【歴史】延喜式に神宮として伊勢・鹿島・香取の3つがあるそうですが、鹿島と香取が神宮である理由を教えてください。

主な疑問点は、
・西でも、信越でもなく、常総の宮が選ばれている
・3つしかない神宮のうち2つを距離的に近い2宮が占めている
回答には、
・延喜式より前の時代(10世紀かそれ以前)を対象とした説明
・裏づけとなる史料・文献(入手困難でないもの)
を少なくとも書いてください。個人の仮説でも結構ですが、裏づけの資料となるサイトへのリンクをお願いします。

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回答4件)

id:speedster No.1

回答回数767ベストアンサー獲得回数16

http://www.bokuden.or.jp/~kashimaj/engi0016.htm

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『鹿島神宮のサイト』


~ 鹿島神宮の紹介ページより ~

遙かな神代の昔、高天原(たかまのはら)の八百万神(やおよろずのかみ)達は、我が国を「天孫(すめみま)(天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御孫)の治める豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」とすることを決められ、これに先立ち、まず国中の荒ぶる神々や夜も昼も騒がしい世の中を言向(ことむ)け平定(やわ)することが先決であると衆議一決しました。その為に二度も神の使者が送られたのですが悉(ことごと)く失敗し復命(かえりもうし)する者がありませんでした。

そこで改めて、天祖である高皇産霊神(たかむすびのかみ)と天照大御神の命を受けて高天原より天下られた神がありました。名を「武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)」と申し上げ、大神の御事蹟(ごじせき)はまず出雲の稲佐(いなさ)の浜から始められました。この浜に大神は平国(くにむけ)の奇(く)しびなる御剣(みつるぎ)を立てられ、国津神(くにつかみ)の大国主命(おおくにぬしのみこと)、その子事代主(ことしろぬし)、建御名方(たけみなかた)の神々との国譲りの交渉に強い力を発揮され、その交渉に成功するのです。やがてそこより東遷(とうせん)して各地の平国と開拓に当たり最後に東路(あづまじ)の果て、鹿島に止まりここから西の方に香取を臨みて鎮(しず)まられたのです。第十代崇神天皇(すじんてのう)の御代(四世紀後半頃)に、多くの人々が疫病に苦しみ世はまさに困窮(こんきゅう)の極みにあったとき、奈良県二上山(ふたかみやま)の頂(いただき)に白衣(しろたえ)に白桙(しらほこ)を持って立つ神があらわれ、「我を祀(まつ)らば小国(おぐに)も大国(おおくに)も汝(な)がすべての国を安んぜよう」との神示がありました。この神が「鹿島に坐(ま)す神」だと知らされた天皇は大いにかしこみ、ただちに多くの御幣物(ごへいもつ)を鹿島の宮に奉納されました。このことは第十代の天皇の御世(みよ)には、鹿島の宮が既に存在していたことになります。社伝によりますと、鹿島の宮の創建は初代神武天皇即位の年とあり、凡そ2660年ほど前のことだといわれます。鹿島の神が神武東征(じんむとうせい)の折り、「霊剣」霊の剣(ふつのみたまのつるぎ)により天皇をお助け申し上げた報恩(ほうおん)がその由来とあります。いずれにせよ、鹿島神宮が関東でも屈指の古社であったことは疑いを入れないところです。平安時代の延喜式では、神宮の号を持つお社は、伊勢を除いては鹿島と香取のみであったこと、二十年に一度の造替(ぞうたい)制度があったこと、更には天皇の一世一度の奉幣(ほうべい)や立后(りっこう)の奉幣などによってもそのことは容易に窺(うかが)うことができるでしょう。

id:devbankh

もう少し質問の主な疑問点に対して説得力がある回答がほしいです。

上の抜粋では、「鹿島に止まりここから西の方に香取を臨みて鎮(しず)まられた」というとこでしか2宮に触れられていませんね。もっと歴史が絡んでほしいです。

ありがとうございました。

2005/04/10 00:55:25
id:uumin3 No.2

回答回数108ベストアンサー獲得回数2

ポイント30pt

 神宮という名前がつくものは伊勢・鹿島・香取以外にも熱田・近江・白峰・石上・平安・明治などいくつかあります。まず近代社格制度においては、伊勢神宮のみが「無社格」で社各制度を超越した位置づけにありましたが、他の「神宮」を冠するものは神祇制度的には特別扱いのない神社の一つでした。


 それでは古代ではどうかとなりますと、制度的に伊勢・鹿島・香取の三社が別格であったというのは難しいと思います。伊勢神宮が皇室の氏神として特別の扱いを受けていたとしても、鹿嶋・香取は違うでしょう。これらは式内社で名神大ではありますが、同じレベルの扱いを受けていた神社は少なからずあります。またそれぞれ常陸国・下総国の一の宮、官幣大社ではありますが、他の国々にも一の宮はあり、官幣大社もあります。また後々まで国家による奉幣が存続した「二十二社」にも鹿島・香取の両神宮は入っていません。そういう意味で名称以外に特別なところは見受けられないと考えます。


 鹿嶋・香取の名称に神宮がついた由縁ですが、中臣(藤原)氏との関係ではないかと思います。平城京遷都直後に、藤原氏は氏社として春日大社を創建しましたが、それは鹿嶋・香取の分霊を迎えて行われたとされており、由緒的に皇室に張り合う意味でも両神社に神宮という名称を与えたのではないかというのが私の推測です。

 鹿嶋・香取とも宮司職は代々中臣氏の世襲となっています。その出自に関わりがあったものとは思いますが、それ以上のことはわかりません。


 参考にしたのは『神道を知る本 別冊宝島EX』宝島社、1993年と『歴史読本 臨時増刊 よみがえる神道の謎』新人物往来社、1989(9月)、それにWikiぐらいです。(家にろくな資料がありませんでしたので)

id:devbankh

なるほど延喜式で同レベル(伊勢神宮は別格として)の扱いをされていたのは他にもあるのですか。

しかしそれでWebを調べたら

http://t4tomita.lolipop.jp/htr/fst24.html

で延喜式神名帳には174もの名神(名神大と同じでしょう)があるそうです。そのうちこの2つだけが伊勢と同じ神宮なのはやはりひっかかります。

中臣氏の関わりは強いと思います。Webで見たのですが中臣鎌足は鹿島の出身ではないかというのがありました。また香取神宮はもともと物部氏と関係があったとか。このあたりまで詳しくわかるといいのですが。

ありがとうございました。

2005/04/10 14:52:14
id:hamao No.3

回答回数3293ベストアンサー獲得回数40

ポイント30pt

鹿島神宮は東国支配のシンボリックな存在であり、一定の力は持っていた

藤原氏は春日大社から祭神を迎えた関係上、香取を格上げしなければならなかった

近くの香取が格上げならもっと大きな鹿島も神宮でと並べてしまった

ついでに神も同じような来歴にしようと日本書紀の記述も変えてみた

id:devbankh

これはありそうなことですね。藤原氏の都合がいいようになっていると。延喜式の編纂の詔命を受けたのも藤原時平(他11名)だとか。勅命を受けたということは、編纂の奏上自体をした可能性が高そうです。

一つつながらないのは、なぜ香取と鹿島が同格なのか、ということです。両方のリンク先にもあるように鹿島の方は「香島の天の大神」と呼ばれるほど強い影響力があったと思いますが、香取の方は触れられていません。春日大社の祭神は両神宮の神だそうですので、春日大社で武甕槌命(鹿島)経津主命(香取)が祭られるようになった後のことは説明がつきますが。

そもそも春日大社創設(藤原不比等)の時は鹿島の方だっただけだそうです。

http://www.genbu.net/data/yamato/kasuga_title.htm

それがなぜ後から香取を同格として扱わないといけなかったのか。また、天児屋根命と比売神の枚岡(河内国一ノ宮)はなぜ”神宮”にならなかったのか。

まだまだ興味は尽きません。

ありがとうございました。

2005/04/10 15:27:56
id:gase No.4

回答回数37ベストアンサー獲得回数0

ポイント30pt

個人のいい加減な記憶であり、URLを探している時間がない(申し訳ない)ので、ポイントは結構です。URLは直接は関係のないものですが参考になればと。

鹿島・香取は物部(中臣?)系。またそれだけではなく、国譲りの際に貢献したとされている事はやはり記紀において重要なポイントなのだと思います。同じ系列では、前者は春日「大社」後者は石上「神宮」・諏訪「大社」として中央や後の世で重きを置いておりますし、諏訪大社などはある意味関東の〆(笑)。前者は記紀の(意図的に見える)編纂のように、藤原権勢下ではそうなるのは流れ的にも自然な事のように思えます。

正確な定義は別にある(のか微妙ですが)ようですが、大体で天皇に縁のある豪族で神代のものに神宮が、後のものは大社とならざるをえなかったというか。。

新潟がどうかは知りませんが、東北は全般延喜式に含まれる神社が少ない気はします。東征に限らず、常陸辺りが実質的な大和朝廷の北限だったのかもしれません(?)。

また、この頃遠方の商業交通のメインは航路だろうと思うのですが、陸路では日本海側(新潟)を北へ延びる道より太平洋側の方が陸路が発達していた事。太平洋側の荒い航行に耐えられない船しかなかった当時、海流を利用して行くと日本海側から北を経由して鹿島・香取(香取は微妙)が海流の限界にあたる事(夏に大発生する巨大クラゲが海流に乗って流れていくとあの辺でふんずまります。西から関東への海流は大体で伊豆辺りが限界)‥などなどでしょうか。


スミマセン、時間がなくて乱筆です。

id:devbankh

忙しい中こういう質問に答えてくれるほどの方の回答は興味深く、なるほどと読ませてもらいました。ありがとうございます。

3.の回答者の方が書かれたように藤原氏に有利なように記紀も含めて編纂した可能性は大いにあると思います。

神代の豪族に関わるものが”神宮”になれたというのも面白いです(出雲大社は外れますが)が、そうなると延喜式の時点で神宮を冠していた意味がより際立ちそうでもっと鹿島と香取の別格性を知りたくなってきます。

少なくとも10世紀の大和朝廷の前線は常陸よりずっと北だったと思いますが、いずれにしろ前線に近いところに神宮を置く必要性があったのかも考えないといけないですね。

私としては、香取浦(10世紀は利根川は常陸を通っておらず、現霞ヶ浦は香取浦で、鹿島と香取はその両岸にあった)の重要性も関係しているのではないかと思っています。青森の十三湖のように(内海としての大きさが全然違いますが)、こういう場所は今のイメージとは全く違うほど富の集積地となっていたと思うのです。

また他の方の回答などをみて思いつくとこなどあればお教えください。

2005/04/10 15:49:38
  • id:yokikotokiku
    いわし出たので。

    回答の条件を充分に満たしていないので、いわしに書こうと思って待ってました。
    歴史は特に詳しくないので、古典に出てくる常陸の国から思うことを述べます。
    というわけで、的はずれかもしれません。そのわりに長いです。

    まず、鹿島、香取が向かい合う入江は「今昔物語」「宇治拾遺物語」に出てきます。平忠恒の反乱(1031)のところです。
    「衣川(鬼怒川)の尻、やがて(まんま)海のごとし」ということで、鹿島神宮の前から対岸にある平忠恒の居城まで、(忠恒が船を隠したので)入江をに沿って陸路でいくと「7日はかかる」と書かれています。
    7日は大げさかもしれませんが、かなり大きい入江です。青森の十三湖程度の規模はあったと思います。

    常陸は、平将門の活動拠点でもあります。
    「延喜式」が完成したほぼ10年後には平将門の乱が起きています。これはもともと常陸の豪族同士の土地争いが発端らしいので、
    「常陸」は、豊かで有力な豪族が多数おり、国の守(親任国だから正確には介)の言うことなんか聞きゃしないでお互い争い、暴れまわる、一種無法地帯だったと思われます。

    陸奥は、10世紀にはまだ人口も生産性も低かったのではないかと思います。
    また、当時のあそこの住民は、「今昔物語」(「陸奥話記」の転載)によれば「俘囚」、つまり朝廷に帰属したアイヌのヒトビトであって、支配形態がビミョウに違ったと思います。
    そういうこともあって、常陸は、「重要国の中では最北端」だったのでしょう。

    というわけで、朝廷にとって「常陸」は、ぜひ押さえて置きたい場所なのに、朝廷の影響が及びにくい、少々困った国だったのではないかと。

    で、「御伽草子」。←へぼいソースで申し訳ありません。
    これは鎌倉、室町ごろに書かれた説話を抜粋、アレンジしたものですので(いわゆる「おとぎ話」はあまり載っておりません)、少々時代考証がてきとうなのですが(平安中期の設定なのに宿屋が出てきたりする)、
    この中の「文正草子」は細かい設定に違和感がないので平安中期の設定を、ほぼ正確に描写していると考えます。
    ここに、「鹿島の大宮司」が出てきます。これが
    「四方に四万の蔵を建て、七珍万宝の宝満ち満ちて」「郎党は数知れす」、と、あまり神官らしくありません。
    子供のできない主人公の文正に「神仏に祈れ」とアドバイスしたりします(「鹿島の神に祈れ」でなく、まあ結局ストーリーは鹿島の神に祈ってこどもを授かるんですが)。

    その後の描写を見ても、むしろ「土地の有力者」という感じです。しかも「八カ国の大名たち」より格が全然上です。
    香取の宮司には触れられておりませんが、似たような状態だったことは想像できます。
    同じ「神宮」でも伊勢と鹿島・香取とはずいぶん雰囲気が違ったのではないでしょうか。
    完全に宗教的、儀式的役割しか持たない「伊勢」に対し、「鹿島・香取」はむしろ宗教的権威を利用して朝廷の意向に添って土地を支配するのが目的だったのではないでしょうか。
    「文正草子」のなかの大宮司も、土地で唯一、商人に化けて旅してきた都の貴人をそれと見分ける役回りですので、朝廷とのつながりも深かったと思われます。
    鹿島、香取、と二つあるのは、当時常陸を二分していた鬼怒川を境に支配地を二分していたのかもしれません。

    前九年の役(奥州十二年戦役)で安倍一族をなんとかするのに、源頼義は3回連続、陸奥の守に任ぜられております。
    有力な豪族の多い遠隔地を仕切るのは、任期数年で入れ替わる国の守には難しかったでしょう。
    かといって同じ人間をずっと赴任させると、土地の豪族化して朝廷の言うことを聞かなくなり、反乱を起こす。
    苦肉の策として、兵力を持たない「神官」に、宗教的権威を利用して実質的に土地を支配させたのではないでしょうか。
    そのための「権威付け」として、社格の高い「神宮」という名称が都合がよかったのではないかと考えます。
  • id:devbankh
    Re:いわし出たので。

    いろいろな資料のご紹介ありがとうございます。
    勢力争いの視点で見ると確かに常陸の社を破格扱いする理由が出てきますね。
    鹿島の大宮司、大変興味があります。
    常陸が重要国だったのは確かだと思います。ソースは明らかでないですが、下記のリンク先では「上国という最高のランク付け」だったとあります。
    http://kintaro2-2001.hp.infoseek.co.jp/ibaraki6.htm
    また風土記によると常陸は豊かだったそうです。そこに中央の権威の効かない地域の豪族が割拠していたのも想像に難くありません。
    ただ、これは全く検証してませんが、富裕な土地は内海の北(国府のあったところより北)・北西(平将門が拠点とした地域)だったのではないでしょうか。そちらを常陸の中心と見ると、鹿島や香取は辺境に見えます。その土地に社を設けたり、破格扱いしたのはなぜか。地図で見ると香取海への入り口としての重要性を持たせたほうが、この点は説明ができそうです。そしてそこに紹介してもらった鹿島の大宮司のような有力者がいたとなると、ますます流通や経済の点からも調べたくなります。
    当時の地形を紹介しているページのリンクをはっておきます。なにかのご参考になれば。
    http://www.ushiq.net/~fudoki/main030.htm
    http://www.ne.jp/asahi/enjoy/oyama-yuuki/rekishi-sankouchizu-masakado1.htm
    http://www.town.tamatsukuri.ibaraki.jp/museum/shiryo/main03.htm

    http://www.hatena.ne.jp/1113059327
  • id:yokikotokiku
    わあい

    へぼい回答(?)なのに、却っていろいろ教えていただけて
    得してしまいました。ありがとうございます。
    常陸の当時のちゃんとした地図、はじめて見ました。こんなのだったんですね。
    平忠恒の反乱のとき、源頼信が渡ったという海の中の道は、本当にあったんでしょうかね。

    3つ目のリンクはとくに、中世→江戸という経済の流れを、中央以外の視点で見られて、ものすごく勉強になります。

    細かいですが、1番目のリンクの田んぼについての記述ですが、
    「日照りにあうと・・とあるのは、モトの文では「日照り」は「日照」だと思いますが、文脈からすると「日が照ると」という意味かもしれないですね。
    長雨→不作
    日が照る→豊作
    という文脈だと思うので。
    内海が大きかったし、水はけが悪かったんでしょうか。

    とにかく、ほんとうにありがとうございます。
  • id:yokikotokiku
    あと、「上国」ですが

    当時のランク分けは「大国・上国・中国・下国」の4つだと思います。
    とはいえ常陸は「上国」でなく「大国」だったみたいですよ。やはり最高ランクです。

    ただ、これは、生産性というより面積と人口で分けたようです。
    延喜式のころで、まだそれほど開けていなかったと思われる陸奥も「大国」ですので、面積や人口でほぼランクは決まったと思っていいかもしれません。
    「祖」は地租税ですが、「庸・調」は人頭税ですから人口大事ですよね(笑)。
    もちろん、生産性が高くないと人口は増えませんが。

    これも今昔物語ソースですが、ある人が尾張の守に任ぜられ、それまで尾張は「国滅びて」田畑も荒れ果てて最低の状態だったのを、見事にたてなおして豊かにした、という話がありますので、
    けっこう、国の守の舵取り次第で土地の生産性はずいぶん違ったみたいです。
    というわけで、豊かどうかはあまり公式の「国のランク付け」には関係しなかったかもしれません。
    任官活動のときに必要な賄賂の額は左右したと思いますが(笑)
    そういう「裏ランキング」がわかると面白そうですね。

    菅原孝標女の父親(なんか重複表現ですが)が上総守になった十数年後に、常陸守になって赴任していますので、孝標氏には失礼ですがあまりランクの高い貴族は任命されなかったかもしれません。
    あまりあそこの「守」は仕事していなかったというのがワタクシの説ですが(笑)
    将門のときも常陸の守、あっさり逃げてるし。

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  • katoruの日記 katoruの日記 2006-03-13 16:12:53
  • [はてなQ]鹿島香取だけなぜ神宮? [はてなQ]鹿島香取だけなぜ神宮? 2006-03-13 16:12:53
    >> question:1113059327:detail > ・3つしかない神宮のうち2つを距離的に近い2宮が占めている > ・西でも、信越でもなく、常総の宮が選ばれている 朱雀天皇は平将門の乱平定のため、天
  • 日記の記 日記の記 2006-03-13 16:12:54
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