が生じます。外部の認識は常に不完全であるからです。
先述しました通り、質問文には500文字制限があったため、説明不足の点が多々あることをご了解して頂いた上で、反論したいと思います。
(質問文で句点を外しているのは文字を極力減らすためです)
反論を受けた、B2ですが、
>B2.内部によって制作されたものは、外部のそれと比べて差異は無い
の『外部』とは、正確に言えば『認識した外部』つまり『内部化された外部』のことです。
(この議論で比較しているのはあくまで、主体による認識での話のつもりでした。外部は必ず内部化されると考えるのがA2であり、A2以下において『外部と内部を比較する』というときは必ず、『内部化された外部と内部を比較する』という文と置き換えることが出来る、というわけです。)
よってA3とは矛盾しておりません。
こちらの立場から感情的に反論してみますと、「まだ現実世界に拘っているとは、かわいそうなヒトがいるのだな」という感じでしょうか。
ご紹介頂いた本は何度も読み返しています。
下條先生は新刊を出してくれないのでしょうかね。
http://www.chizumaru.com/index.aspx
������ - �ȒP�����I���������I�n�}�T�C�g
では理論的に反論...だと思う。
C-1は「内部」の仮定とする。
C-2は矛盾している。
C-1にて内部のそれは、外部そのものではないと定義している。よってB2,B4,B5が否定され、内部の他人への愛と外部の他人への愛は同一ではない。
C-3は証明できていない。
C2は前提条件としては不十分。「理解という質的な面」だけが勝っていれば、すべてに勝っているのか?この疑問が残る。
C3も不十分。理解は愛の必要条件の1つかもしれないが必要十分条件ではない。
よってC-4は証明できない。
D1として、マゾの人は存在しない。なぜならば、精神的に痛めつけられて快感を得られてても、質的に傷を作る人間が居るはずがない。正しいか?
>C-2は矛盾している。
>C-1にて内部のそれは、外部そのものではないと定義している。よってB2,B4,B5が否定され、内部>の他人への愛と外部の他人への愛は同一ではない。
について。
返答10にて、
>(この議論で比較しているのはあくまで、主体による認識での話のつもりでした。外部は必ず内部化されると考えるのがA2であり、A2以下において『外部と内部を比較する』というときは必ず、『内部化された外部と内部を比較する』という文と置き換えることが出来る、というわけです。)
と述べている通り、A2以下では内部化された外部と内部を比較しております。
ということで、C-2は恐らく矛盾していないかと。
>C2は前提条件としては不十分。「理解という質的な面」だけが勝っていれば、すべてに勝っているのか?この疑問が残る。
>C3も不十分。理解は愛の必要条件の1つかもしれないが必要十分条件ではない。
これについては仰る通りです。
返答4にて、
>この命題についての脆弱性は、承知しております。
>(だからここへの反論がすぐに来ると思っていました。)
>>愛の中の理解面では虚構が勝っていても、その他の部分が現実が勝る事の証明が不十分である。
>この反論については、こちらが敗北せざるを得ません。
と述べた通り、十分条件と指定しておりませんので、脆弱性は残ります。
ただ、その上記返答欄にて、
>ただ愛の必要条件が他に何があるか、というと中々思い付きませんし、仮に思いついたとしても、その要素において虚構の方が質的に勝ることの証明が出来てしまいそうです。
と述べている通り、何か他の条件を持ち出して十分条件として成立させても、その追加された各々の条件において、虚構の優位性を論じることが可能ではないかと思います。
D1への反論については、示唆されているところが少しわかりませんでした。申し訳ありません。
http://event.yomiuri.co.jp/2004/S0178/top.htm
フェルメール「画家のアトリエ」 栄光のオランダ・フランドル絵画展
2番目の参加者です。わたしはただの美術学部卒で美術畑で生きてる者ですが、気になる話題なので再回答します。その立場から反論になるかどうかは微妙ですが。
先ず、cogniさんから頂いたコメントへのレスを書く形で、与えられたテーマを探りたいと思います。
>YOWさんの議論を容認すると、虚構世界の優位性は失われますが、
クリプキの「可能世界」ではおそらく、虚構世界も現実世界も、同等に包有して「全世界」として扱わないと、即論理が成り立たないので、この流れでも現実より虚構が劣位になるということは、ないのでは。
案外虚構が優位になるという結論が見えてきそうな気もするんですが。わたしにはまだ、まとめきれてないです。
オタクの同人誌は、ある創作物のキャラの占める位置・場所はそのままで、オリジナル作には描かれていない「要素」や解釈を加えることで作品やキャラを弄ぶ、二次創作(パロディ)ものがありますが、
同人でなくても究極に言ってすべての創作物や表現は、何かの事象・事物の「解釈」や「アレンジ」の賜物だと言えます。
●虚構で重要なのは「理解」より「解釈」←【B1】(「反論」にはなってませんが…。以下ほぼ「論理的」の方です)
3番目の回答者の方が、
>例えば、外部にある音楽、絵、小説、映画などを内部で製作できるだろうか。
という疑問を提示しておられましたが、これは完璧なバーチャルリアリティが出来たなら、再現可能になるはずだと思います。たとえフェルメールや雪舟であっても。
あと、個人的に大いに期待したいのが、亡くなった生身の人間の舞踏芸術の再現ですね。
ニジンスキーの『牧神の午後』も中村歌右門の『娘道成寺』でも、映像記録さえあれば、
有能な舞踏家と解剖学者とによって詳細に分析され、ヴァーチャル舞台が製作される時代がいずれくるかも知れません。
【C-1、B1、B2】以下の話はチューリング・テストを思い浮べて頂くと良いのですが、
現代の我々にとり、もはや「フェルメール」と言えば人間フェルメールなのではなく作品自体が「フェルメール」でなのあって、実は作品や表現の方こそがその人の実体よりも「優位」となっています。
ゆえにここから、わたしのような目利きや鑑定家の脳を心底感嘆させる「フェルメール」であるには、必ずしも100%完全無欠な再現でなくても、はっきり言って良いはずだ、ということにもなります。
ただし、その作品がどんな織りのキャンバス布を使って、どこで産出された顔料をどの制作段階で使用し、どんな精製油と樹脂をどんな配合で調合し、どんな筆で、どんな筆さばきで描かれているか、
そうした分析研究も実際進められてきているので、そうした結果をきちんと踏まえた、非常に精確なヴァーチャル再現であればそれで良い、ということです。
また、たとえば水墨の世界で「筆法」といって先達者の筆さばきの型を身につける修練が古くからありましたし、
西洋画法の世界でも、下記URLの画塾のように、ルーベンスやラファエロ等の画法を修得させる方法論が確立しています。↓
ところが、それでも「オリジナルの絵画はもう焼失しても良い」とは決してならないわけです。
その絵によって、フェルメールが現実を捉えた「その解釈のあり様」の第一発見者となったことが、ずっと偉いからです。(ここで位置の優位の話に戻る事になります)再現された物よりも優位と“される”、ということでしょうか。
こういうのを哲学では『転移の位置』と言います。想像ではいくらでもこの虚構の再現物との「優劣」関係は逆転できるのに、現実には起こりません。
「人々が一様にそのように扱うはずだろう」という予想に強固に縛られている事こそ、実際に人間の普遍的価値観を支える「かなめ」になっているのです。(↑ちょっと【B5】)これはカリスマ論と同じです。
その「強固な縛り」からも、とにかくキーポイントは、「理解」ではなく「解釈」なのだと思います。
さらに、パロディという二次創作も、無下に軽視されるものではないことになります。(ex.ボッティチェリの『ヴィーナス誕生』も、何かの二次創作と言うことは充分可能です)
また上記の「発見」というあたり、これはもういわゆるStand Alone Complexというヤツです。
どんな優れた表現でも、いずれもこのような勘違いから出発するのだ、というところは大変ミソだと思います。(←【C2】)
そのアーティストは「何かを発見した」と思い込んでるけど、実際は本当はただのありふれた事物に過ぎなかったりするのです。(ex. どんな美少女も細胞レベルにまで分解すると…)
ちなみに、「愛というのは抽象だから」という具合に、「抽象」と「具象」とに物事を切り分けるのは、この場合、あまり関係のないことで、
十人十色な愛の「内容」が優位なのではなく、「愛」という概念の位置が優位であればこそ、
人間は色んな愛の内容を自由に盛込む事が可能になるわけです。(シニフィアン/シニフィエというヤツです)
「それじゃあ『愛』というのは神が…」としても、哲学では「それも人間的勘違いに過ぎない」とということになります。これは哲学上の主観/客観命題にも繋がります。
●虚構への愛にとって「理解」に代わるXは「切なさ」では (→【C-2】【C-3】のほぼ擁護?)
>また、愛の必要条件で『理解』の他に挙げられるものをXと仮定して、
>Xが現実より虚構の方で優位に立つならば、C系列を全て入れ替えることで、C-3及びC-4は擁護できるかな、と思います。
これにはわたしからは「理解」に代わるものとして「切なさ」を挙げたいと思います。
で、あらゆる芸術において、「切ない」というのは、徹底して演出で「作り出す」ものなんです。
言うまでもなく、ラブロマンスの「引っぱり方」はそうです。
例えば、映画「イノセンス」DVDの特典映像で押井守は、最後に素子とバトーが別れるシーンで、「映画の別れを予感させるような背景や構図の作り方について、誰某とよく議論したなあ」などとと仰ってました。
下のリンクで、ベートーベンのピアソナタ「悲愴」第2楽章が聴けるのですが、
[ベートーベン「悲愴」第2楽章]
(↓このページより)
このように「切なさ」については、現実より虚構では増幅され更に印象が強化されるものだと思います。
本当は「ただの音の配列」でしかないのに、きゅんと切ない感覚が引導されるわけですね。これって実際、異様に不思議な現象だと思いませんか?
「切なさ」について、哲学で説明されるのでたしか「余剰」だったと思うのですが、
これは結局フロイトの「エディプスコンプレックス」も同じ事を言ってるのですが、
「かつて、充たされた状況があったはずだ」という勘違いが予めあって「なのに何かを失って充たされなくなった」という更に勘違いの欠落感が、いつからともなく心の中に現れ、
失ったその何かをずっと追い求めてやまず、或いはさらにその失った「原因」をルサンチマンしたりする、
というような人間の心の(あるいは社会全体の)現象を説明する論理があります。(今、脳内で『最終兵器彼女』のオープニングテーマが流れています)
「かつてあった充たされた状態」という前提を考える事や「失った何か」を想定する事そのものが、「勘違い」なのだとして論じられていきます。
「思春期」というとなぜか無性に切ない印象がするのも、「原初の喪失の物語だから」として説明されたりします。
再回答ありがとうございます。
本来の議論とは少し離れてしまったようにも思いますが、非常に面白く読ませていただきました。
なるほど、虚構に対しては理解より解釈、というのは興味深いところです。美術に関しては全く無知ですので、後ほど自分で考えてみたいと思います。
「切なさ」に関しての議論も同様、精神分析には疎いもので今すぐ返事できるようなものではありません。挙げられたキーワードを意識しながら、勉強してみようと思います。
【価格.com】 賢者の買物 - 価格比較・クチコミ・レビュー
再度挑戦。
>A2以下では内部化された外部と内部を比較しております。
>ということで、C-2は恐らく矛盾していないかと。
ならば、現実の他人は内部化された外部と同等であり、内部のそれと内部化された外部の差異を求める正当性を述べなければならない。
C-4を言い換えれば「内部化された外部に愛を抱く者は人間ではない」...オタクの萌え(愛)の完全否定!?これで正しいか?
C1の対偶...マックでは人間であればビッグマックを注文する。お腹いっぱいでも、お金が無くても。
人間には感情と言う物があり...うっ、証明できない!...必ず質的に勝る方を取るとは限らない、と思うが。これは感情的反論かな~。
C3は証明しない限り推論に使用してはいけません。「愛」の定義自体もないのでなんとでも反論できるでしょうから。ここに仮定を持ってくることは御法度ですね。
>ならば、現実の他人は内部化された外部と同等であり、内部のそれと内部化された外部の差異を求める正当性を述べなければならない。
「通常、外部と内部には断絶があると考えられており、その誤った前提を論駁するため」というので正当化出来ますでしょうか。
>C-4を言い換えれば「内部化された外部に愛を抱く者は人間ではない」...オタクの萌え(愛)の完全否定!?これで正しいか?
C-4を言い換えれば、C-3になるような…。
>人間には感情と言う物があり...うっ、証明できない!...必ず質的に勝る方を取るとは限らない、と思うが。これは感情的反論かな〜。
仰ることは理解しているつもりです。単一の質的な面の比較であれば話は簡単ですが、複数のファクターがあるときは確かに問題であると思います。
以前の当方の返答には詭弁が入っていますし、これはこちら側の再考が必要ですね。
>C3は証明しない限り推論に使用してはいけません。「愛」の定義自体もないのでなんとでも反論できるでしょうから。ここに仮定を持ってくることは御法度ですね。
前提:語義の一般性
ということで、愛には理解が必要である、というのは一般的じゃないかなぁ、と思っております。
これにて質問を打ち切らせて頂きます。
議論に参加して下さった皆様、どうも有難う御座いました。
投稿時に500文字制限があったため、議論の細かいところは省いています。そのため、非常に粗い議論になっていますが、大まかなところでそれぞれの命題に納得していただければ、一応は通じるのではないかと考えております。
>意識があるからと言って、人間が外部世界を認識すると、なぜ言えるのか。
通常、『意識』は外部の認識を行うものであると思われます。よって『語義の一般性』の前提によって、その反論は棄却されるかと思います。
もしくはA1を前提として考えてくださっても構いません。以下において人間は外部を認識するものとします。
>感情的な反論
そう、(某曰く)今の多くの(人間と見なされる)者はただのオートマトンであります。
尚、元ネタはわかる方にはわかるかと思います。
質問自体馬鹿馬鹿しいのも十分承知しておりますので、頭のトレーニング程度にご回答頂けると幸いです。