【ご意見募集】司馬遼太郎『坂の上の雲』が、平成18年(2006)にNHKで特別企画の連続ドラマ(75分×20回)になるようです。


そこで、質問なのですが、いわゆる「司馬史観」について、皆さんはどう思われるでしょうか?

私個人は、一個人の史観が疑問もなく受け入れられることは大変危機的な状況であり、「明治時代は国全体に合理主義的精神が満ちていて国家体制も柔軟だったので日露戦争に勝てた。それに対し、硬直した官僚制と非合理な精神主義、内容の空虚な権威主義のもと、科学技術を軽視して勝つ見込みのない戦争に突入した昭和時代」という見方は、かなり一方的に思えるのです。

質問の性質上、URLダミーとなることが多いかと思いますが、それは一向にかまいません。じっくり回答を待つつもりですので、あなたの意見を展開してみてください。

司馬遼太郎擁護の書き込みは今回は御遠慮ください。「司馬史観おかしいな?」と思っている方の長文の回答を期待します。

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回答(7件)

id:kn1967 No.1

kn1967回答回数2915ベストアンサー獲得回数3012004/11/24 08:56:21

ポイント14pt

マスメディアの力は絶大なのですから「歴史」と「歴史小説」の区分をハッキリして欲しいものですね。

司馬遼太郎氏の作品は史実ではなく「史実を元に創造されたものです」といったような一筆を必ずいれるようにして欲しいと思いますね。

id:So-Shiro

もちろん、そういうことなのですが、時代の雰囲気はかなりマスメディアに影響されます。

最近の実例だと「作られた韓流ブーム」

kn1967さんの意見は、「司馬史観」は本物の「歴史」じゃないよ、個人の解釈だよ、ということでよろしいですかね。

2004/11/24 09:17:14
id:moonlightanthem No.2

moonlightanthem回答回数285ベストアンサー獲得回数02004/11/24 09:29:56

ポイント14pt

司馬史観については論議の種になることが多いみたいですね。

司馬史観の一番大きな特徴は、日露戦争から昭和初期にかけての時代だけを浮かび上がらせて、それまでの日本の歴史の流れ方とは違う異質な時代であったと強調するものだったと思うのですが、(精神的にも文化的にも、そこだけが連続性がなく断絶しているという主張)私自身が一番抵抗を感じるのは、確かにおかしい一面があった時代(それは彼自身が経験しているからでしょうけど)を取り上げて「常のものでない」として非難している所にあります。歴史はどう動こうが時間とともにあり、すべて連続しているもので、ひとつの時代だけが非連続であることはあり得ません。

司馬史観は、歴史に対する客観的な見方ではなく、彼自身の、激動の時代を見てきたためのアイデンティティ・クライシスが反映された見方でしかないと思っています。その時代を生きた人の見方を知るにはいい材料ですが「史観」と言うから語弊があるのではないでしょうか。

id:So-Shiro

うーん、moonlightanthemさん、けっこう読み込んでますね。

>彼自身の、激動の時代を見てきたためのアイデンティティ・クライシスが反映された見方でしかない。

まさに、彼の戦争体験が小説に反映しており、その意味で激動期の歴史小説は感動を呼ぶのですが、権威になってしまってからおかしくなってしまった。それが、『坂の上の雲』『「明治」という国家』『「昭和」という国家』に展開されている独自の「史観」なのだと、私も思うのです。

2004/11/24 10:27:42
id:DOK No.3

DOK回答回数360ベストアンサー獲得回数142004/11/24 10:03:40

ポイント14pt

私も司馬史観だけを見ると、方向性の偏った意見だと感じるでしょう。

ただ、紹介したページに記載のあるものをはじめ、唯物的史観や宗教的史観など、多数の史観論を重ねて考えると、どの史観もかなり極端だというイメージです。

そんな中で司馬史観は右派左派どちらからも叩かれやすい内容だと思います。

戦争に勝利している間はこんな要因が、負けている間は悪い要因がというふうに、究極の戦勝理論ですから、軸となる信念がかけている、という風にとらわれることも多いようです。分かりやすく言うと結果論。

史観分析というより、結果論に基づいて小説を書いたらこうなったというものではないでしょうか。(司馬史観自体、後年の他人がかってにカッコでくくったものですし)

そもそも、史観リスト(というものが存在すれば、それ)に列挙されるにはあまりに無理やり載せた感があり、それ自体単なる一作家の好みの問題だと思います。

id:So-Shiro

『「明治」という国家』『「昭和」という国家』の出版元の日本放送出版協会=NHKが『坂の上の雲』を特別企画で作ろうというところに非常に問題を感じます。

善良な視聴者は、信じ込んでしまう方もいますからねー。

2004/11/24 10:33:10
id:bragelone No.4

bragelone回答回数37ベストアンサー獲得回数02004/11/24 10:30:15

ポイント14pt

 昭和初期の時代は 日本社会の伝統から見るなら ありえないことが起こったというだけではなく それは 日本人の歴史に属さない・それは例外であると言い放つ《史観》(《春灯雑記》) この一点については 根本的に間違っていると考えます。

 《日露戦争の勝利に結びつく明治時代に比べて 勝つ見込みのない戦争に突入していった昭和時代》という見方の非をid:

So-Shiroさんは例に挙げておられるのですが 上の春灯雑記では その昭和初期は 日本史に属さないと言って その発言が終わってしまうところには 一体 司馬さんは どうしたのかと恐れたという体験がわたしにはあります。

 もともと 理論的な歴史観であるとは捉えていなかったですが 日本人とその社会について 長短の具体的なことがらをさまざまに捉えて提言されることを 歓迎していました。小説作品を離れても 面白く有益な見解を示してくれていると 今でも思います。《絶対》をめぐる議論(D.キーン氏との対談など) あるいは 《生命とその愛》を宗教の唯一の命題とせよとの議論(同じ春灯雑記)等々 評価すべきかと考えます。

 東条英機とかれが台頭してくるという事情の問題 戦争遂行にあたってのいわゆる肥大した思い込み・思い込ませとしての精神主義の問題など これらは 事実問題として そのとおりだと思うのですが 日本人にとって それらの歴史は 例外だと言ってしまえば 話にならないと考えます。それでは歴史を清算することも継承することも 難しかろうと思うことです。東条を悪者にすることによって 過去をもう問わないと判断したことになってしまう。これを例外視することによって その例外の事態をも含めた過去を 依然として引き継いでいるということになってしまう・・・。

 司馬さんは 特に戦争中に よほどひどい非人間的・反人間的なことを経験されたのかも知れません。それらは 自分の熟知している日本人ではないと ほんとうに感じておられたのではあろうと推し測られるのですが・・・。

id:So-Shiro

>昭和初期の時代は 日本社会の伝統から見るならありえないことが起こったというだけではなく,それは 日本人の歴史に属さない・それは例外である。

ここで、歴史学の基本から外れていることは明らかなのですが、歴史学者たちは何か発言をしていないのでしょうか?

黙殺、するには余りに影響力が大きくなっていると思うのです。

2004/11/24 10:37:26
id:asamaru No.5

asamaru回答回数4ベストアンサー獲得回数02004/11/24 11:34:39

ポイント14pt

司馬史観の内容よりもその受け取られ方に違和感を感じます。

一人の歴史小説家が小説を書く中である歴史観を組み上げた。そして、それは小説に十分反映され、その小説の面白さを出発点にして、多くの人に受け入れられた。ここまでは特に異論はありません。現に司馬遼太郎の小説は面白いと思いますし、彼の歴史観も個人の哲学としては傾聴に値するものだとは思います。

ただ、その史観が受け入れられたあとで、やや一人歩きしているように思います。出発点は「面白い小説」だったのに、いつのまにか小説に表現される「歴史観」そのものが、「事実」として扱われているように思います。多分に演出を含む「小説」に表現されている「歴史観」なるものが、より実証的な研究に裏付けられた歴史学や政治学などでの「歴史観」と同列に扱われていることが、問題なのだと思います。しかも世間一般の人だけでなく、近頃では政治家でもそういう影響を受けていると見られる人が多々見られ、そういう人の言説の中には自分を坂本竜馬と置き換えるような幼稚なヒロイズムに近いものを感じることもあります。

きちんとした「歴史観」といいえるためには、まず「歴史的事実」に基づいていること、「体系的・包括的な社会分析のための理論的枠組みを批判可能な形で提出していること」が最低限必要だと思います。「司馬史観」というのは、その結論はともかくとして、少なからぬ事実が小説の登場人物の架空の会話を通じて提供されること、そして、小説の性質上、小説の性質上出される社会観が断片的である点からして、きちんとした「歴史観」とは言いにくいと思います。

彼の「歴史観(の萌芽)」を出発点に、より体系化・理論化させ、上に言う意味での「体系的な批判が可能な歴史観として提示」されるならば結論の是非はともかく、現実の歴史観として扱われるのもよしだと思います。

おそらく彼の提出した結論が、日本人に情緒的にマッチしたのだと思います。ただ、それを政治・社会政策上の基礎認識とするのは、あまりに短絡的だと思います。司馬氏には失礼ですが、小説を漫画に置き換えればわかります。

id:So-Shiro

示唆に富む御意見ありがとうございます。

『○ー○○○”○宣言』レベルの本が世論を動かしかねない状況はおかしいと思います。本当に。

2004/11/24 17:54:10
id:kamatamon7 No.6

kamatamon7回答回数9ベストアンサー獲得回数02004/11/24 12:54:53

ポイント15pt

(URLは無効)

司馬遼太郎は歴史をある「起点の変化」とその後の「硬直性」で捉え、その硬直

性が例えば県民性になったり、制度になったりと考えている傾向が強いと思われ

ます。

 例えば、「高知県民は山内家の土佐入りの際の、地侍への過酷な差別が、

坂本竜馬に通じる反逆性を生み」とか、彼の戦時中の戦車隊での経験で

「陸軍は日日露戦争での成功体験が強かったために軍靴の改良を

惰っていたため」など、物事の原因・要因が、なにかの起点となる事実一つのみ

に依存していることです。

しかし制度や地域性を含めた歴史は、何かを起点があるにせよ、あくまでキッカ

ケに過ぎず、その後の様々な要素による熟成を経たものであり、起点(例えばキー

になる人物であったり、事件であったり)が絶対ではない気がします。

また、同じ地域や組織内でも、各々の個性があったはずなのが、一つの視点で全

てくるまれているということもあるでしょう。

しかし、一方で起点重視だと一見非常に分かりやすいので、受入れやすいという

ことがあります。 また小説であり、それがエンターテイメント性に富めばに、

更に分かりやすくなるでしょう。この分かりやすさが、「司馬史観」の評価を高

めてしまったと思います。

(逆にこの分かりやすさからでた評価は司馬遼太郎自信の史観をゆがめているか

もしれません。この点は、2の意見にあるように、そもそも司馬作品にあるもの

大半は『史観』ではない、といえると思います。)

更に、司馬史観の弱点は、(エンターテイメント性の保持上)人物個性中心の観

点でいるために、整合のつかない史実が出た場合には、全体として話が崩れてし

まうところではないでしょうか?

たとえば、坂本竜馬の人物像は明らかに司馬遼太郎が”当時の資料”をベースに

作りげられ今に至っていますが、例えば坂本竜馬が徳川慶喜を中心にした立憲君

主制を考えていたという資料が出てきた際には、坂本竜馬は既存体制(徳川幕府

体制)からの政治形態の変化で済むだろうという比較的「維新的」ではない思想

の持ち主になり、そうなると彼全体の人物像にも影響を与えかねません。

id:So-Shiro

坂本竜馬に関する一般の受け取られ方は完全に司馬遼太郎の個人的解釈に影響されていますよね、たしかに。私は竜馬は徹底したプラグマティストと思っているのですが・・・。

2004/11/24 17:58:12
id:o-tsuka No.7

o-tsuka回答回数16ベストアンサー獲得回数02004/11/24 12:59:17

ポイント15pt

urlは大河ドラマつながりで、新選組について司馬がいかに歴史を捻じ曲げ、あるいは恣意的に解釈しているか詳細に書かれているページです。

司馬遼太郎は史記を記した司馬遷からそのPNをとっているように、歴史学者への憧れがあったことは確かでしょう。

大量の資料を渉猟することでも知られていました(あれは一種の自慢だと思いますが)。

その割には資料の誤認が多く、また最新の研究成果にアクセスすることも意図的に避けていた節がうかがえ、甚だしきは諸先輩の浪漫的な捏造をそのまま受け継いだりもしています。

本人には思想的なパラダイムがあるわけでもなく、本来は史観の名には値しないと思います。

しかし彼がたいへん魅力的な人物が書ける筆力を持っており、彼の書く痛快なキャラクターが、敗戦へと収束して行く日本史に対するアンチテーゼとして機能したことは否めません。

これによって、卓越した個々人が歴史を動かしていくというような小説・ドラマ的な歴史観に、彼の名が冠せられてしまったという気がします。

この点、登場人物をヒーローか悪役としてしか描き得ず、様々な政治活動を個人の利害と混同したがる小林よしのりは、司馬の後継者と言えるのではないかと思います。

こうした歴史観は、一歩間違えば陰謀論に転落するような危ういうもので、戦国時代ならまだしも近現代を舞台にした作品をこうして描くというのは賛成できません

NHKは、かつて『獅子の時代』『山河燃ゆ』を放映したときに無名の人物を主人公たちにしたものですが、最近は局全体が変質している印象を受けます。

彼は自分が一番知っているはずの太平洋戦争について、ついに書きませんでしたが、帝国主義日本がどうしようもなく敗戦に導かれた世界史的・経済的な諸要因について書く力量が、彼には欠如していたのかも知れません。

余談、予断になりますが、『坂の上の雲』の脚本家として抜擢されていた野沢尚は、この作品を担当中に自死しました。

彼を死へといざなったのが何かは不明ですが、司馬作品には何か危険な誘惑があるのではないかと思わされます。

id:So-Shiro

このURL、もとのサイトの「司馬遼太郎の人と文学」も面白いですね。

だいたい、意見が出揃った感じですので、ひとまず終了します。

「テーマに沿った史実しかとりあげない、それ以外は史実であっても書かない、という司馬遼太郎のいきかたは、必然的に使う史実の量が減少してきます。」←なんという的確な指摘でしょう。

面白い御意見が続出しているので、しばらく回答を受け付けます。長文大歓迎です。

2004/11/25 20:14:35

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