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回答1件)

id:clotho No.1

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ポイント50pt

URLはダミーです。

一年間北京語を習っただけですので、若干曖昧な部分もありますが以下のようになりました。

1972年、秦錫珍は不幸にも仕事の怪我によって植物人間になってしまったが、その夫韓志華はずっと愛し続け30年間看病した。

今年の一月十一日、62歳にして秦錫珍は再び結婚式を挙げた…。

本紙記者 崔佳

20世紀1950年代、重慶特殊鋼廠青年職工の韓志華と秦錫珍は人の紹介で知り合い、映画を見た後で恋に落ち、1960年に結婚した。

その時を振り返って、年老いた韓志華が話すには、二人が愛し合った時間は長くないが、交流はとても深かった、両者とも相手の経済状況は考えず、ただ相手の人間性に惹かれあったという。

結婚した後彼らは一男二女を育て、生活は豊かとは言えなかったが、ただ家族と仲むつまじく幸せに楽しく暮らした。

しかし人生はなにが起こるかわからない。1972年5月14日,秦錫珍が仕事場の金属プレス機で作業をしていたところ,誤って高いところから転落し頭から大出血してしまった。二回の手術で一命はとりとめたものの、医者は言った、“彼女は既に植物状態で、いつ目覚めるかわからない。”と。

秦錫珍はとても苦しんだが、韓志華の心もぼろぼろになった。妻が寝たきりになったその日から、彼は病床から一時も離れず看病した。毎日ぬるま湯に浸した綿で彼女の唇をぬぐったり、彼女の名前を呼びかけたりした。韓志華は言う、その時一つの信念があったと:”彼女はきっと目覚める、きっと、彼女は彼女の命を私が見守っていることを知っているのだから。”

必死で妻を愛し、看病すること6ヶ月、まだ37歳だった韓志華の髪は全て白髪になってしまった。

そしてついにある日、韓志華は妻の口の中の綿をしっかり噛んだことに気づいて、韓志華は狂喜して走っていって医者に教えた。それからまもなく、秦錫珍は奇跡的に目覚め、その上立ちあがった。

しかし喜びは短かった、人々はすぐに秦錫珍は何も書くことが出来なくなったことに気づいた。医者によると、患者(秦錫珍)の知能は1、2歳の幼児と同じ程度で、しかもいかなる刺激も感じることが出来なかった。

韓志華はすぐ医者に”彼女を救ったことに感謝の意を示します、これから先私たちがどうなるかはわかりませんが、彼女がどんな有様であろうと、私は心を尽くして彼女の世話をします。”と伝えた。

その時彼の立場は非常に苦難に満ちていた。三人の子供のうち一番大きな子は十歳、一番小さい子はたったの六歳だった。しかし彼はあきらめることなく、毅然として妻の面倒を看て、また子供達を育てるという重任も果たした。

彼は振り返る、”私のその時の考えは実に簡単なもので、そのとき私は彼女を愛していて,彼女を捨てることは出来ないし、子供もまた母親なしでは生きられなかった。”と。

目を覚ました秦錫珍はものを食べるということ以外は何も出来なかった。その時の商品供給は緊迫していたので、韓志華は一家に一ヶ月に定量の0.5キログラムのあめを買って帰ってきた。秦がいつもあめをひとり占めしていたのを息子や娘達はうらやましそうに見ていた。この時韓志華は子供達を集めて言った、:“私の家の子供は皆大きくなった、物事をわきまえていて、母に関心を持つことを知るようになった。”

秦錫珍は子供達のものを奪い取って食べただけではない、その上いつも韓志華の前で子供達を訴えて、韓志華が子供達を厳しく叱るのをみてようやくおとなしくなるようになった。

彼女を興奮させないために韓志華は本心を偽り子供達を厳しく責めてしまうので,彼女が満足して離れておとなしくしているのを見てから、子供達をそっと引きよせて、目に涙を浮かべながら言った:“お前達は不当な待遇を受けているが、お前達のお母さんは病気なので,私達は皆彼女の面倒をみなければならない、ただお母さんの病気さえ良くなれば私達一家はようやく幸せになれるのだ。”

妻をできるだけ早く回復させるため、韓志華は思案をめぐらして彼女にとってよい薬を探して、栄養を摂らせようとした。オニノヤガラでブタの脳を煮込むことで脳を補うことができると聞いては、韓志華は毎日妻に数年にわたり食べさせ、また、ローヤルゼリーが秦の病気に対して役に立つかもしれないと聞いて、韓志華は様々なところを廻り人に頼んで上海から十数箱買って帰ってきた。

家計は火の車になったが、韓志華は節約し、十数年新しい服も買わないで、たばこも最も安い葉たばこだけを喫んだ。

生活の上で行き届いている配慮を除いて、韓志華はずっと妻が正常な人の知力に戻るように努力をすることをやめなかった。

彼は妻のためにおもちゃを作って、彼女に指を折ることで数を数えるように教えて、昔の写真を取り出して彼女に彼らの過去を説明し、また天気が良い時には妻を連れて戸の外へ散歩して、彼女に草花の見分け方を教えて、市場で売っているおのおのの商品を教えた。孫が二回で覚えられた住所を、何十回も教えても彼女は覚えなかった。しかし彼はその事を嫌がらず、覚えるまで教えた。

たぶん三十年にわたるこの事柄が天を感動させたのならば、天は一日でそれを返すであろう、そして二年後にそれは訪れた、秦錫珍の知能は奇跡的に大きく回復し,自分のことを自分で出来るようになっただけではなく、その上家族に関心を持つようになり、簡単な家事が出来るようになった。

夏の日の停電の時には夫のためにガマの葉で編んだうちわで仰いであげることを知り、息子と娘が病気にかかったときには、秦錫珍はかわいそうに思い涙し、韓志華が定年退職した後に老年の芸術団に参加し、毎回参加している稽古をしに行くために外出する前に妻は湯飲みを彼のために準備し、また彼に車に注意することを言い聞かせるようになった。

韓志華が植物人間の妻を愛し続け看病したという人を感動させた出来事は、重慶市のメディア報道の後、社会に大反響をもたらした。

秦錫珍の最大の願いが回復した後に夫と再びひとまとまりの“結婚写真”を撮るということである、と知った時、重慶のウェディングドレスの会社とかつて結婚式を執り行った結婚会社とホテルはすぐに彼らを探し当てて、無料で彼らのために更に一回の婚礼を担当することを申し出た。

1月11日、二人の60過ぎのの老人は手をとりあって赤いじゅうたんに足を踏み入れた。婚礼の上で、重慶市の婦人連合会は彼らに“五好の文明的な家庭”の模範であるという称号を授与し、またたくさんの熱心な人々がうわさを聞いた後に馳せ参じ、二人の老人を祝福した。

id:ringoron

ありがとうございます。

とてもわかりやすく翻訳されており、感謝しております。

いい話ですね。感動しました。

この翻訳で十分なのですが、もう少しだけ質問を続行します。

2005/03/09 22:03:58

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