「プロジェクトX」でも紹介されたという感動的なストーリー、是非是非教えて下さい!!
昭和30年代、日本は度重なる大型台風の上陸により甚大な被害に見舞われていました。富士の山頂に気象観測施設を設置すれば、レーダー探知半径が広がり、南方洋上から接近してくる台風を早期に発見できるようになる。標高3,776mの富士山頂にレーダーを設置することは、気象関係者にとって永年の悲願でした。
昭和38年(1963)6月、富士山頂への気象レーダー建設に着手したものの、工事は困難を 極めました。標高3,776mという史上例のない高地での大規模工事、そして乱気流 が渦巻く世界有数の危険空域・富士山頂への巨大ドームの空輸・・・。しかし、関係者の情熱と使命感は次々と起こる問題や難作業を克服し富士山レーダーを完成へと 導きました。
昭和39年(1964)9月10日、ついに念願の富士山レーダー完成。翌昭和40年(1965) 3月からは本格的な運用を開始し、「台風監視の砦(とりで)」・・・
http://www.tanken.com/fuji.html
富士山頂で最初に気象観測が行われたのは明治13年(1880)年8月。明治28年(1895)には、野中至が山頂の剣が峰に私設の観測所を設立しています。
昭和7年には中央気象台臨時富士山頂観測所が設置され、通年観測が始まりました。
昭和34年(1959)、伊勢湾台風で5000人以上が死亡。この惨事を受け、富士山頂に気象レーダーを設置することになりました。予算が通過し、着工したのは昭和38年5月。
このレーダードームは、風速100mに耐えるよう、アルミ合金で作られていました。直径9m、高さ7mの巨大な“鳥籠”で、骨組みだけで重さ620kgもありました。
山頂まではヘリコプターで一気に運ぶしかありませんでしたが、このプロジェクトの総責任者である気象庁の藤原寛人測器課課長の『富士山頂』という本によれば、
《(ヘリの)シコルスキーS62は下界附近においては600キログラムを運ぶことの能力はあった。だが、空気の密度の薄い富士山頂においては、揚力が減殺され、スーパーチャージ型エンジンをフルに働かせても、420キログラムが限度であった。……あらゆる重量軽減をほどこしても、尚制限重量を80キログラムオーバーしていた》
この状態ではホバリング(空中停止)は不可能なので、エスケープ(置き逃げ)することになりますが、
《置き逃げといっても、どこでもいいから置いて逃げるエスケープではなく、鳥籠の置き場所には1センチの狂いもあってはならなかった》
という厳しいものでした。
昭和39年(1964)8月15日、レーダードームの空輸が行われますが、運悪く山頂は無風状態。これでは揚力が得られないため、かえって危険度が高まるのです。ですが、最悪の条件下、奇跡的にエスケープに成功、ようやく富士山に気象レーダーが誕生したのでした。
総責任者の藤原寛人は、昭和41年に退官し、作家生活に入りました。筆名は新田次郎・・・
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