あなたは、どう考えてますか?また、それはなぜですか?
たとえば、9×9=81 の数値を疑うことは、日常生活を煩雑にし、
きわめて不能率なので、すべての国民に“九々”を教えます。
もしも例外が発見されたら、教科書のほうを書きかえるでしょう。
教科書に掲載されていることで、証明できるかどうかで区別できます。
血液型も、占星術も、歴史も、教科書にもとづいて論証できなければ、
これらを科学として認められないでしょう。
いかに信仰の自由を尊重しても、つぎのような前提は譲れないのです。
「すべての生物には親がいる(Spallanzani, Lazzaro)」
したがって、前世・霊魂・奇跡などは、存在しない……。
(↓=私案)全国高校入試で、毎年出題すべき、五大設問。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050130
中学生諸君! ~ 与太郎の教材 ~
う〜ん。数学という形式上の手続きの問題ではなくて、ここでの科学というのは、自然科学ということで再考願います。
追記:
コメント欄より~そうですね、数学も自然科学です。ただ、論理となると人文科学かなと思っていたもので。
それでは、「なぜ論理は基準を与えるか?それだけしか基準を与えることはできないのか?」ということについてadlibさんの考えをよかったら聞かせてください。
第三者が追認できること。あるいは反証が――間違っているということの追認――が可能であること。
これがまず大前提としてあって、そしてそのような追認が数多くされることで、正しいらしいという認識が高まっていく。
それを「科学的な」プロセスとか「科学的な」手続きであると私は認識しています。
テレビなどでよく使われる言い回しの「科学的に説明がつくのでしょうか?」というときの「科学的」とは別であることに注意してください。
「科学的」と私がここで言っているのは「何かが正しい/間違っているという認識にいたるプロセスまたは手続き」です。
で。
そのプロセス、手続きを経て正しいとされたもの、正しいとされているものが今の科学。
そのプロセス、手続きを全く経ていないものが非科学(霊魂は存在するか? とか)。
いま正にその様なプロセスの真っ最中なものが「科学の最先端」。
そのプロセス、手続きを避けて通ろうとするもの。そしてそれでいてなお正しいと主張したがるもの。それがニセ科学や似非科学や疑似科学。
「第三者が追認できること」というのは、反証可能性と言われる考え方と捉えていいでしょうか。僕はもうひとつ聞きたいのです。なぜ、反証可能性を区別する基準としてあなたが採用しているのですか?ということなのです。反証可能性に限界はないのか?このあたりは、答えていただく方々の哲学が出てくると思っています。それも聞いてみたいというのが、本質問の意図なのです。
その事象に再現性、普遍性があり、自己が信じることができるものが科学です。当然妥当性を有する反証があるものは信じません。。怪しいが再現性、普遍性があり反証がないのであれば少なくとも頭ごなしに否定はできないと思います。よってニセ科学というのは反証が示されたものだと考えております。
でも結局直感です。所詮なにかに導かれて科学というものが起きたのではなく、人の直感の連続で科学が成されてきたのだという考えが、私の根幹にあるのだと思います。
つまり、再現性、普遍性を人間の直観が担保していると。ですが、そもそも反証が示せないというのが、ニセ科学の逃げ道になりませんか?
「99・9%は仮説」っていう本がありましたけど、私は「科学」というものは「永遠の仮説」のようなものだと思っています(もしかしたらこれが「反証可能性」ということ?)。
なので、逆に、これぞ揺るぎなき「絶対的な真理」である、セントラルドグマである、みたいに言い張る人がいたらその人の説は科学じゃないな、ニセ科学だな、と思います。
>なぜそれで区別できると考えていますか?
ということを答えるのはちょっと難しいのですが、例えば「自由」や「進歩」というようなことを考えてみた場合、前者、すなわち「永遠の仮説」であるからこそそれは可能なのであって、そうじゃない世界、たとえば、中世のキリスト教世界みたいなところでは「絶対的な真理」があるのでそこらはみだす自由も進歩もないわけです。
で、ここからが問題になるのですが、それでは今度は、「自由や進歩」を「絶対的な真理」にしているのではないか、という疑問が生まれるのですが、そもそも「絶対的な真理」ではないものを「自由」と呼び、そこからはみ出る運動を「進歩」と呼ぶのであれば、問題はクリアされるのではないかと考えています。
>なので、逆に、これぞ揺るぎなき「絶対的な真理」である、セントラルドグマである、みたいに言い張る人がいたらその人の説は科学じゃないな、ニセ科学だな、と思います。
そうなんですよね。まともで尊敬できるなと思う科学者というのは、何かを主張していても、「これはこのように得られたデータから判断する限り、このように考えられます」という謙虚さというものが感じられるんですよね。謙虚であらざるを得ないというのが、科学の限界なのでしょうか。
逆に、おっしゃるように、自由を可能にすることができるのが、科学のいいところなのでしょうかね。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/nisekagaku_n...
例えば、血液型占いなどのように、論理的・統計的な裏付けのないものをニセ科学というのでは、ないでしょか。
論理的、統計的裏付けのないものが、なぜニセなのですか。こっちのほうが、むしろ聞きたいのですが、質問の仕方が悪かったのでしょうか。。。
ニセ科学の見分け方は、根拠を説明するかしないか。
例えば、マイナスイオンや酸素水などはよく健康に良いと売り文句で謳っているけれど、なぜ良いのか?というのを説明しない。
この、「根拠」に関する説明が欲しいです。そして、なぜそう考えたのかも。
一般人にとって、科学とニセ科学を区別することに意味はありません。duck75さんが「永遠の仮説」と言っていますが、まさにその通りだと思います。時代が変われば科学も変わります。現在、科学だとされているものがニセ科学になることもありますし、その逆もあり得ます。
そこでどうやって科学と接していくかですが、一般人については自分の経験から信用できるかどうかで判断するべきだと思います。
どこで信用するかしないかというと、例えば、電子レンジなどの家電は実際に使ってみて効果があるので信用できます。また、ちまたで「これは健康にいい」などと食材やサプリメントについて言われることがありますが、栄養については判断しにくいことが多いので、栄養士を信用するか、そういった効果のわかりにくいものは全く信用しないかのどちらかとなります(これは非現実的なので、栄養士が言っている程度のことは信用すべきだと思います)。
経験から判断するといっても、実際にそれを使うきっかけとなるものが必要となります。それについては、結局のところ、その時代において多数の科学者が正しいと言っていることを信用する形になると思います。反証不可能性がニセ科学の逃げ道のように書かれていますが、これもうわさ程度の科学であれば信用しないだけの話です。
一般人が科学・ニセ科学を区別する必要はありません。ただ、それを信用するかしないかです。一般人からすると最先端科学もニセ科学も区別ができませんが、それを信用するのはその科学が常識になってからでも遅くはないでしょう。同じように、世間で評判であっても疑いましょう。一般人の科学との接し方はこれでいいとます。
しかし、科学者は科学とニセ科学を区別する必要があるのかもしれません。また、区別するために必要な「ものさし」を自分で用意しなければなりません。このものさしは科学的方法 - Wikipediaによって正しいとされるデータです。といっても、科学それ自体が仮説である以上、真の意味で区別することは不可能でしょう。そこで科学者ができることといえば、現在の知識・技術で得られた正しいとされるデータを並べて、他人(学会、世間)に信用されることだと思います。
そして、世の中にあふれる(自分の判断による)ニセ科学を排除したいと考えるのなら、それこそそういう信用される立場になる必要があります。一般人にとっては、「正しいとされるデータ」よりも「信用できる人の発言」の方が納得しやすいと思うので。多くの場合、説得に必要なものは論理ではなく情であって、これはあなたがコメントで紹介している菊池先生も言っていることだと思います。
質問の答え
・一般人の場合:区別する必要はありません。信用するかしないかです。どこで信用するかというと、自分の経験や複数の(または信用できる)科学者が正しいとしているかどうかです。
・科学者の場合:科学は仮説であるので真の意味で区別はできませんが、個人の範囲では科学的方法で得られたデータによって区別します。なぜそれが区別の基準になるかは、自分が正しいとする方法で自分が調べたことだからです(自分を信用できないのなら、科学者になるべきではありません)。また、(自分の判断による)ニセ科学を排除したいと考えるのなら、他人から信用される人間になる必要があります。そうすれば、世間から見て、その人自身が科学とニセ科学を区別する基準となります。
人間の信用度が基準になると。そして、科学では、実は限界があると。そして、ニセ科学に対する僕の持つ気持ち悪さは、専門外であると、僕自身も一般人になるときに、生じるんですね。一般論では、区別は不可能で、グレーゾーンがある。個別には、信用するか、しないか、説を唱える人のレトリック(ロゴス、エトス、パトス、それぞれでの説得性)によると。
偽科学と科学とは区別できないものだと考える。
偽科学と断定するための根拠が不明ならば偽科学だとはいえない。
現時点で偽科学でも、将来的には科学に変化するものも歴史的に見ればある。ただし、現段階でアヤシイとか少しヘンだと思うものが将来的には偽科学にはなるのかもしれない。
僕は、今言われているニセ科学は、科学にはならないと思います。ニセ科学は「科学のフリ」をしたベツモノだから、科学で対抗しようとしても不毛かもしれないという罠もあるんですよね。ベツモノの正体が詐欺的商売であったり、政治的アピールだったり、いろいろなわけですが、そもそも科学の土台に乗ってないものは、科学としてはどうにもできないんですよね。だから、そのベツモノの正体を暴くリストが必要で、かつ、リストに一般性のある基準があれば、それを体系化して参照しやすくする、などの努力が必要だと思っているのです。
一般的な分別法でその科学を知らなくても出来る方法として次のことが上げられると思います。
まず、論文として発表されていること。
そして、「査読」を経ている認知度の比較的高い機関の雑誌に掲載されている必要があると思います。
査読を受けると言うことは「あらかじめ同じ分野で仕事をしている他の研究者による評価」を受けると言うことですから、専門性のない人でもある程度の指針となると思います。
世の似非科学、疑似科学は論文はあっても査読を経てないものが多いですからこの切り分けは重要ではないかと思います。
次に、再現性と反証可能性、普遍性、論理的妥当性が上げられます。
この辺りは、他の方も言及しているので割愛します。
「研究者のネットワークのふるいにかかっているかどうか」ですね。これなら、研究者以外の人にも可能な判断方法かもしれません。でも、難しい。なんだか、「食の安全性」の話に近い話だなと、ふと思いました。それほど科学は消費されていないのですが。
私は科学の専門家ではありませんが、こういう事では?
1、 論理的に検証してみて矛盾がないかどうか確かめる。但し、自分の主観は交えてはいけない。
2、偽科学ではないと断定可能な過去の科学資料データを物差しにしてそれに照らして検証してみる。但し、偽資料は使えない。
3、実際に実験してみて、同じ結果が出るかどうか確かめる。
これでは納得出来ませんか?
偽科学と科学の見分け方が難しいのはわかります。科学の99%は仮説なのですから。思うに、科学のそれが偽かそうでないかは長い歴史が立って消えていくのは偽で、数千年たっても変わらないのであれば偽ではありません。
もっとも、喩え偽科学であったとしても、それが結果として社会や生活になんらかの有益な利益をもたらしているのであれば、それでいいと思います。嘘も方便で良い意味で騙されたということです。
科学はそれそのものに価値があるのではなく、それを実社会に応用していく所に価値が生まれるのです。
実社会に使えない科学ならあっても無くてもいいじゃないですか?
こんな回答ですいません。
ご回答ありがとうございます。「自分で確かめなくても分かる」ことが科学のいいところでもあります。もちろん、どうしてもその「科学を語るモノ」が気になれば、自分で検証すればよいのは、確かです。そこは、納得できます。でも、科学者も「どんな問題を科学的に問うか」ということになれば、好き嫌い、好奇心、趣味の問題になります。
あと、ここの質問は、「こういう問題を考えてみませんか」というつもりでしました。僕も自分で考えるだけでなくて、他の人がどう考えるかな?と思ったので質問したわけです。なので、「僕を納得させてくださいという質問ではない」ので、何か考えのある方は、どうぞ、答えてください!
あ、あと、基準として「時の試練」を挙げられてますね。これもありますが、やっぱり、おかしいことはできるだけ早くおかしいと気づきたいのが人情であります。
普通の回答から。
仮説生成→検証というプロセスを踏むものが科学の絶対要件であると考えます。従って、科学には仮説の反証可能性が担保されていることが必要です。
霊や前世、スピリチュアル、といった反証不可能なものは擬似科学でしょう。
逆に、「良い言葉は水の結晶の形を変化させる」、「マイナスイオンは体に良い」、「クラシックは植物の糖度を高める」と言ったいわゆる”エセ科学”と呼ばれるものは、仮説自体は反証可能なので仮説設定が間違っているだけであり、科学の範疇に入ると思います。
自分なりの回答。
科学の守備範囲は、世界の事象のごく一部であると考える姿勢も大切だと思います。特に心理学、マーケティングなどの自然科学以外の人文系の分野は、科学的な思考プロセスが全てを担保するとは思えません。
科学史哲学者のクーンが「パラダイムシフト」という概念を主張しましたが(後にクーンも立場を変えていますが)、人間の知的な営みは「世界の姿を、その当時の支配的な考え方に基づいて、一側面を切り出す」という作業の繰り返しであるという捉え方も可能です。
つまり、元々リンゴは落ちていたし、地球は変わらず太陽の周りを回っていたわけなのに、当時はパラダイムが違ったがために「科学的」ではなかったわけですね。
資本主義、民主主義、そして科学的思考プロセスが“現在のパラダイム”であるということを認識した上で、自分なりに科学との距離感を設定することが重要だと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B...
>科学の守備範囲は、世界の事象のごく一部であると考える姿勢も大切だと思います。
同意です。科学でないほうがうまくいくことはいっぱいありますものね。時代によっても、場所によっても、受け入れられて機能するかどうか違うわけですね。
信じるかどうかではなく、どのように区別するかという問題で考えていただけませんか?