http://www.hatena.ne.jp/1100612783
人力検索はてな - 喪失感、というものを激しく感じます。何故生まれてきてしまったのか、何故出会ってしまったのか・・・。つまり、生まれたり出会わなければ失うというを知らずに(覚えずに..
少し内容が反れているかもしれませんが
参考になるかもしれません
http://nayami.shiawasehp.net/ikiru/tanoshimenai.html
今の生活を愉しめない − 悩みのヒント
このようなページがありますね。
私の意見としましては、好奇心を大事にして、できるだけ物事を冷めた目で見ず、のりを大切にすることが必要だと思います。
最初は陽気な「のり」を無理に演じているだけでも、そのうちそれが普通になって楽しくなると思いますよ。
新しいことに挑戦してみようかなって気になりました。そのころ私は映画、ゲーム、テニスなどが楽しいことだったんですがそれらが急に同時期にさめてしまったので突然にと表記しました。新しいことを始めるのは良いのですが映画、ゲーム、テニスが楽しめないのは痛い。ありがとうございました。
osharu.com
↑この人楽しそうです。あと、
「楽しい」が難しいなら「気持ちいい」からはいってはどうですか?かなり近似のものだと思います。その延長線上に楽しいはあると思う。アロマがいい匂いで気持ちいいとか
蟹しゃぶとかやって、スルリと身がぬけた感じがサイコーとか。対物でも十分感情は揺さぶられるはず!
なんか今これ書いてるとき楽しいです。あれなんでだろう。嬉しいです^^;何か思い出しかけた気がします。世の中に対して冷めてた感じは確かにあったかも・・・・・気持ちいいとちかいもたしかに・・・・まだまだたくさんの意見お待ちしてます。ありがとう
HPを見て解決できる問題ではないのでは?
(URLはダミー)一度人間はこうして生きているんだ、生きるしかないんだ、わぁ〜汚い!・・それは病院又は介護施設?で思いっきり辛い目に出会う事も良い方向に向かう、きっかけになるのでは?
それはが何を指しているのかが分からない・・・
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/402264317X/hatena-q-22
Amazon.co.jp: この世からきれいに消えたい。―美しき少年の理由なき自殺 (朝日文庫): 藤井 誠二, 宮台 真司: 本
少しずれているかもしれませんが、私はこの質問文を読んで宮台真司の上記の本を思い出しました。
この本は、ある大学生の自殺を扱った本で、外見からは楽しそうな生活を送っていた青年が、なぜ自殺しなければならなかったのか?ということがテーマになっています。
そこで、宮台真司は、成熟した現代社会で「そこそこ楽しい、それでも無意味」と思うのか、それとも「無意味だがそこそこ楽しい」と思うのかが、自殺した彼と自殺しない人を分けたのではないか?ということを言っています。
FC6さんも、「楽しさに意味を求めてしまう」というような面はないでしょうか?
全然違っていたらごめんなさい。
謝らなくて良いです^^;考え方としては楽しさに意味を求めたことはないかと。ただ欲している感じです。
コメントを書いてて訂正する部分があるように思いました。現在でも楽しさを味わっているようです。しかし、頭の中で「すげぇ楽しい」といってしまうようなものを3年ぐらい味わっていないといった感じです。楽しさを数値で表すことができると仮定すると中2のころ最高値100、高1では最高値40とかに激減といったかんじです。ありがとうございました。
アドレスは辞書なので硬い言葉でかいてあります。
「楽しい」というのは「時間が経つのも疲れが溜まるのも忘れて熱中し完成した時に得られる爽快な気分」を指します。
対象は何かの目標(夢でもいいですよ)があり熱中できるものであれば何でもかまいません。まずは熱中できるものを探す事から始めてみてください。そして探す事に没頭してみてください。そうすれば楽しさを身をもって理解できるでしょう。
>まずは熱中できるものを探す事から始めてみてください。そして探す事に没頭してみてください。
この意見は取り入れてみようと思います。探すことを怠っていたつもりはありませんがもっと視野を広げてみたいと思います。ありがとうございました。
http://www.hatena.ne.jp/1104229390#
人力検索はてな - 感情についての質問です。私は喜びます、怒ります、悲しみます、涙を流すぐらいの感動もします。しかし、1つの感情が欠落しているような感覚があります。それは「楽しさ」..
ありきたりかもしれませんが、「楽しい」って自分で無理に思えば、
そのうちに本当に楽しいと思える様になるのではないでしょうか?
と言うのも、私も似た様な体験があるからです。 と言うか、今でも
そうかなぁ〜 大した事ではなくっても、「これ、楽しいじゃん」と
自分に対して暗示をかけ、その状態を楽しむ。 楽しくなくっても、
「こんな事や経験ってめったにできないよね。 それが今体験できる
なんて、これはいいチャンスだぞ」と思う。 そしてどんな些細な事
でも今までとは違う事を見つけて、それを味わう、つまり“楽しむ”
に置き換えていますね、私は。 話だけ聞くと「かえって虚しい...」
と思われるかもしれませんが、これを習慣にしていけば、それなりに
楽しむ事ができると思います。
ようは、できるだけ良いイメージを持って、物事に接する事だと思い
ますよ。 お蔭で知り合い達からは「いつも楽しそうでいいねぇー」
と言われています。 余程彼らから私は“ノーテンキ”に映っている
のかもしれませんが、他人の目なんて気にしない事にしています。
楽しみを見つけるのは本人の自覚次第だと思いますので、良いイメージ
明るいイメージを持って、何事にも接してみて下さい。
FCPさんにとって参考にならないかもしれませんが、これは私の経験
ですので、“だめもと”で試してみる事をお薦め致します。
人生はまだまだ長いのですから、いろいろ試すのも“あり”では???
では
楽しいの暗示ですかいい意見です。
>良いイメージを持って、物事に接する事
前の方の回答にもつながる気がしますが冷めていてはだめなようですね。気をつけます。
ありがとうございました。
新たな自己発見とその人生の第一歩を踏み出しましょう
様々な精神的なスキル、つまり「メンタル・スキル=コーピング・スキル」を身につけ
それをもってトランジションに対応していくことが重要だと思います。
自分とは何か といったところから始まる「自分を知る」というメンタルトレーニングや
新しい自己の確立をしていく必要があると思います
サイコセラピーの書籍です
トランジションがちょっとわからんです^^;
前に進むこと、冷めたところを変えていくことを
心がけて生きたいと思います。
ありがとうございました。
人と話していても気分が沈み、好きだったはずのことにも集中できず、楽しめず…という経験が私もあります。何か自分が大切なものをどっかに置き忘れてしまったような気持ちになり非常に焦ったものでした。
URLは学校教育における「楽しさ」について触れています。直接の参考にはならないかもしれませんが、ここに、【楽しさとは充実感である。達成感である。感」もそうである】とあります。
楽しめなくなったからといって、そのせいで塞いでいては、余計に「楽しい」という感情を取り戻しにくいのではないでしょうか。何年もその状態が続いているのであれば辛いでしょうが、どうか焦らずゆっくりと心落ち着かせて過ごして下さい。そうした穏やかな日々から、楽しさが生まれてくるのではないでしょうか。また、喜ぶという感情まで失っていないのであれば、その喜びに連動した楽しさを感じることも(毎度ではないでしょうが)あるかと思います。「頑張ろう」とか、そういうのではなく、ゆったりと過ごしてみてはいかがでしょうか。
物事に真剣に取り組んでみようと思います。思うところが多いです今日は^^;
>人と話していても気分が沈み、好きだったはず>のことにも集中できず、楽しめず…という経験>が私もあります。
酷似してます。こんな感じです。mimibukuroさんは楽しさを取り戻せましたか?もし取り戻せたのならかなり希望が持てるのですが。もしそうならmimibukuroさんのたどった経緯をもう少し詳しく知りたいです。
再回答お願いできませんか?
http://f1.aaa.livedoor.jp/~shizuku/To_96_Kanjyono.html
Torauma96〜感情の欠落
問いかけになっているかもしれませんが、目を通してください。
事象としては違いを感じますが気分的には重なります。
>時間の流れや環境の変化で、私はあの場所から>退きました。
>もしあなたがあの場所にいるのなら、
>人のぬくもりを信じてください。
勇気付けられます。まじで。
僕の見た秩序。
僕の見た秩序というサイトです。
日常に転がっている面白いものを紹介していて、サイトを読んでいると、世の中にはこんなに楽しいものが転がっているのだなぁと、ちょっとはっぴぃな気持ちになりますよ!あと、漫画なのですが「おおきく振りかぶって」という漫画が面白いです。おすすめです!
私の意見ですが面白いと楽しいは似て非なるもの
なきがします。私はよく笑いますがそのときの感想は面白いで、楽しいとは少し違った感覚です。
ありがとうございました。
考えてみます。
人力検索はてな - 質問一覧
↑ダミーです
ある意味、それが大人になったということではないんでしょうか。
わたしも同様のことを思った時代がありました。(すでにそのころの倍生きていますが)
でもその結果として、なにかに熱中していても、もう一人の自分が後頭部あたりから、見落としのないようにと見守っている感じで、責任をもって行動できるようになったと思います。
運転とか、子育てとかにはこの覚めて(冷めて、醒めて)いるもう一人の自分が欠かせないように思います。
体を思い切り動かすときとかはさすがにそんな余裕はないですが・・・
なるほど。そういう考え方もできますね。私も冷めた感覚が強ければ強いほど能力的には高くなっていくと思います(主に頭を使う部分において)。しかし、かなり冷めてる状態で星新一の本を読むとオチがほぼ全てよめてしまいます、楽しめないです。穿った見方をしてしまうわけです。やっぱり人生楽しみたいじゃないですか。私は皆様の回答を見て冷めてる自分を変えたいと思いました。
http://www.hatena.ne.jp/1100621296
人力検索はてな - 複雑な質問でわかりにくかったらすみません。 実は私の父親が(×バツ3)4度目の結婚をしたいと言ってきましたが、相手が30才も若い私よりも年下の外国人です。 私は、..
過去の私の質問です。
↑は方向が違うかもしれませんが、すみません(_ _)
私も、一時期、喜怒哀楽でいえば、喜が欠落していたときがあります。
周りのみんなと、一緒に楽しい(らしい)ことをしていても、妙に自分の中に冷静な自分がいて、表向きは楽しいフリをしていても、実はたのしくない。。。ということがありました。
時期的には、10代半ばから後半にかけてですね。
私の場合は、いろいろな逆境が一気に押し寄せてきたので、負の感情の方が勝ってしまったのだと思いますが
1人で楽しさを追求しても限界があると思います。
信頼できる人・理解してくれている人がいれば、一緒に力になってもらって、
あまり、楽しさを求め過ぎても、逆効果になるかもしれないので、あせらずに、探してみてはいかがでしょうか?
ここに、書いてみて、少しでも楽しいと思っててくださればいいですね♪
癒されました、ありがとう。
これは、私のHPです。年間で海に入っているのが120〜180日。サラリーマンです。夏場は、早朝4時に起きてサーフィンをしてから、会社に行くこともあります。
台風が接近してきて、肩くらいの波が入るとき、板を返して波のフェイスを駆け抜ける瞬間、あ〜っ俺は最高の波に乗っている・・・いつもそう思っています。
人生10中8〜9は自分の思い通りにならないでしょう。その中で自分の趣味を持ち、昨日よりも今日、今日よりも明日と、進歩をしていくことで、喜びが沸いてくるのではないでしょうか。25年前私は東京の新宿にある学校で、3年間数学は学年1位でした。その時数学の先生に数学オリンピックに出ないかといわれたこともあります。
人生の喜びは自己実現ではないでしょうか。何かを達成しようとする意欲があれば、達成した時に喜びは得られるものです。
趣味を持ち、向上心をもって練習をしたら如何でしょう。
参考にします^^
>年間で海に入っているのが120〜180日
この部分がすごいなぁ〜
ありです
URLは関係あるようなないようなものですのでポイントは結構です。
過去の自分と同じこと感じておられるので回答させていただきます。
私は10歳から17歳までまさに同じ状況にありました。「楽しい!」と思えないのです。中高生の間、ずっと10歳のころの楽しかった記憶を思い返していました。ところが17歳の時、まったくひょんなきっかけから親戚でも何でもない大学生のお兄ちゃんと旅行に出かけることになりました(恋愛感情すらない、ほとんど知らない人)。まったくもってハプニング以外の何物でもなかったのですが、その旅行がめちゃくちゃ楽しかったのです。
まもなく恋人ができました。もちろん最初は楽しかったのですが、しばらく経つと私はまた昔と同じ楽しみの消失を感じるようになりました。いつもと同じようなデート、ドライブに出かけたある日、某公園の駐車場に車を止めてその場を離れたところ、戻ってみると車止めが上げられて車が出せなくなってしまいました。私には門限があり、帰宅時間のリミットが迫っています。あせりましたが、むしろ彼の方がおろおろしています。とりあえずパニックになっている彼をほったらかして出られるようなところがないか探しに行きました。すると道路に面して工事中のフェンスが張られているところがあります。車をそこまで移動させ、そこいらにあった道具でフェンスを解体、四苦八苦して脱出しました(某公園の管理人さんあの時はごめんなさい)。その時、めちゃくちゃ興奮している、状況を楽しんでいる自分に気づいたのです。わかった気がしました。自分にはときどき非日常体験が必要なのかも、と思いました。
あるいは、予測できない事態に直面することいってもいいかもしれません。そんなたいそうなことではなく、返答が予測できない見知らぬ人と対話(日常会話ではなく)することも非日常です。
どなたか、「穏やかな日常」という回答を寄せておられましたが、私の場合はその反対を提言します。ただ、「非日常」を期待して行動すると、先が予測できた時点で非日常でなくなってしまう気もしますが…
今の私にとっては10年近く昔の話です。毎日、日常、恋人にも進路にも特に不安はないけれど、ずっと先がどうなるのかわからない、そんな年頃に、ずっと抱えていた思いでした。
意外と同じような経験をしていらっしゃる方がいて正直驚いております。「非日常」ですか。皆様の意見を参考にすると「適度な非日常」の体験が不可欠なのかもしれません。参考にさせていただきます。説得力ありました。この質問をしたおかげで心が救われる感覚があります。
皆様の意見を本当にありがたく思っております。
まだ回答を募集します。
私は専門家ではありませんが、恐らく何らかのきっかけ、原因があるのだと推測します。
その原因に自分が気がついていないか?気がついていたとしても無視しているのかもしれませんが。
”内観療法”という治療法があります。
サイトはいろいろあるので、上記以外にも探してみてはどうでしょうか?
見てみますね。ありがとう
あまり考えすぎもよくないですよ。普段の生活で自然と楽しみがきっと見つかります。それまであせらず待ってて下さい。
おすすめの本といえば、昔よく読んでた中島らもなどいかがでしょうか。
考えすぎてはいないのです。考えすぎた時期はありましたが過ぎ去った過去ですね。ただ考えないと「楽しさ」をあきらめてしまったような感覚になるのも事実で。
すみません、mimibukuroです。さっきの回答にもっと詳しく書けば良かったですね。ゴメンナサイ^^;
私の場合、中1の頃からそういう状態でした。ちょっとしたことから、周囲の人間に対して不信感を抱いたのがきっかけだと思っています。で、改善されたと自分で感じたのは高1の辺りです。高校に入ったことで中学時代の人間が周囲から激減したことと、ものすごく好きな人が出来たのがきっかけだと思います。しかし、そのころはまだ「時々楽しい」とか、それくらいのものでした。すっかり回復したと実感したのは高3くらいだったでしょうか。卒業を間近に控えて変なテンションだったのがきっかけだったように思います。いま遊ばないと…みたいな状態でした。くだらない悪戯ばっかり、子供のように熱くなってしてましたね。少しずつ楽しさのレベルが上がっていくというか毎日とにかくどんな悪戯をするかばっかり考えてました。
焦ったり泣いたりもしましたが、後半はもう、「別にいいや。これも個性」と割り切ってすごしました。が、或る日突然、本当に突然、回復しました。今は(多少不安定なときもありますが)、そういうこともなく過ごしています。
いつまでに直るとか、絶対大丈夫とか、そういう約束はできませんが、とにかく焦って自分を追い詰めたりしないで、気長に待ってみてはいかがですか。
先にも述べましたが、「楽しもう」と無理に楽しさを求めることがあなたの負担になっている可能性もあります。
今、こうして苦しい思いをすることが、いつかあなたの糧になる日が来るかもしれない。例えば私がこの回答を、今ここですることができるように。
本当はもっと詳細に打ってたんですが、あまりにも長いんでやめました。もし良ければURLは自分の日記ですが、そちらに載せますので、参考になれば幸いです。
では。
長文ありがとうございます。日記も読ませていただきました。重なる部分が多々あり正直驚いています。
人間に対しての不信感は確かに私にもあります(弱まっていますが)。理由は簡単にいうと親友の裏切りですね。友達ではないです親友です。薄々はそれが原因ではないかと私も感じていました。今確信に近くなりました。私の問題が見えてきました。もっと人を信じてみようと思います、
たとえ裏切られたとしても負けずに。本当に感謝します。ありがとう、勇気付けられたぁ〜
アドレスはどっかの誰かの「楽しみ」論です。
なるほど・・・ってとこもありますけど・・
さて、「楽しむ」と言うことは良く芸術と同じと言われます。
「芸術」と言う物は、人が「生きる」と言うためだけに限定すれば
必ず必要な物ではありませんが、有ることにより人の生活に潤いを
与える事ができます。
「楽しみ」=「あそび(余裕)」であると言う論点から言うと、余分な物であるからこそ存在できうるとも言えます。
例えば人が何か行動をおこすとき、そこには目的と言う物が存在します。
その目的を果たす最中にそれを「楽しむ」と言う行為は必ずしも必要では有りませんが、それが有ることにより、その目的を果たすために使われた時間に対し、
より潤いを与えることが出来ます。
楽しむって行為は余計な物であるが、あるとその経緯に潤いを与える、
そんな物だと割り切ってしまいましょうよ。
僕は結構無感情な方でしたが、その無感情である自分を第三者の目で見てみると
これはなかなか面白いのではないか、
楽しんで無い自分は面白いのでないか?
と繰り返してるうちに、毎日が結構楽しいんだなー
って思える様になりましたよ。
結構「楽しい」って感情の無い自分って「楽しく」ありませんか?
哲学的な意見ですね。熟考を要するのでコメントは控えさせていただきます。ありがとう
人力検索はてな - 質問一覧
まず、そういう喪失感をなくそうとする考えが、
自分を追い詰めてしまって、”楽しさ”を奪っているのではないでしょうか。
人によって”楽しさ”の定義は大分かわってきますから、楽しくなるにはどうしたらいいんですか、なんて聞いても答えは返ってこないのです。
一時的に”楽しく”なれればいいのか、ずっと”楽しく”していたいのか。
第三者が、個人の感情にアドバイスをするのは非常に難しく危険で、
相手を追いやってしまうかもしれないのです。
もし、本当に、あなたなりの楽しさを追い求めたいなら、
それなりの機関に行ってみてはどうでしょうか。
少なくとも、喪失感でかい だけではどういう状況なのかわかりませんし、
不適切なアドバイスがあったとしたら余計に追い込んでしまいます。
一時的な楽しさ程度でいいのであれば、この「はてな」を見ていれば、
おもしろい質問はたくさんありますし、参考になさってはどうでしょうか。
確かに安易な質問だったかもしれない。だけどこの質問に寄せられた回答が私にとって大きくプラスになったのは事実。方向性は見えた気がします。
でもhinop さんのいっているように追い詰められるのが危険というのも分かっております。気をつけます。私にあったスタンスを見つけていきます。
求めていた答えとは違いますが、私と悩みは似てますね。私もあれほど素晴らしい「楽しい」という感情を知らなければこんな質問しなかったでしょう。ありがとうございました。