目に見えない物を信じないのでしょうか?
アドレスはダミーです。
信仰心がないから。
でも見えないものでも存在を信じているものって沢山ありますよ。
風,光,電気,とか。
http://www.hatena.ne.jp/1116578768#
人力検索はてな - 何故人は、目に見える物ばかり信じ、 目に見えない物を信じないのでしょうか?
必ずしもそういう人ばかりでは
ないのではないですか?
空気や微生物、細菌は目(肉眼)には見えないけど存在するじゃないですか?
それと同じで、今、解明されてない何らかの目に見えないものは存在してると思いますよ?
http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20050411
ラブラブドキュンパックリコ - EGO-WRAPPIN’のキーワードを意味もなく編集してみる今日この頃
ここの中ほどにある「物質は本当に存在しているのか?」の説明ではいかがでしょうか。
見えない物は存在しない、存在しないのならばそれはこの世に無いのと同じこと。
目に見えるから信じられる。見えないから信じない、信じにくいということになるんでしょうか。
でも、錯覚ということもあるんですよね。
>ひとは目に見えないものの価値を理解するのは得意ではありません。物質的豊かさと刹那的享楽に世の中の関心が集まり、テレビやインターネットがマーケットの動きやディスカウント情報を目に見える数字として伝える今は特にそうです。いつの間にかひとは自分のメッセージを伝えるため、1秒でも長くひとの目を釘付けにすることばかりに工夫を凝らし、カネと暴力とセックスに溢れる画像やプリントに依存するようになりました。目に見えるものですべてを語ろうとしています。しかし所詮目に見えるもので表現できることは少ないのです。そのことに気づかぬひとが増えています。
ここには物質的豊かさと刹那的享楽とありますね。
しかし日本では、太古の昔から目に見えない存在を意識してきていますよ。
表面では無宗教だとは言っても、心の根底では何か超常的な存在を信じているのでは。
何たって、心は目に見えませんし。
Yahoo!
人間は基本的に、即物拝金主義ですからね。
目に見えないものは言葉でごまかしまくれますから。
というか、そういう目に見えるものしか信じない人間ほど、そうやってごまかして生きてきてると思いますよ。
少なくとも私は凄いごまかしてます。
URLは暗示的なダミーです。
人が「目に見えないもの」を信じなくなったのは、
つい近世のことです。
過去において人は、自然の野山に神を感じ、
植物やコケにまで精霊の息吹を感じ、
自らの体内にも未だ見たこともないスピリットを感じ取りつつ、
素朴なシャーマニズム的文化を形成していました。
その時代においては、知覚不能な
未知のものに思いを馳せることが最先端であり、
そうした能力こそが高度なものとして認識されてきました。
古代のシャーマンがそれです。
近代以降、目に見えるものだけが確かなものとされはじめた背景は、
おそらく統治機構の都合による教育の産物でしょう。
血縁だけでつながっていた小社会を「統一」の名の下に結合させるには、
あらゆる違いを排除して、一致できる部分のみの価値観を
創設する必要性に迫られます。
そこで手軽に用いられたのが、五感で知覚できる事象に対する価値観でした。
心の世界に属するはずの宗教も「目に見える奇跡」を重視し、
「読んで理解できる」教えを整え始めました。
そうして作られていった人為的な「常識」が、今日、
五感で知覚できないものを危険なものとして排除する、
社会通念として固定化されてきたということでしょう。
しかし、個人のレベルで見れば、周囲との協調性を度外視すれば、
やはり未知なるもの、知覚できないものへの許容性は
失われていないものと思われます。
多少即物的ではあっても、未来への希望、
恋愛への願望などに、それを見て取ることが出来ます。
ただ社会への適応性を確保するために、
「多数」と異なる感受性を、否定したり隠したりすると言うことです。
http://www.ehara-hiroyuki.com/
江原啓之公式サイト
リンク先はあまり関係ないかも。
信じるというより、「目に見えないもの」という言葉を使って行われる説話はよく説法としてもちいられ、説法である以上、個人に利を出す行動をよく制限する内容が多いと思います。
しかし、個人の利益を制限することで全体的に回りまわって保たれるいいこともあるでしょう。
ですが、全体か自分かといわれたときに、自分を重視するようになった風潮の世間では説得力が弱いため、自分が全体の中で弱い立場になって助けられてみないとその意味がわからない、という状況なのではないでしょうか。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html
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別にそんなこと無いでしょう。
現に、あなたには「回答をつけてくれる人」なんて見えてないのに、
存在していることを信じ、回答を寄せてくれることを信じている
ぢゃないですか。
突き詰めれば、人は目に見えないものばかり信じている、とも言えます。
http://elekitel.jp/elekitel/special/2004/06/sp_01_a.htm
ゑれきてる~特集1.進化した視覚優位脳
人間は視覚が異常に発達したからだとおもいます
http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/index2.html
Welcome to the Illusion Forum!
果たして本当に、目に見えるものを人は信じているものなのでしょうか?(まあ、上のサイトは目に見えるものに騙されている例ですが)
目の前の現実から目をそむけてる人、たくさんいると思いませんか?
盲目的に信仰や思想の為に傷付け合い、戦っている人もたくさんいます。
私はそれを良いとも悪いとも決めかねます。
そして目に見えるもの目に見えない物って、そもそも何でしょう?どちらも脳に連結される情報に過ぎません。
http://www.helenkeller.or.jp/hkstory.htm
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↑有名な話ですが。
彼女には目に見える物がありませんでした。ですから信じようがありませんでした。
目が見え、耳が聞こえる人間には想像が付かない世界です。
でも、彼女の人生は多くの人々に感銘を与え、今もその精神は受け継がれています。
・・・なんか答えになっていませんね。いわしでもよかったかな。ごめんなさい。
http://www.success-poem.com/2004/11/post_112.html
成功の宣言文 - 全国版: 成功の宣言文 691 見える物と見えない物
目に見えるものを「形」、見えないものを「心」という。
どっちかが大切というのでなく、両方が現実です。
見えるものと見えないものがつながっているのです。
「体」は見えるが「心」はわからない。
だから信じられないのでしょう。
http://www.h5.dion.ne.jp/~kim-n/word/100think/t063.html
063 目に見えるものと見えないもの
「目に見えるもの」が全てではないことに気付けない人が多いのでしょうか。
まず、これに気付けるかどうかが大きいのではないかと思います。
気付けば、「目に見えるものが全て」という大きな壁を突き破り、少しずつ「目に見えないもの」を自分の目で見ていけるでしょう。
参考URLに載せたところから少し引用しながら考えてみると、「目に見えないもの」は証明が出来るとも出来ないともどちらにも表し難いものなので、「目に見えるもの」を信じている人にはなかなか理解し難いものがあるのだと思います。
本当は、「目に見えるもの」だけ、「目に見えないもの」だけ、に偏るのではなく、「目に見えないもの」の良いところを場面場面によって、上手く使い分けることが理想的だと私は考えます。
質問者さまが求めている答えになっていないような気がしてきました; 違っていましたら、すみません。
http://www.hatena.ne.jp/list?of=20&op=1&st=t
人力検索はてな - 質問一覧
認めたくないのではないでしょうか。
真実でも嘘でも、
人は目で直接みないと
信じたくないように思います
kaatan.com
・確かめられること
・自分以外の人間にも同じように見えること
・(基本的には)変わらない
が「信じる」「信じない」を左右しているのではないでしょうか。
例えば花なら、触れることが出来る。その存在を確かめることが出来る。写真やビデオに残すこともできる。また、匂いや色などを、自分以外の人間も同じように感じることが出来ます。
しかし「愛情」のように、目に見えないことはしっかりと確かめることもできないし、移ろいゆくものだし、すべての人にとって同じものではない。
もちろん、すべての人が目に見えるものだけを信じ、目に見えないものを信じないわけではありませんから、個人差はあると思います。しかしやはり一般的には「目に見える」ものは人を安心させますし、信じる理由になりえるかと思います。
http://www.naruto-u.ac.jp/~rcse/m_jugyou.html
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実態が判っていて(あるいは「判った気になっていて」)自分の思い通りのものから信じる。ということではないかと思います。
それは、自分で体験したことが一番わかりやすいからです。
体験は記憶として蓄積されて、物事の判断基準になります。
そして、人の記憶は耳だけでなく、見たり話したりすることで補強されます。
つまり「自分の中で、信憑性があがる」ということです。
だから話を聞いただけでは信じられない。
それに加えて、
自分が「そうであって欲しい」という願望があります。
実体のない噂話を信じたり信じなかったりするのはここに左右される部分が多いと思います。
逆に、見えないものを信じる人というのは、
物語の中で見えないはずの物をよく見聞きし理解した(つもりになっている)経験が多いのではないか?
と考えます。
http://www.hatena.ne.jp/1116578768
人力検索はてな - 何故人は、目に見える物ばかり信じ、 目に見えない物を信じないのでしょうか?
見えないものは決定的な証拠がないから信じられないんだと思います
http://www.msn.co.jp/home.armx
MSN Japan
URLダミー
目に見えるものですら、疑わしいものが多いからです。
まして目に見えないものをどう信じろというのか、という思いからです。
http://www.hatena.ne.jp/list?c=f#
人力検索はてな - 政治・社会
人は人が世界一だという人が多い。
例えば神がいるといううわさがあれば
神というヒトではかてない絶対的権力を持つ者
は信じません。
目に見える物は人のように考えれません。
だからこそ、自分より上は認めない。
そういう傲慢な生物なのです。
人間は判断をするにあたり、視覚情報による情報収集手段を、最も重視するからです。
http://www.hatena.ne.jp/☆:detail]
urlはダミーです。
それは、人間は必ず弱い部分があるからだと思います。
自分だけが違う・・・そういう部分を嫌うからでしょう。
少しでも周りと同じように共感できて暮らしたい。
そんな願望が心の奥底にあるからだとおもいます。
それが、ある意味「見えるものばかり信じる」という行動だと思います。
他人と共通で見ることが出来るものであれば、100%それは事実だと認識できるけれど
逆に「見えないもの」を他人に伝えたところで、
「そんなの見えないし、違う」と否定されてしまうと、ショックを受けてしまうものでしょう。
私の場合、幽霊を見た経験があり、
そのことを他人に伝えると多くの人は「嘘じゃないのぉ???」と疑惑を持ちます。
しかし、同じように霊感のある人と二人で同時に見てしまったときはお互いに理解しあえます。
それが、どの場合にも当てはまると思います。
「見えないもの」が感情や物体・空気であっても・・・。
「他人と違う」=「少数の人間」という弱者になるかのような思いをする。
それが原因だと思います。
だって、そんなことかけらも考えない強い人がいたら
他人の目線など気にせず、見えないものも信じているでしょうし。
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Amazon.co.jp: 目に見えないもの: 本: 湯川 秀樹
信じるという行為は、その信じる対象になるものへの経験とか確証とかに後押しされて生まれるものだと思います。
目に見えないものを信じるというのは、目に見えないから、当然それに対する経験とか確証は得にくいでしょう。後押しするものがありませんから信じにくくなります。
人に置き換えて「あなたを信じる」という場合、いきなり見ず知らずの人を信じるというのは難しいはずです。またいきなり信じることができるとしたら、それは容姿なり性格なりに、何か過去の経験や自分にとって良いと思われるものと重なるところがあったから、それが後押しして信じることができるのだと思います。
また幽霊などであっても、見ていないのだから、過去の経験も確証もないでしょう。
しかし、例えば本をたくさん読んで、その知識をたくさん得ていくと、経験していなくても、経験したのと同じような錯覚に陥ることもあります。頭の柔らかい人なら特にそうじゃないでしょうか。
そういった間接的な経験も、信じることを後押しするものに成り得ると思いますが、どちらにしても、信じるには、それを信じるに足る確証がいると思われます。
人は、自ら怖い思いをしたり、不利益をこうむりたいと思うことは殆どありませんから・・・。
http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/epistemology.html
�F���_epistemology
結局、「百聞は」ということなのでしょうか?
目に見えないものを信じるのは難しいですねぇ。
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