あなたは、人には自由意志があると思いますか?

また、自由意志が存在するとはどういうことで、存在しないとはどういうことだと考えますか?
(意識などの)精神の働きは(完全に)物質と結びついていると考えますか?

的確であれば良いのであって長さは問題ではない。という意見もあるかとは思いますが、
ここでは、最低でも400字以上書いてください。
また、必ず自分の考えを書いてください。
条件を満たさない場合には、ポイントは差し上げません。また、ポイントは重点配分したいと思います。

認知科学関連のおすすめのページがあれば、その紹介もしていただけるとありがたいです。

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回答(16件)

id:komasafarina No.1

1500曲を突破♪回答回数1662ベストアンサー獲得回数42004/10/05 13:12:46

ポイント50pt

http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/jiyuuishi.htm

宇宙における自由意志−スティーブ・ホーキング

こうしてここに回答を寄せるという意味では、明らかに私の自由意志(もしくは意思と綴るべきか)はあると人は言うでしょう。しかし、この「自由」意志はあくまでもあなたの質問に喚起されたものであり、その意味では拘束され、また限定されたもので自由ではありません。しかし、意志という点からは自発的ではなくとも、それは自由であるとは言えるでしょう。自由とは自然状態ではないという留保が見えてきます。ネットワークとかシナジーという発想、観点が前提とされる所以です。したがって、この問題は純粋な思考や(嗜好や)哲学の問題というよりも現代物理学の域に移行することとなるでしょう。ここから先は、上記URLの先生にバトンタッチするかたちで、わたくしの論を終わらせていただきます。こんなんでよろひーですか?

id:last_wednesday

ありがとうございます。

ここでいう自由意志とは、意志の想起それ自体も含めた選択能力のようなものを意図しています。しかし、それもまた求めている回答の一部なのですが。

回答は、できるだけ回答文中で完結させていただきたいと思います。

引き続き、よろしくお願いします。

2004/10/05 13:37:46
id:bragelone No.2

bragelone回答回数37ベストアンサー獲得回数02004/10/05 13:46:05

ポイント70pt

http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20040914

[愛]世界は愛に包まれているか(理論編) - caguirofie

 残念ながら認知科学からの回答ではないことをお断りして 設問に対して次のように考えます。

 人間にとって自由意志は 自分が他人の意思表示やそれに基づく行動(消極のものを含めよ)を認め 道を譲ったときに あぁ存在するのだなぁと思います。特にそのときの 他人の意思や行動の内容に自分が反対の意見を持っている場合が 当てはまります。

 この時の精神の働きは 必ずしも物質と言いますか 身体の欲するところとは 違って来ていると考えます。いえ 働きは 決断する段階までは 精神も〔その側面では 心理の動きとして〕 身体の欲求と同じような内容と過程をたどるのだろうと思いますが 最終の判断は その動きに逆らう場合があろうかと思うのです。

 ですから もし自由意志が存在しないとはどういうことかと問うならば 次のいづれかの事態だと考えられます。

 (1)他人の意見や行動に対して なんらの違和感をも持ったことがない事態。

 (2)上に言う違和感を持つという場合において その自分の違和感に逆らって自分が行動を起こしたことが一切ないという事態。

 (3)言い換えになりますが 身体の欲するところに おおよそ連動すると思われる人間の心理のほかに もはや精神などという人間の判断力を示すはたらきは ないと思っている事態。

 以上のようです。

 なお この自由意志ですが それによって他人や果ては世の中やに対して 反抗することは出来るとは言うものの 身体や果ては社会共同の心理となった慣習のちからを征服することは無理なようです。これは当然といえば当然のことですが それにもかかわらず 精神は この無理をーー極めて長期的な観点からはーー欲しているとも考えられます。その無理の実現をです。意志の自由な選択と言われる所以だと考えます。幸福は人は 不可能なことは望みませんから。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

曖昧な言い方ですが、人は欲求や感情のバランスによって意志決定を行っているように感じます。

また、その上で、立場や形式による影響を強く受けているようにも感じます。

人は、自分が自分と思っている自分のイメージによって決定される、選択の余地のない意志を見ているだけではないのかと思ったりもします。

人は、本当に自分の行うことを自分で決定しているのでしょうか?

もし、決定しているとするなら、それはどういうことなのでしょうか?

自由意志とは、でたらめな予測できないものを持ち込むことであるとも思えるのですが、どう思われますか?

この時、予測できないはずの自己、つまり、今からは次が見えない自己とは一体何なのでしょうか?

私は自然科学的なアプローチの正しさを信じているのですが、端的に言えば、自然科学は観測内容を記述するものであると思います。

しかし、観測事実から推論を重ねることで簡潔な記述形式を導く時には、(矛盾に満ちている気もしますが)自由な試行を繰り返すようにも感じます。

(観測も十分ではないし、論理的でもないかもしれませんが)その可能性として、様々な考えを聞いてみたいと思い、質問しました。

2004/10/05 15:09:23
id:hira333 No.3

hira3回答回数133ベストアンサー獲得回数02004/10/05 13:59:01

ポイント70pt

人は元来、自由意志により存在するものです。自由意志とは、この宇宙に存在するもののすべてが指向する摂理とでもいえましょうか。

しかしながら、人間の場合は、社会生活をする上で、諸々の規範を定め、自由意志に制限を加えることとなりました。

自由意志が存在するとは、人が一つの社会なり制度の中で、法律とか目に見えない倫理や習慣などから解き放たれて、自分自身が時の為政者や制度から全ったき自由であると実感する心の在り方のことです。

自由意志が存在しないとは、自分の心が自分を取り囲む諸々の慣習や制度に支配されて、金縛りになった状態の人のことです。

意識や精神など、人の心は物質や文明などに支配されてはならない自由な存在なのです。

人は集団生活の中で、それぞれの自由意志を人間の基本的人権としながらも、文明・文化の発展とともに、自らの作ったそれらの規範によって、最も大切な自由意志を奪われてしまうと言う、矛盾した存在でもあります。

単純明快に云えば、人は自由だと思えば自由なのです。自由だと思えない人は、窮屈な人生を送ることとなります。

自らの心の中を自在に飛翔できない人は、人としての自由意志の醍醐味を味わえない人と云えましょう。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

ここで意図している自由意志の存在とは、自然法則の中に規定されているような、絶対的と思われるものです。

その存在を仮定した上での社会的なものではありません。

しかし、興味深く読ませていただきました。

2004/10/05 15:16:18
id:MERCY No.4

MERCY回答回数68ベストアンサー獲得回数02004/10/05 14:31:51

ポイント50pt

URLはダミーです。

私は人には自由意志があると思います。理由としては無いと寂しすぎると考えるから。

精神活動が完全に物質によってのみ行われていると仮定すると、有る瞬間の全ての物の位置を完全に観測出来たとするなら、以降全て以前全ての事象が完全に計算出来ると言うことにつながります。

と言うことは、全ての物事はあらかじめ定まっていると言うことになり、そこに不確定な物は存在できなくなるはずです。

つまり、何をやっても、何を考えても、自殺してすらそれは予め決まっていたことである訳で、そう言う世界に自分が居ると考えた場合その世界で自分の存在を継続させる意味という物が無くなると考えます。

まぁ、不確定性原理によって完全な精度での観測は行えない筈ではありますが、観測を行えないと言うことが決まっていないという事にはつながりませんので私はこの考え方が否定されるまでは人には自由意志があるため意志によって変革を行うことが出来る存在出ると思うことにしています。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

私も自由意志がなければ寂しいと思いますし、普段は、あるものと仮定して生きています。

しかし、自分というものの範囲が、実は自由意志まで及んでいないのではないかなどと空想したりもします。

精神は物質とは結びついておらず、意識は(それ以外の)観測の内にある世界とは別のものに属しており、精神の働きのみがその窓である。などといった仮説はどうなのでしょうか?

どうやっても触れることの出来ないものの存在を問うように、実証できそうにない気もしますが。

2004/10/05 15:25:37
id:kuippa No.5

くいっぱ回答回数1030ベストアンサー獲得回数132004/10/05 14:36:11

ポイント70pt

最低でも原稿用紙1枚分とは長いですな…。

閑話休題

私は人には自由意志があると考える。

人間の自由意志とは、その人が受け取れる環境情報を元に、その人が頭で考えて自立的に考えを出すことだ。

結果、対外的に口で表明された意思や、実を伴う行動が、最初に導き出された意思と異なる場合があるが、

これは環境による制約や、現実的、物理的束縛による自由意志の変更である。

人が空を飛びたいという思考を抱いた時、それは純粋なる思考である。

では、「実際に飛んでみようか?」となった場合、それは意思となる。

自らの意思とは裏腹に現実的にもたらされる結果が期待とはそぐわない場合があるが、

実行後にしろ、実行前に断念したにしろ意思を抱いた以上、最初は束縛をうけない自由な意志だ。

さまざまな物質が非常に複雑な系をつくりあげる。

それを人は環境として把握し意思を抱く。

思考は単なる化学物質の拡散にすぎない。物質による影響をうけた上で成り立つものでもある。

もっとも単純な生物ともいえないものですら自己を認識する構造を持っている。

その上で、自分と環境、非自己を区別し反応をする。

物質のもつ指向性。それは、完全なる自由意志とも取れるものである。

指向性は物質の構成を変えてしまうなど、なんらかの阻害することによって奪うこともできる。

脳に薬物などによって影響を与えれば思考は奪われる。

生体の活動を止めることによって、働きそのものを奪ってしまえば指向性も存在しなくなる。

故に人という固体としては自由意志が失われることになるだろう。

掲題URLは抗体の仕組みっ

id:last_wednesday

ありがとうございます。

>人間の自由意志とは、その人が受け取れる環境情報を元に、その人が頭で考えて自立的に考えを出すことだ。

>実行後にしろ、実行前に断念したにしろ意思を抱いた以上、最初は束縛をうけない自由な意志だ。

次の状態での意志決定の、現在の環境情報と自己の状態に対する依存はどの程度なのでしょうか?

完全な依存関係にあるならばそれは、コンピュータのプログラムと同じようなものであり、自由意志は存在しないように思います。

もし、自由意志が存在するなら、それは、それらに対して非依存に行われる処理の中にあるように思います。

>もっとも単純な生物ともいえないものですら自己を認識する構造を持っている。

>その上で、自分と環境、非自己を区別し反応をする。

>物質のもつ指向性。それは、完全なる自由意志とも取れるものである。

もし、物質の指向性に全てが支配されているとするならば、自由意志は存在し得ないように思います。

私の読み間違いかもしれません。

自己なくしては成り立たないけれど、自己によって制約されれば消えてしまうもの。

なんだかわからなくなってきました。

自己とはなんなのでしょうか?

2004/10/05 15:52:44
id:neo_tano No.6

neo_tano回答回数7ベストアンサー獲得回数02004/10/05 14:54:35

ポイント70pt

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/science/sclib/top.html

編集部だより 自然科学書編集部

個人的には『人には自由意志がある』と思う。

なぜなら、「思う」のは人だから。

つまり、単独では存在し得ない「人」の為す「思い」によってつくり出された記号としての「言語」には、それぞれ「意味付け」がされている。それをありのままの物として捕らえる事は不可能のように思われる。しかしその一方でその意味の存在を否定する事もまた不可能だ。

つまり、「有る」「無い」は完全には言い切れない。

しかしその「思い」は有りそうだ。

もう少し考えてみたい。

まず、「ある」とも言えるし、「ない」とも言えると考えた。

そこで「自由」と「意志」に分けて考えた。

おそらくここで言われている自由とは何ものからも干渉されずに内部から自発的に出てくると考えられるという状態を表していると受け取った。つまり、最初に起きたのがなんなのかという事が大事なのだろう。

「意志」とは人がなにか行動・動作をするにあたって、それをする際の方向性(ベクトル)の様なものではないかと受け取った。

つまり、人には意志は有る(として)がそれは一体、自発的なのかどうかという問題ではないのかと考えた。

逆にいえば、「自由」という意志の初動作の起源がどこに有るのか、無いのかをとわれている問題だと考えた。

もう一つの問題はその「意志」とはどこからが「意志」とよべるのかという問題だ。

つまり、その範疇の問題だ。その範疇には2つある。

一つは人間個人の内部でのレベルの問題。

例えば何かに頭をぶつけて「痛い」と思うのは「意志」と呼べるのか?

もう一つは、人間の意志が、それが本当に自分個人の身体の中にとどまっているものなのかという問題だ。つまり、身体の拡張性の問題。

例えば、イチローがバットを打つとき、バットをコントロールしてボールを捕らえるがその時バットは体の一部では無いのか?

つまり「自由」にしろ、「意志」にしろ、「私」という身体を超えて存在している可能性が有る。

と、ここまで考えてふとこう思った。

「おれ、仕事しろよ。。。。」(不自由意志)

id:last_wednesday

ありがとうございます。

曖昧な質問で申し訳ありません。しかし、お答えいただき感謝します。しかも仕事中に。

>ここで言われている自由とは何ものからも干渉されずに内部から自発的に出てくると考えられるという状態を表していると受け取った。

>「意志」とは人がなにか行動・動作をするにあたって、それをする際の方向性(ベクトル)の様なものではないかと受け取った。

>「自由」という意志の初動作の起源がどこに有るのか、無いのかをとわれている問題だと考えた。

おっしゃる通りだと思います。その内部である、自己の一部は存在するのでしょうか。

>もう一つの問題はその「意志」とはどこからが「意志」とよべるのかという問題だ。

意志とは、人がその状態を選択できる余地のある(と想定する)環境に対する、働きかけを行おうとするものであると思います。

意識とは区別され、身体には制約されないのではないかと考えます。

2004/10/05 16:36:17
id:abian No.7

アビアンⅠ世回答回数112ベストアンサー獲得回数02004/10/05 16:59:15

ポイント90pt

私は自由意志は確かに存在すると思います。

自由意志の存在を説明するならば、

まず、意志とは何処から湧いてくるのか?と言う事ですが、

脳の中のニューロンの発火から、認識の内容が決定していくそうですが、だとしたらそれに付随して意志も脳の中でシナプスがくっついたりしながら生成されるのでしょう。認識、選択、過去の記憶、過去の経験、それらによって意志は決定されていくと思います。なので、意志とは過去の経験、しがらみに縛られたものとなるのが通常です。

そこで、自由意志というのはあらゆる過去の経験などによって拘束されない全く自由な意志の事を言うのだと思います。全く因習にとらわれない農村の生活のように、自由意志は存在する事はかなり困難ですが、存在する事は可能なので存在すると言う結論になります。何にとっての自由かという事ですが、この場合はあらゆる鎖から解き放たれていてあらゆる方向に自由な意志と言う事です。

 また、宇宙本来の意志 これが自由意志だという考え方もあるでしょう。宇宙全体が何を欲しているか。。。。これは一見不明ですが、我我を含めての宇宙なので、我々の細胞一人の人間において60兆個の細胞の欲する事それが宇宙の意志に結びついていきます。

この宇宙の歴史から見れば短い人類の歴史の中で、知らず知らず「愛」と「自由」と言う事が意志として感じられてきていると言うのは疑いのない事実だと思いますので、我々の細胞一個一個も宇宙全体も「愛」と「自由」を望んでいる。。。というのは確かな事のようですね。

もちろん、物質もそれに共鳴します。生命体ではないもの、物質もそれを感じます。有機体ではない物質にも自由意志はあるのだと思います。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

おすすめリンクとても面白かったです。クオリアという概念の重要さも興味深いものでした。

意識内容がニューロンを発火させるのでしょうか?それとも、ニューロンの発火が意識内容を生じさせるのでしょうか?

その両方、あるいは、完全に結びついたものなのかもしれません。

もし、自由意志が存在するならば、そして、ニューロン(全体)のひとつの状態がひとつの意識内容と結びついているのなら、

自由な選択がなされる時には、ニューロンの状態の変化が予測できないことになり、

全く同じ状態から、幾つかの異なる状態へと変化し得ることになるんでしょうか?

もし、全てを知ることが出来たなら、想像も出来ないようなシステムを見出すことになるんでしょうね。

宇宙本来の意志とは、あえて求めるならば、それは、自然法則ではないかと思います。

そして、その自由意志とは、自然法則の及ばない領域、特異点によるものなのではないでしょうか。

もし、人が自由意志を持つのならば、それは、ブラックホールの内側だけでなく、人の中にも存在することになると思います。

2004/10/05 21:01:43
id:kuippa No.8

くいっぱ回答回数1030ベストアンサー獲得回数132004/10/05 18:26:07

ポイント70pt

http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kaosu.html

カオス理論 - 哲学的な何か、あと科学とか

※ 二回目。 ヽ( ゜∀゜)ノ 原稿用紙2枚目に挑戦。

哲学者と理学者との議論はかみ合わせるのが非常に難しいですね。

真実はひとつかもしれないけど、拠って立つ場所がまるで違うからでしょう。

事件という真実を被害者と加害者で言い合うぐらい立場が違うように感じます。

閑話休題。

人間とロボットの違いは意思があるかないかだと多くの人は言うかもしれません。

人間の意思は環境によって融通がきくものであり、自由に判断されるものだから、

予め決められた条件によってしか判断できないロボットには自由意志は無いと言うのが論拠になると思います。

それと同様に物質の指向性のみによって構成されるのであれば、

意思は働いていないとも考えられます。

法則によって支配され、未来には狂いがないと考えられるからです。

しかし、経験的に未来は予測できないものと私達は理解しています。

それはなぜでしょうか?

単純な物事の組み合わせが無限に近い数積み重なると、

その指向性に確率という揺らぎがでてきます。

原子の周りを電子がまわるという物理法則があったとしても、

他に結果に作用する要因がある以上、

1分後にその電子が原子のどこをまわっているかは可能性でしか明言できません。

あの人は甘いものが好き。という条件だけであれば、

メロンが甘かった場合、あの人はメロンが好き。という結果も疑い様がありません。

だけど、世の中に存在する条件というものは一様ではありません。

「甘いものは好きだけど、フルーツは嫌い」などといった条件が追加される可能性もあるわけです。

あのひとがメロンは好きか?

種々の指向性の組み合わせは、嗜好性となり、

過去の情報からメロンを食べるか食べないかという判断が発生します。

その判断こそが自由意志ではないでしょうか?

故にプログラムだって無限に存在しうる条件を自由に判断することができたら、

それは自由意志をもっているといっていいのではないでしょうか?

ちなみに自己とは、自分として認識できる範囲だと思います。

自分を認識することにより、初めて自分以外のものを認識できるようになるので、

自分の着ているものまでもこれは自分だと認識しているのであれば、

それは自己に含まれると考えます。

逆に、自分はこのヒザにできた顔に見える傷跡だと認識しているのであれば、

その他の体は自分が寄生している宿主であり自己とは切り離されて認識されるものです。

ん〜…。

なげぇ。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

決められているが無限の(に近い)条件の下になされる判断は知り得ず、そのことによって自由意志が存在し得る(する)。ということでしょうか。

知り得なくても決定論的であるならばその余地はない気もしますが、無限というと、測り知れないものが入り込んできそうです。

無限の条件による判断は永遠に終わらないのではないか?などという疑問も感じたりします。

私は、自己とは意識であるような気がしてきました。

その上で、自己の上に自己イメージを構成するのではないかなどと考えたりもします。

ここで言うイメージは印象というよりも、ディスクイメージのようなものです。

2回も回答していただき、ありがとうございました。

2004/10/05 22:01:08
id:kouji1975 No.9

コウジ回答回数35ベストアンサー獲得回数12004/10/05 18:30:14

ポイント70pt

last_wednesday さんの言う絶対的な「自由意志」は存在しないと考察します。

もちろんこれは、私の個人的な意見です。

まず、自由とは「拘束されないこと」であり、自由意志とは「拘束されない意志」と定義します。

つぎに、拘束の定義を考えたときに「自分以外が決めた法則」と定義します。

拘束されない意志とは、「拘束される事象を含む、全てのことが選択可能な状況下」でのみ観測することができます。選択肢が存在した瞬間、その選択肢に拘束されるためです。

自由意志を突き詰めていくと、(上記回答例にもあるように)その存在はミクロ、もしくはマクロな世界へと展開されます。分子レベルでも、生命レベルでも方向性を持っているのは同じ事です。

その絶対的な方向性を「拘束」とするならば、その拘束と同等の選択を行える必要性がでてきます。

すなわち、絶対的な「自由意志」が存在するためには、「(思考的に)不可能のない存在」にならなければならない、結果、絶対的な自由は「検証することができない」という事になります。

私の考える「自由意志」とは「無意志」であり、物体が存在する以上そこに意志が存在してしまう以上、その存在は確認することができません。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

明晰な文章でわかりやすかったです。

私が想定していた自由意志は、選択肢が2つに制約されていたとしても、その選択が何ものにも拘束されなければ良いというものです。

私のコメントの中に、言葉足らずで、誤解を与えるような表現があったかもしれません。

あるいは、本当に誤解している部分もあるかもしれません。すみません。

できれば、kouji1975さんの考える自由意志について、さらに詳細な説明をお願いしたいと思います。

2004/10/05 22:19:11
id:yhana No.10

yhana回答回数2ベストアンサー獲得回数02004/10/05 21:09:11

ポイント90pt

http://a.hatena.ne.jp/

はてなアンテナ

URLはダミーです。

自由意志は無いと考えます。人は環境によってものを考えます。意志は環境から導き出されるものだからです。遺伝もあるけどそれも環境です。そこから出される意志の結果は自分で考えたものに思えるけど既に用意されたものです。それを自由意志と呼ぶ事もできますが解釈の違いになるでしょうか。環境とは歴史や自分の置かれた立場、体験を含みます。人はそこから総合的な判断をするだけです。だからと言って予め定まっている事にはなりません。

未来が予測できないのは突発的な事象が起こり意志も判断が50:50の場合コインの裏表で決断する事があるからです。

精神の働きも物質と結びついています。そうでないと死は意味の無いものになってしまいます。肉体の消滅とともに精神も消えますが、もともと環境から作り出された精神ですから環境に還ると言う事ができます。

自由意志が存在するとは環境に左右されないユニークな考えがあるという事と考えます。環境に左右されないオリジナルな考えがあるとは思えません。みんな経験を引きずっているでしょう。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

私も、yhanaさんのおっしゃるような可能性があるのではないかと考えていました。

yhanaさんは、思考のようなものについても、自由な選択はなされていないと考えますか?

もともと机上の空論といった感じですし、この質問では、どの考え方が正しいのかといったことは考えないことにしたいと思います。

ただ、様々な可能性を少しだけ論理的に考えてみたいと思いました。

2004/10/05 22:36:52
id:f3gto1999 No.11

f3gto1999回答回数78ベストアンサー獲得回数12004/10/05 21:14:47

ポイント90pt

http://www.rikon-arcadia.com/ninti.html

東京 都 韓国 京都 ハワイ at rikon-arcadia.com

(Q1)あなたは、人には自由意志があると思いますか?

(A1)自由意志は存在すると考えます。自由意志における「自由」と「意志」の定義に依拠する部分はあると思いますが、『制約なく』『目的実現のために自発的で意識的な行動を決定すること(決定=意欲の生成と言い換えてもよい)』という意味においてであれば、人間に自由意志があります。

(Q2)また、自由意志が存在するとはどういうことで、存在しないとはどういうことだと考えますか?

(A2)自由意志が存在するというのは人間存在そのものでありつつ、存在の有無自体は「自由意志があるかないか」というよりむしろ相対的なものであると考えます。生後すぐの赤ん坊に自由意志があるかといえば、(A1)で述べた『制約なく』『目的実現のために自発的で意識的な行動を決定すること(決定=意欲の生成と言い換えてもよい)』という意味でいえば、自由意志があるといえるでしょう。しかし成人と比較したときにその行動決定にどの程度の価値と意味があるかを思えば、その自由意志は存在しないに近い状態とも評価できます。これは赤ん坊自体の知能程度のみに原因することではなくて、社会的・環境的な原因であることもありうると思います。

人間が集団で生活し、歴史や時間といった概念を理解できる存在である以上、自由意志の存在というものは相対的にならざるをえないものと考えます。

(Q3)(意識などの)精神の働きは(完全に)物質と結びついていると考えますか?

(A3)完全に結びついていると考えます。ここにいう「物質」の定義や「結びついている」という表現の意味するところにも依拠することではありますが、人間の認識と理解なくして物質だけが存在するということはありえないからです。いま人間のいない世界(全人類が完全に滅亡した世界)をイメージしたとしても、それ自体が人間の意志決定の末のイメージにほかならないのであり、人間存在なくしてイメージもなければ意志もないとすれば、物質の存在もないと考えます。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

精神と物質が完全には結びついていないというのは、

例えば、精神と物質が分離可能なものであったり、精神が物質に一方的な影響を与えているといった状態を想定していました。

曖昧な言葉ばかりですみません。

2004/10/05 22:54:57
id:rundgren No.12

rundgren回答回数74ベストアンサー獲得回数02004/10/05 22:46:20

ポイント70pt

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0860.html

松岡正剛の千夜千冊『方法の問題』ジャン・ポール・サルトル

自由意志は存在します。というか、僕は存在すると主張することにしています。

自由意志を持つこと自体が人間らしさだと思います。

それが存在しないことにしちゃうと、人間性や想像力という言葉も無意味なものになりそうです。また、その存在が真実であろうとなかろうと、人間の可能性を否定するような考えは、哲学や芸術の不毛につながると思うので断固反対します。

人間を機械の一種と見なす発想、社会が人間性を抑圧し拘束しているものと見なす発想、人間を因果律に縛られた存在と見なす発想。そのいずれかの発想が、「自由意思が存在しない」という考えの背景にあると思います。実存哲学で言うところの自由意志という言葉自体、僕には詭弁に思えます。自分の意思って、すべて自由の入る余地があるんじゃないでしょうか?

僕は神秘論者じゃないですし、神にも関心がないですが、率直に言いますと「自由意思が存在しない」という発想は人の精神衛生上よくないのです。世の中を牢獄みたいなものだと見なして、それに永遠に抵抗し続けるのが人間だと主張した哲学者がいましたが、それこそ感傷に浸り過ぎて哲学の役割を忘れてしまった主張だと思っています。

精神の働きについて、生まれてから接する現実は人間に対してかなりの方向づけはしますが、その本質は生来的なものでしょう(証明不可能ですけど)。人間の生来的な性質は、普段は人間の精神の5%か10%ぐらいしか占めないかもしれませんが、「霊的」とでも言っていいような不思議な影響力を持つものだと思っています。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

たとえ自由意志が存在しなかったとして、それを知ることになったとしても、

自分が自分と思う自分に従って決定された意志であるならば、それほど気にはならないのではないかという気もします。

自然に全てをあずけてしまうということは、それほど受け入れがたいものではないのではないか。とも思います。

でも、想像力が足りないせいかもしれません。

そして私も、自由意志の存在を否定して生きるなどということはとてもできそうにありません。

この質問は25回答で締め切りたいと思います。

2004/10/05 23:22:15
id:bragelone No.13

bragelone回答回数37ベストアンサー獲得回数02004/10/05 22:59:04

ポイント70pt

http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20040923

[愛]終末は分からなくて構わない。 - caguirofie

 #2の回答者ですので 同じ一つの回答としていただければと思います。

 質問者さんのコメントに再コメントさせてください。

 (1)自然科学の科学行為につきましては 《観測事実から推論を重ねることで簡潔な記述形式を導く時》の《自由な試行錯誤》は 自由意志の働く余地があるのではないかと〔門外漢ながら〕憶測します。

 既存の知識・学説から自由な精神の動きが見られるのではないかと。

 ただ そうだとしますと 結局 他人の意見に 反対だが 譲歩するという場合に見られると言ったわたくしの見解と同じような内容になるとは考えます。既存の知識から自由なと 他人の意見から自由なとのふたつです。前者は積極的な発現となり 後者は 控えている・慎んでいるという消極ですが。

 さらに なお書きが必要であるかも知れません。この《自然科学上の推論やそれに基づいてその今捉えた内容に表現を与える行為》は 自然界においてそれまでは未知であったものごとの発見・発明というのが 実質ではないかとも思うのです。そのことの重要性にはなんの変わりもないのですが 意志の自由な選択という場合は そのような発見・発明を導くきっかけとなった思想のほうに重点があるような気がしています。いかがでしょうか。

 言い換えますと 中程で述べられた《でたらめな予測できないものを持ち込むこと》という定義は 未知のものごとの発見という内容のほうに傾くように感じられます。  

 (2)前半に述べられた内容にかんしてですが 結論に飛びます。 《人は欲求や感情のバランスによって意志決定を行っているように感じる》というときーーおそらく一般にそのとおりだと思うのですがーー

しかも 《残念ながら そんな生活であるにすぎない》と嘆いているわたしも そこに存在します。

 《人は 本当に自分の行うことを自分で決定しているのでしょうか》と問うとき 否という答えを用意して 物質や立場や人間関係やら何やかやのちからに譲歩している自分を わたしたちは それぞれ 見てもいます。 これを わたしは 自由意志と呼びたいと思いますが いかがでしょうか。  

 なお わたしの初めのコメントの最終の一文では誤記がありました。《幸福な人は》が正しいです。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

おっしゃる通り、未知のものを知る時、自由な試行を繰り返すのではないか、という主張は、

自由意志が存在するということを前提にしたものです。((矛盾に満ちている気もしますが)と書いたのはそのためです。)

>《人は 本当に自分の行うことを自分で決定しているのでしょうか》と問うとき 否という答えを用意して

>物質や立場や人間関係やら何やかやのちからに譲歩している自分を わたしたちは それぞれ 見てもいます。

>これを わたしは 自由意志と呼びたいと思いますが いかがでしょうか。

私が自由意志が存在しない可能性を考える時、ある主張を押し通すことも、また、譲歩することも、

(決められた)感情のバランスの機構の一部ではないかと考えるのです。

しかし、そこに自由意志が存在すると証明できないように、存在しないともまた、証明できないのです。

brageloneさんのコメント欄での私の主張もひとつの可能性に過ぎません。

この問題は、観測と論証によってしか答えが得られないものであるとも考えています。

(それでも得られるのかどうかはいくらか疑問が残りますが。)

私の不理解による失礼がありましたら、私の疑り深い性格を考慮した上で、ご理解いただきたいと思います。

誠実な回答をいただきうれしく思います。

2004/10/06 00:13:14
id:yhana No.14

yhana回答回数2ベストアンサー獲得回数02004/10/06 01:26:52

ポイント90pt

思考のようなものについても様々な記憶・想起は経験や知識と、脳という遺伝子によって作られた回路が機能して行われる活動です。ユニークな発想はこの遺伝子からしか求められませんがそれも代々生命が発達させたものにすぎません。原初の遺伝子は単純なものだったのでユニーク性は求められません。

私がここで言ってる意志とは人生の体験と知識に意志が規定されるという事です。誰もこの事から逃れる事はできないでしょう。ですから遺伝子という化学物質と経験と知識からくる記憶という情報で思考が成り立ち意志が決定されるということです。

これでは人間性がないと悲しむ事とは思いません。私は自分の遺伝子からくると思われる性向も記憶も思考活動も愛しています。思考が自由な選択はなされないということについては持っている情報によって規定されているのだからなされないという他はありません。情報をどう処理するかはこれまた持っている知識と経験つまり情報からです。遺伝子もまた情報というより他ないと思います。最終的にAとBを決断しなければならない時全ての情報を総合して判断しますがどちらでも自由に選択も可能です。ただそれをもって自由意志があるとは思えません。自分にとって良しと思えるものがあるはずだし、判らない場合はそれこそコインを投げて決めるしか無い。

そうであっても牢獄に閉じ込められた意志とは思いません。自分の知識と経験と性向は誰にも無いもの、つまりユニークなものです。しかしそのユニークさは知識と経験と性向つまり既に情報によって規定されているのです。この場合の意志を自由なものと解釈することも可能ですがそれは各自の判断に任せるしかありません。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

普段感じる自由意志があるという自然さと同じくらい、自由意志がないということも自然なことであり得るように感じられます。

>そうであっても牢獄に閉じ込められた意志とは思いません。自分の知識と経験と性向は誰にも無いもの、つまりユニークなものです。

>しかしそのユニークさは知識と経験と性向つまり既に情報によって規定されているのです。

>この場合の意志を自由なものと解釈することも可能ですがそれは各自の判断に任せるしかありません。

kuippaさんは無限に存在しうる条件による判断(というユニークさ)は自由意志であると考えられていたように思います。

クオリアについて

abianさんに紹介していただいたサイトによると、クオリアはニューロンの発火のパターンと1対1に結びついているといいます。

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi/qualia-summary.html

また、このサイトによると、感覚の質感だけではなく、感情の質感もまた、クオリアであるといいます。

http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html

もし、意志決定が感情によってなされるのなら、

それはプログラムのようなニューロンの発火の一連のパターンによるものなのかもしれません。

そして、kuippaさんのおっしゃるように、それは無限に存在しうる条件による判断がなされる、カオス的な振る舞いをする現象なのかもしれません。

決定論的で、予測できず、ユニークな。

以下、脳と心の振る舞いについての認知科学的な研究についての紹介も強く希望したいと思います。

2004/10/06 12:23:26
id:memento No.15

memento回答回数14ベストアンサー獲得回数22004/10/06 02:25:24

ポイント110pt

http://www.moriyama.com/newtype/newtype10.html

「NEWTYPE」掲載<森山和道のサイエントランス>第10回

私は自由意志は存在すると信じます。

ただ信じるだけです。

無理に理由を言うなら、4番の人と同様に「そう考えないと寂しいから」です。

「自由意志が存在しない」とは、たとえば高いところにある石が転がり落ちたり、コップに入れた水が蒸発したり、自然界にある化学物質が反応したりするのと同様に、単に自然法則にしたがって決定論的に(つまり、その物自身や周囲の環境を構成する原子の初期状態に応じて一意的に)変化をしているだけであることをさします。

(もちろん物体は量子力学で記述されるので位置や速度は確率的にしか決まらないので「決定論的」と言うのは間違いかもしれませんが、確率分布そのものは一意的に決まります。以下ではその意味で、量子論的な現象も決定論的であると言うことにします)

逆に「自由意志が存在する」とは、これらのただの物質とは異なり、確率的にありうる複数の選択肢の中から、自発的に選ぶことができることをさします。

たとえば今この瞬間、私には「指を曲げる」という選択肢と「指を曲げない」という選択肢があります(他の選択肢も無数にあるが、略)。

そこで私が指を曲げたいと自発的に思って指を曲げることができるなら、私には自由意志が存在すると言えます。

もちろん、本当に「自発的に思って」なのかどうかの判定はできないので、自由意志を持っていると「信じる」としか言えません。

ベンジャミン・リベットという人が面白い実験をしています(先頭の URL も参照してください)。

自発的に指を動かしてボタンを押したいと思ったときにボタンを押すという行動を被験者にさせて、そのときの脳波を見るというものです。

結果は、ボタンを押したいと思う瞬間よりも 0.3ー0.4 秒ほども前から、特徴ある脳波の活動が生じている、というものでした。

この実験から考えると、脳の活動という物理現象(つまり上で述べた、自然法則にしたがった決定論的変化)が生じたあとで、さも自発的に行動を起こしたかのように後づけで認識しているように見えます。

つまりこの実験を、自由意志による行動とは幻想だという裏付けと見ることもできます。

しかし、「ボタンを押すための脳の活動」という物理現象を引き起こすきっかけとなるものは必要です。

私は、そのきっかけとなるものは決定論的な物理現象ではなく、自発的な現象であると信じます。

ただ、以上のように信じることにすると、これまでの物理法則に反した現象が脳内で起こっていなければなりません。

能天気に「信じる、信じる」と言うのは無責任だと自分でも思います。

が、どのように解決していいのか、今のところわかりません。

それから最後に、意識などの精神の働きは物質と完全に結びついていると思います。

つまり、脳内での物質の反応や信号のやりとりなどが大量に集合したときの複雑な動作が、精神の動作であると思います。

私の考えは以上です。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314009241/qid%3D109698...

Amazon.co.jp: ユーザーイリュージョン―意識という幻想: 本: トール ノーレットランダーシュ,Tor Norretranders,柴田 裕之

「ユーザーイリュージョン」はリベットの実験の詳しい説明が載っている本です。とてもわかりやすく書かれています。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622040964/qid=10969843...

Amazon.co.jp: 皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則: 本: ロジャー ペンローズ,Roger Penrose,林 一

リベットの実験も紹介してある「皇帝の新しい心」は物理学者のペンローズの書いた、意識に関する本です。

last_wednesdayさんは、どちらの本も気にいるのではないかなと思います。

id:last_wednesday

ありがとうございます。

全ての質問について答えていただき、うれしく思います。

ご紹介いただいた実験は大変興味深いものだと思います。

自分で選ぼうとしている(と思っている)のに、脳の現象としてはすでに選ばれており、

意識はただ結果を見ているだけかもしれないということですね。

>しかし、「ボタンを押すための脳の活動」という物理現象を引き起こすきっかけとなるものは必要です。

>私は、そのきっかけとなるものは決定論的な物理現象ではなく、自発的な現象であると信じます。

>ただ、以上のように信じることにすると、これまでの物理法則に反した現象が脳内で起こっていなければなりません。

>能天気に「信じる、信じる」と言うのは無責任だと自分でも思います。

>が、どのように解決していいのか、今のところわかりません。

意識の存在の他の自然現象に対する特異性を考えると、それ以外の物理法則に反しているということも、

十分あり得るんじゃないかと感じたりします。

本はどちらも面白そうだと思いました。読んでみることにします。

2004/10/06 14:43:20
id:neye No.16

neye回答回数50ベストアンサー獲得回数02004/10/07 23:44:17

ポイント110pt

http://www.hatena.ne.jp/1096948524

あなたは、人には自由意志があると思いますか? また、自由意志が存在するとはどういうことで、存在しないとはどういうことだと考えますか? (意識などの)精神の働きは(完.. - 人力検索はてな

1)人には自由意志があると思いますか?

常にあるとは言えないが、多くの場合にはあると考える。

2)自由意志が存在するとはどういうことで、存在しないとはどういうことだと考えますか?

ここでいう自由意志とは、意思決定過程において主体が自覚する自己の態度を意味するものであって、そこに選択の余地があると主体が認識する限り、その状態を自由意志が存在する状態と定義する。つまり、この定義によるならば、例えば、学生が今朝学校に行こうか、行くまいかと考えている状態は自由意志の存在する状態ということになるし、逆に、何かつらいことがあって、もうダメだ死ぬしかないなどと考えている状態は、自由意志の存在しない状態だということになる。

3)(意識などの)精神の働きは(完全に)物質と結びついていると考えますか?

心身が完全に結びついているかどうかは不明であるが、一定の結び付きがあることは否定しえないと考える。今日、ある種の神経伝達物質の働きが、特定の精神疾患の症状と密接に関連していることは、すでに科学的に証明されていると見てよいであろうし、日常的にも、お酒を飲むことで気分が高揚したり、身体が衰弱しているときに思考が曖昧になるようなことは、誰もが経験することだと思われるからである。

※と、こういうふうに回答してしまうと、ご質問の趣旨をはぐらかすような感じになってしまうように思いますので、議論を加えます。ただし、思想的なものです。

では、このような自由意志は、本当の意味で、人間の自由に属するものだと言えるのであろうか。言い換えれば、人間の意思決定は外的な因果の法則によって、完全に支配されているか、それともいないのか。この問いには容易に答えることはできないように思う。しかし、私は、人間の自由意志は真の意味で自由であり、外的な因果法則によっても完全には支配されていないと考える。なぜなら、仮に、人間の自由意志が、真の意味では自由ではなく、外的な因果法則によって完全に支配されているとするならば、人間の意志や行動を含めてたすべての事象は予測可能であり、計算可能であることになる。この仮定によるならば、世界は一つの擬似的な公理系となり、歴史の本質は宇宙的な公理の演繹過程となってしまう。これは世界的な精神や普遍的な理念によって、人々が動かされていると考える思想である。少なくとも、今の人類の社会を見る限り、この思想は危険であると、私は考える。なぜならば、この思想は、特定の歴史的事実をこのような世界精神の現れとして解釈することにつながり、ひいては自らの特定の思想的立場を、絶対的で、普遍的なものとして主張する者たちに理論的基礎を提供することになるからである。少なくとも、現在の人類社会を見るかぎり、我々は、人間の本質的な自由を尊重し、多様性を容認する方向に進むべきであることは疑うべくもないのではなかろうか。

※とまあ、書くならこんな感じでしょうかねぇ...(^^;

id:last_wednesday

ありがとうございます。

自由意志の存在が主体の認識によるという考えは初めてのものだったと思います。

自由意志は存在すると信じるべきだ。という人が多いですね。

認識される自由意志は、自己記述にまつわる問題を回避するために、予測できない(拘束されない)自己の存在を見せかける仕組みなんじゃないかと考えたりもしました。

このあたりで終了したいと思います。

回答して下さったみなさん、そして、のっかって下さったmiuriaさん。

どうもありがとうございました。

2004/10/11 13:22:31

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