普通は見てもわからないのかな。
日本人(日本の画の伝統に詳しい人であっても)は、タイトルを見ないとわからない、ということ。
インド人(または、インドの風習・風景に通じていても)でも、わからないということ。
つまり、灯籠流しと、判断できる情報は絵の中には、入っていないということ。
絵の作者としては、鑑賞者側は、タイトルを見て初めてわかるように、計画しているのでしょうか。
服装や、足元をみれば、「灯籠流し」とわかるのでしょうか
(インドの風俗に詳しい人などでなら、わかる筈ということでしょうか)
灯籠流しであると、わかるような情報を、絵の中に配置しているんでしょうか。
〔序〕 近代以前 ~ 印象派の出現は、芸術の“絶対性”を主張した ~
…… 聴衆の博識に依存、あるいは迎合する試みは、たとえば山本直純
氏の《交響曲・宿命》など、衆知の名曲を安易にメドレーした例もある。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710401 弓弦十話 (その1)
横山 大觀 日本画 18681102 水戸 東京 19580226 89 /明治 1.0918“朦朧体”
── 横山 大観《流燈 1903‥‥ 20040108 茨城県近代美術館》
http://www.city.mito.lg.jp/001373/001374/0/shiteibunkazai/siteibunkazai/ryuutou.html
…… くりかえし書くが、ゲーテは音楽の絶対性を理解できなかったの
で、ベートーヴェンが譲歩して、通俗性を強調したのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20170311 著作権の行方
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070319
父なる神 ~ 藪の中の聖家族 ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/18700319 原点パパ
〔破〕 セザンヌの静物画 ~ 歴史を変えた四つのリンゴ ~
…… 「4つのリンゴが歴史を導いた」という。旧約聖書のイヴ、トロ
イ戦争のヘレネ、万有引力のニュートン、最後にフーリエ自身だそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/2007010 先輩同輩後輩
「もしエデンの園でイブが林檎を口にしなかったなら」という比喩は、
異教徒にはチンプンカンプンだが、西洋人にとっても難解だろう。
さらに与太郎は、セザンヌの林檎を加えてみる。
なぜ林檎を描いたのか、なぜドレフェス事件だったのか……。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19020929
友情のりんご ~ ゾラとセザンヌ ~
…… 中学生のポールが、仲間にいじめられていた下級生を助けた。
翌日、感謝のしるしに林檎をもってきた少年の名をエミールという。
彼らの友情は、47歳のとき、もうひとりの画家が登場して決裂する。
〔急〕 他律から自律へ ~ 高校文芸部の後輩に教わったこと ~
…… 文学というものは他の二つと本質的に異ったものであると思って
います。というのは、文学が文字というものを仲介とし、人間存在につ
いてのものである以上、客体としての存在から脱しきれないからです。
|
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570602
客体から主体へ ~ 現代芸術の理解のために ~
── 《山脈・第十三号 19570620 同志社高校文芸部》P38-40
…… 幼い頃、生家に下宿していた友禅絵師の姿を、いまも覚えている。
日本画は私塾で手本帳を、木炭画は受験教室、美校では独りで学んだ。
いちばん成果があったのは、古い画集から模写したことだった。
|
…… わたしは、一に音楽、二に絵画、三に文字を愛してやまない。
これらは、日常生活で役に立たない芸術の序列である。
http://q.hatena.ne.jp/1516523531#a1266214(No.3 20180128 17:27:11)
灯籠流しの場面であると分かることは、
絵画を鑑賞する上でそれほど重要ではないと思います。
大事なのは、この絵の構図や色使い、ディテイルなどを見て
どう感じるかなので。
タイトルはおまけみたいなもの、
あるいは、何の場面だろう、と疑問を感じる人への
サービスみたいなものと考えるのが妥当でしょう。
これはどこかな、日本じゃなさそうだな、
着物の柄がエキゾチックできれいだな、
インドなのかな、インドにも灯篭流しってあるのかな、
とあれこれ思い巡らせるのも楽しいものです。
アニメの「聖地巡礼」なんかに例えると、
分かる人にはわかりやすいかもしれません。
実際、舞台やモデルになった地なんか、
本筋から見て比較的どうでもいい事柄です。
そんな枝葉の部分を、受け手側が見つけ出したり、
作り手側がそれをほのめかしたり、と
本筋とは別の楽しみ方をするのも楽しみ方の一つです。
そうですね。楽しみ方はいろいろですね。
洋画では、無題とか、コンポジションNp.×× とか、そんなものもありますし。
作者の意図は? 「絵だけを見て、楽しんでくれればそれでいい(?)。」とか。
題に拘らないという見方も十分ありうると思います。
どうも有難うございます。
面白い質問ですね
有名な絵ですので、色んな人が異なった解説をしています。
つまり正解は誰にも解らないというのが答えで
それをあれこれ想像するのが絵を鑑賞するということだとおもいます
ただこの絵には以下のような裏話があります
じつは大観は本図を含めて、「流燈」と題する作品を三点描いています。インドからの帰国直後に描かれた最初の作例は、惜しくも関東大震災で焼失したといわれますが、ガンジス河岸に佇む三人物を左寄せで小さく遠望的に描いています。
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kaiga/2-72/2-72.html
つまり一作目は、もう少しインドであると解るような情報、背景が沢山入った絵だったようです
ですから
> 絵の作者としては、鑑賞者側は、タイトルを見て初めてわかるように、計画しているのでしょうか。
という問いにたいしては、少なくとも一作目ではそこまで計画していなかった、ということになります
では、その後、なぜこの構図になったのか?
上記URLによると「注文作」とありますがそれ以上のことは
私には調べられませんでした
茨城県立近代美術館の学芸員さんに質問してみると詳しいことが解るかも知れません。
たとえば「注文作」であることが解る資料などが閲覧できれば
もう少し詳しい経緯がわかりそうですね
みなさまありがとうございます。
2号様のコメントを拝見し、次のように感じました。
作品は完成?して、鑑賞者の前に出れば、
作者から離れ、鑑賞者が主体的にどう干渉するか判断する、
ということなのでしょうか ・・・・・ と感じる次第です。
ありがとうございます。
2018/05/17 02:16:17