「理系の難しさ」は、私にとっては、主に、以下2つ。
(1)
「理系の難しさ」については、「論理性」という言葉より、「抽象性の高さ」という言葉の方が、私にはシックリ来ます。
理系的な論理で、ドンドン理屈を追って行くことで、「手でさわれる」「イメージ可能な」状態から、ドンドン遠ざかっていき、やがて、「(抽象的過ぎて)何がなんだかイメージできない」状態になり、お手上げになります。
新しい概念を習うとき「例え」が出てきます。
この「例え」を越えてしまう(イメージの外になる)と、もうお手上げ。
・自然数(1、2、3、…)は、理解しやすい
(「物」を数えるための道具)
・マイナスの数も、理解できる
(「借金」を想像すればよい)
・「ルート2」も、まあ、理解できる
(面積2の正方形の1辺の長さ)
・「ルート(マイナス1)」→ かなりイメージ困難
(「マイナス1の面積」の正方形の1辺って何だ???)
と、こんな具合です。
(2)
もう1つの難しさは、「記号」「記法」だと思います。
数学では「表記を簡潔にするため」に、記号・記法を使います。
例えば、こんな感じ。
1+2+…+10 = ∑(n=1~10)
「記法」で「表記を簡潔化する」ということは、その記法の中に「意味が詰め込まれている」ということです。
「意味の詰め込み表現」というものに、なじんでいない人からすると、「記法」を見ただけで、「なんじゃこりゃ?」となります。
「記法」「記号」を理解するだけで、ひと仕事となり、それで脳が疲れて「もういいや」となります。
実際の数式は、その記法・記号が、「何重にも重なり合い」それがまた意味の固まりになって、それをまた、ゴシャゴシャと計算する、なんてこともあります。
ここまで来ると「理解しよう」という気すら起きなくなります。
(3)
蛇足ですが、個人的な考えでは、「微分」の難しさは、上記(2)の記法問題が大きいのでは、という気がしますが。
あの「f(x)」が、どーしたこーした、っていう書き方は、その記法に馴染みのない人からすると、相当いやな感じなのでは、って気がしますが、どうでしょうか?
これは私の考えですが、それは理系は好きだが得意ではない文系は嫌いだけど得意と言う状態なのではないでしょうか?
つまり、理系は面白いけど上手く理解ができないか覚えられない。
文系は面白くないけど理解ができるかうまく覚えられる。
これが私の考えです。違ったらすいません。
その通りだと思います。ただ、もう少し突っこんで、おもしろいのになぜ理解できないのか、なぜおもしろくもないのに理解できるのか、教えてもらえるとうれしいです。単純に、理系はおもしろいけど難しいから理解できなくて、文系はおもしろくないけど簡単だから理解できるというのならいいのですが、それだと理系科目は得意なのに文系科目はできないという人を説明できなくなってしまいます。また、好きだからできる、嫌いだからできない、というのならわかりますが、好きなのにできない、好きじゃないのにできるという人がいるのは何故なのか、そこんとこを知りたいと思っています。回答ありがとうございます。
>どちらも「論理を追うこと」
これを言った人は文系だと思います。私は、理系とは人間嫌いな人というか自然を見て何か発見するのが好きな人で、文系は人間を見て人間とは何かを考えるのが好きな人だと思います。生物が好きな人はこの中間でしょうか。
物理は自然の動きや構造を説明します。化学は物質の振る舞いを説明します。数学は、それら説明する為を言語に相当します。
理系の人が文系の科目を嫌いなのは、文系の科目の教師がツマラナイ人間である(理系の人から見て)からだと思います。
また授業も教科書を読むだけで、実験等実技が無いのが退屈にさせます。
学校を出て年月がたてば、大概人間の歴史や文学に興味を持つことでしょう。
音楽や美術等は学校時代から趣味としてやる人も多いです。音楽も美術も数学で説明できそうで出来ないところが大変興味深いところです。
学校生活等で自分のミス等で自分が窮地に陥ると、理系なら黙るかぶっちゃけるかしますが、文系なら、責任転嫁して逃げるか大嘘かまして先延ばしするかします。
職業訓練等で言うところの「適性」は技能能力を指します。手先が器用かとか、同じことを何時間も繰り返せるかとかの傾向を見ます。
当人の興味の対象とは関係ありません。
ありがとうございます。
>理系とは人間嫌いな人というか自然を見て何か発見するのが好きな人で、文系は人間を見て人間とは何かを考えるのが好きな人だと思います。
このご意見には納得させられるものがありました。
文系理系分離論 ~ わたしのケース・スタディより ~
小学生のころから、やや不得手だった算数が幾何や代数になって益々
苦手になり、化学記号から化学式に至って、ついに絶望しました。
いまになって、担任教諭の影響ではなかったかと空想しています。
小学校三四年は理系の男性教諭、五六年は文系の女性教諭でした。
私立の中学校では理数英、高校では理理理とつづいた結果、留年して、
最後にようやく文系(日本史)の恩師にめぐりあいました。
担任以外の理系教諭に、とても現実的な合理主義者が存在しましたが、
むしろ文系教師に、現実的思考の持主が多かったのです。
理系教師は(一般論として)日常思考では精神論者らしいのです。
たとえば、なぜ勉強しなければならないか、という疑問についても、
理数系の担任は、だれひとり明快な理由を示してくれませんでした。
まじめに勉強するのが当然だ、と問答無用なのです。
ところが、ただひとり文系の先生は、つぎのように分析されたのです。
いまの高校教育は、大学進学のためのカリキュラムだから、学問的に
完結していない。すぐに役立たないのを承知で、大学を目ざすべきだ。
卒業目前に、初めてこのような論拠に接したのは、遅きに失しました。
いま思うに、小学校の文系の女性教諭も、受験については明快でした。
「首席でも末席でも、他人から見たら同格」という態度だったのです。
おそらく青少年期の適性などは、右利きか左利きかほどのちがいで、
社会人として要求されるのは、もっぱら説明能力ではないでしょうか。
すなわち、理系集団と文系集団では、説明技術がことなるのです。
小泉首相が「会社もいろいろ、社員もいろいろ」と答弁したように、
安倍首相まで「年金もいろいろ、掛金もいろいろ」とは強弁できません。
要するに、同意が得られない説明など、しょせんは無用なのです。
ありがとうございます。出会うことのできた先生の影響というのは大きいと私も思います。
理系でも生物や地学は暗記系が多かったはずです。
おそらくこの場合の理系好きというのは「より具体的な新しいこと、イメージしやすいことを知るのが好き」だからではないでしょうか。文系、主に歴史系が理解しやすいというのはある出来事が起こり次に何が起きたかという流れが分りやすいからだと思います。
物理や数学の微積は「あるきまりごとの中でものを考える」のが肌に合わないから不得意だったのではないでしょうか。基本となる抽象的な枠組みを意識してつかもうとしないと、どんなに問題を解いても身に付かないのです(論理的理解が出来ないため)。
論理を追うのは得意だけど文系が出来ないという人はおそらく「暗記が嫌い」または「現代文、特に評論の解き方を習っていない(これを教えるにはきちんとした訓練が必要で、良い教師に巡り合うのはまれ)」のいずれかだと思います。
論理を追うのは得意だけど理系が出来ないという人は「きまりごと」と「典型問題の重要性」を把握していないからだと思います。
数学も確かに論理的理解は必要ですが典型的な問題は暗記のような状態になっています。基本が大事、というのはこれを覚えないと論理的飛躍のある問題が解けないからです。また東大文系などの良問はこれだけでは解けず、文章を正しく読み取り論理的に考え試行錯誤する力が必要とされます。
こんな感じでしょうか。人に聞かないと分らないこともあると思いますがネットでは人に聞くのも簡単なのでもう一度挑戦するのも悪くないと思います。
余談ですがこれからは文理横断的な能力が必要とされることが多くなると思います。例えばそれは文化的衝突だと思われている問題の背景にある経済格差を解決したり、医療の発展とともに複雑化する倫理的問題を考えることなどです。
ありがとうございます。もう一度理系を勉強したいと思いますが、ネットで色々なことを調べたり聞けたりする現在は、どんな勉強をするにあたってもいい状況なのかもしれませんね。
高校程度なら、論理力が弱くても文系科目なら対処できる。微積や物理はもっと論理力が要求される。
論理力が足りなかったということでは?
ありがとうございます。微積や物理の方が論理力が要求されるというご意見ですね。
ただ、論理力だけの差であるとするなら、微積や物理のように高度な論理力を必要とする学問は得意なのに、文系科目は苦手とする人を説明できないと思います。
私の考えでは、
理系が得意の人は、論理的に物事を順序立てて組み立てていくことが得意な人が多いと思いますし、そのような人が多かったです。
文系が得意な人は、確かに理系の人のような方は少なからずいると思いますが、自分の感性を大切にする人が多いように感じます。
例えば、2人の男女があらそいを始めたとしたら、それを論理的に順序立てて「○○だから○○、だから○○。」というように解決するのが理系の人、でも逆に自分の感性で物事を解決するような人は文系の人という感じがします(あくまで全員が全員そうではないと思いますが・・・)
ありがとうございます。感性という点は確かに文系や芸術系に重要な要素ではないかと思います。理系にも感性やセンスがあると思いますが、文系のそれとは違う感じがしています。
中学からの流れでそうなっているのでしょう。
だいたい理系とか文系っていうのは算数でつまづいたかどうかだと思います。
一度つまづくとそこから挽回するのは難しいです。
ありがとうございます。小学生時の算数でつまずいたことは、確かにその後の苦手意識に大きな影響を残しています。。
理系が得意な人は、計算能力やイメージ能力(空間把握能力)が優れていると思います。
文系の人は、暗記能力の方が優れている人でしょう。
理科といっても生物は、勉強法でいえば数学や物理より、英語や社会のような文系と同じような勉強法になります。
地学も文系の勉強法の部分が多いです。
もし理系が好きと言われてもこの辺が好きでしたら、理系か文系2つに分けるとしたら文系でしょう。
(高校生で生物とかに興味がない理系だったら、生物は好きでなく、そんなに得意でないと思います。勉強法が文系なのだから)
もしかしたら生物などは、理系より文系の人の方がテストの点が良いかもしれません。
(生物は暗記能力とか、こつこつ暗記するのが重要なので)
どんなに勉強しても苦手な分野がものになり難いのは、勉強法や考え方に問題があるからだと思います。
僕は理系が得意で、文系が苦手でした。
数学などは中学時代学校以外で勉強しなかったと思いますが、常にトップクラスでした。
(中学で1番だったと自負しております)
逆に英語は、毎日家で1時間くらいしてもそんなに良くなかったです。
今家庭教師をしていろいろな子を教えていまして、それがなぜだか良く分かります。
どうも数学は非常に良い授業の受け方をしていたので、授業以外で勉強しなくても授業だけで、他の子が授業以外で勉強した以上の勉強をしていたのと同じだったのです。
(計算が非常に早かったので、夏休みの宿題とかは授業やHRの先生が来る前の少しの時間に少しずつやって、夏休みまでに終わらせてました)
逆に英語は1時間やっていたけど、そんなに良いやり方じゃなかったので、あまり効果がなかった思います。
勉強のやり方や考え方が違うのも、理系文系に別れる大きな要因だと思います。
ありがとうございます。勉強法、考えてみます。
以前 TVで見たんですが
右脳と左脳
どちらが 発達してるかで 文系 理系に
分かれるらしいです
直感型か 論理型かも 右脳 左脳に 関係するみたいです
ありがとうございます。
ありがとうございます。紹介いただいたURL(理系文系の差異)、参考になります。
「理系の難しさ」は、私にとっては、主に、以下2つ。
(1)
「理系の難しさ」については、「論理性」という言葉より、「抽象性の高さ」という言葉の方が、私にはシックリ来ます。
理系的な論理で、ドンドン理屈を追って行くことで、「手でさわれる」「イメージ可能な」状態から、ドンドン遠ざかっていき、やがて、「(抽象的過ぎて)何がなんだかイメージできない」状態になり、お手上げになります。
新しい概念を習うとき「例え」が出てきます。
この「例え」を越えてしまう(イメージの外になる)と、もうお手上げ。
・自然数(1、2、3、…)は、理解しやすい
(「物」を数えるための道具)
・マイナスの数も、理解できる
(「借金」を想像すればよい)
・「ルート2」も、まあ、理解できる
(面積2の正方形の1辺の長さ)
・「ルート(マイナス1)」→ かなりイメージ困難
(「マイナス1の面積」の正方形の1辺って何だ???)
と、こんな具合です。
(2)
もう1つの難しさは、「記号」「記法」だと思います。
数学では「表記を簡潔にするため」に、記号・記法を使います。
例えば、こんな感じ。
1+2+…+10 = ∑(n=1~10)
「記法」で「表記を簡潔化する」ということは、その記法の中に「意味が詰め込まれている」ということです。
「意味の詰め込み表現」というものに、なじんでいない人からすると、「記法」を見ただけで、「なんじゃこりゃ?」となります。
「記法」「記号」を理解するだけで、ひと仕事となり、それで脳が疲れて「もういいや」となります。
実際の数式は、その記法・記号が、「何重にも重なり合い」それがまた意味の固まりになって、それをまた、ゴシャゴシャと計算する、なんてこともあります。
ここまで来ると「理解しよう」という気すら起きなくなります。
(3)
蛇足ですが、個人的な考えでは、「微分」の難しさは、上記(2)の記法問題が大きいのでは、という気がしますが。
あの「f(x)」が、どーしたこーした、っていう書き方は、その記法に馴染みのない人からすると、相当いやな感じなのでは、って気がしますが、どうでしょうか?
ありがとうございます!
イメージできるかどうかってのやっぱ大切ですよね。自分が数学が不得意なのもイメージがわかないことがすごくネックになってる気がします。理系の難しさ、が、すごくよくわかる回答でした。
私は理系分野の方が得意だったのですが、学生時代に他人のノートの取り方を見ていて、同じ授業を受けているのにこうも違うノートが出来上がるのか、と不思議に思ったのを覚えています。
私はノートを取る時、出来る限り箇条書きで書き、簡潔にまとまるように書いていました。文系の友人は、ひたすら先生の言ったことを話し言葉で書いていました。なので、同じ内容のはずなのに、私が1ページで終わってしまったところを、友人は3ページ、4ページとかけていたわけです。
文系の友人には、私のノートは簡略化されすぎていて意味が分からないと言われましたし、私には友人のノートはどこが要点か分からなくて読みづらい物でした。
私個人の仮説ですが、このノートの取り方の違いが文系理系の違いに繋がっていくのではないかと思っています。頭にインプットしていく段階で、既に個人個人で方法が違ってきているわけで、その方法の違いが直接、得意不得意に繋がっていると思うのです。
私の様なノートの取り方だと、理系科目は良いのですが、国語や歴史なんかはどうしてもノートを取る段階で抜け落ちている部分があったりしました。逆に文系の友人のノートは、文系科目には良いのですが、数式と解法だけを覚えていけば良い様な科目になると、無駄が多く要領が悪い訳です。
ただ、科目ごとにノートの取り方、インプットの仕方を変えられるほど皆が器用なわけではないので、自然と得意不得意が生まれてくる。私も、文系科目には友人のようなノートの方が良いと分かっていたって、そこで変えられたわけではありません。
どの分野も「論理を追うこと」だとの事ですが、その追い方にはそれぞれ適した方法があり、その方法に対しての得意不得意があるのではないかと思っています。
Vegasindyさんはどのようにノートを取られてましたか?
現在もそうなのですが、必ず文章調になってしまいます。なので、理系の方には、もっと要点だけまとめて見やすくして、などと言われます。
論点は、①文系も理系も、「論理を追うこと」なら、どっちもできていいのに、どっちかに偏ってしまう傾向があるのは何故かという点と、②好きなのに上手になれず、嫌いでも適性があることはあるのかという点のお2つのような気がしますので、それぞれ分けて解答させていただきます。
◆①について
①文系も理系も、「論理を追うこと」なら、どっちもできていいのに、どっちかに偏ってしまう傾向があるのは何故かということですが、もちろん、理系も文系も「論理を追うこと」が必要なのは間違いありません。
では、なぜ文系も理系という風に分かれてしまうのかといえば、他の回答者の方々もご指摘されている通り、勉強、学問に必要なのは「論理力だけではない」からです。つまり、論理力自体は何をするにも必要だが、「論理力さえあれば何でもできる」訳ではないのです。
例えば、テスト対策に「暗記」をする人は多いと思いますが、暗記の得意不得意は、論理力とは全く別物です。そして、科目によってはこの暗記力がズバ抜けていれば、論理力がなくともそこそこの得点は取れます。
このように、勉強には暗記のような記憶能力、視覚的な情報処理能力、聴覚的な情報処理能力、注意の持続力、計算力、論理的思考能力、言語理解力など様々な能力が必要とされます。そして、各能力それぞれに個人差がありますし、科目によって、必要とされる各能力の比重は異なってきます。
そのため、幾ら論理力が優れていても、言語理解力がなければ国語の点はそこそこ止まりでしょうし、逆に計算能力が高くないのだったら、数学や物理で優秀な成績を収めることはできないでしょう。
ある分野での大天才が、別の科目をやらせるとまるでダメというのは良くある話ですが、これも特定の能力はずば抜けていながら、別の能力はそれほどでもないタメであると考えることができます。
最初に結論を言ってしまったので繰り返しになりますが、勉強には、論理力とは別の色々な知的能力が必要であり、この色々な知的能力各々の個人差が、文系・理系の区別につながっているのだと考えられます。
★蛇足
実は「理系」「文系」という区別自体、本当は疑わしい所です。Vegasindyさんが「生物や地学はよくても微積や物理になるとどんなに勉強してもものになりませんでした」とおっしゃる通り、一言で「理系」と言ってもその中身は実に様々です。つまり、理系か文系かによって必要とされる能力が違うだけでなく、そもそも理系の中でも、さらに、科目によって必要とされる能力は異なるのです。したがって本当は、勉強での偏りは「理系」「文系」という区別だけでなく、さらに個別の科目にまで偏る傾向があると考えられます。
◆②について
②好きなのに上手になれず、嫌いでも適性があることはあるのかということですが、これは間違いなくあると思います。つまり「好き嫌い」と「適性の有無」は別のものだということです。
①の件で述べましたように、勉強には色々な能力が必要とされます。生物学や心理学によりますと、これらの能力は、生まれつきある程度きまっているのだそうです(勿論訓練で高めることは可能ですが)。つまり、「適性の有無」は生まれつきある程度決まっているのです。
一方、好き嫌いは生まれた時に決まっているものではありません。科目の好き嫌いは、人間が生まれてからの過程で発生します。例えば、「科目の先生が面白い」「尊敬している人の得意科目だ」「単純に科目そのものが面白い」「成績が良くてほめられてるうちに、好きになる」など、好きな理由も様々です。逆に幾ら得意でも、周囲から「そんな科目が優秀だってしょうがない」と言われてしまったがために、段々嫌いになることもあるでしょう。
このように、「適性の有無」は生得的にある程度決まっているのに対し、「好き嫌い」は成長過程で獲得されます。勿論、適性がある科目の方が好きになりやすいでしょうし、適性のない科目の方が嫌いになりやすいでしょう。しかしながら、必ずそうなる訳ではなく、その他の経験も色々と影響してくるため、好きなのに上手になれず、嫌いでも適性があることは起こりうると考えられます。
★蛇足
「勉強」という枠から越えて考えるとわかりやすいかもしれません。格闘ゲーム好きだけど下手な奴、シューティングには興味を見せないのにやらせると上手な奴、下手なのに歌が好きな人、絵がとても上手だが余り描くのが好きでない人など、好みと適性とが一致しないことはたくさんらでもあります。
ありがとうございます!
私の求めている答えがまとめられていて、すごくすっきりした気がします。とはいっても理系は不得意なままの私ですが、なぜ不得意なのか「腑に落ちた」気がします。
ありがとうございます!
イメージできるかどうかってのやっぱ大切ですよね。自分が数学が不得意なのもイメージがわかないことがすごくネックになってる気がします。理系の難しさ、が、すごくよくわかる回答でした。