ダミーです
自分を好きになる方法を知らないと、他人にも同じ事ができないということでしょうか?
自分を守れないと他人も守れないというのと同じ感じだと思います。
深い意味では、自分も他人のうちの一人だからではないでしょうか。
根源的には他人も自分もなくてすべてはひとつだってことではないでしょうか。
ですから、自分を嫌っていて、他人を好きになることは、不可能です。
自分は他人であり、他人は自分だからです。
わたしは以上のように解釈していますが。
この言葉が正しいか間違っているかは、人それぞれでしょうが、
とりあえずここでは正しい事として説明します。
まず、自分が嫌いというのは、この世界を否定しているも同然です。
自分にとっては、一応世界の中心は自分自身なのですからね。
その世界を否定して、自分を恥じながら生きていたのでは、
他人を好きになるどころではありません。
それどころか他人を恐れ上辺だけでの付き合いをしたり、
常に逃げていたり、反発したり、諦めたり。
人間の基本であり中心である「自分自身」が嫌いなのに、
その基本を通り越して他人を好きになれる訳がない。・・と言う事でしょうね。
また、自分が嫌いな人は、他人にも好かれる事は殆どないでしょう。
自分が好き→相手も好きになる→相手からも好かれる→また自分が好きになる・・・
この流れから
「自分を好きにならないと、他人を本当に好きになれない」と言われるようになったのでしょう。
たしかに、そうですね。他人を好きになる、というよりは他人に好かれることによって自分自身を好きになれるという面もありますよね。
でも、ここでは『自分を好きになる→他人を好きになる』という事を考えて見ます。鶏か卵か、という話になってしまいそうですが、他人に好かれるためには、自分を好きにならないといけないのでは?やっぱり自分を卑下してばかりいる人って、なかなか好かれないですよね。(とはいっても、そういう人に惹かれる人はいますが、それは真に好きだということにはならないでしょう)
そして、本当に深く他人を好きになるためにはお互いの信頼関係が必要になってきます。この「本当に」というのがミソだと思います。この話は「片思いでもいいんだ」では成り立たないということです。
つまり、『自分を好きになる→他人に好かれる/他人を好きになる→信頼関係の構築→他人を本当に好きになる』ということです。
http://www.hatena.ne.jp/1121659845
人力検索はてな - よく『自分を好きにならないと他人を本当に好きになることは出来ないというような言葉を聞きますが、一体どういうことなのでしょうか?正しいことのような気がしますが、イ..
自分の嫌いな部分もすべて好きになれたら、他人の事も、理解出来ると言う事だと思います。
これは自分の実感ですので、もしかしたら違うかもしれません。
ただ自分が今まで生きてきた中で、ああそういう意味なのかぁと感じたことです。
この「好きになる」という言葉ですが
単純にこの人いいなぁ好きだなぁというだけの軽い意味ではないようです。
ただ好きになるだけなら、自分の事を嫌いでも好きになれます。
「自分のことは嫌い。でもあの人は好き」と感じる、そういう経験は誰しもあるでしょう。
しかしこの場合の好きなるというのは「愛情を育んでいく」ことだと自分は感じました。
例えば誰かを好きになったとして
自分を好きになれない人は自分を肯定できませんよね。
すると恋人が出来たとしても「こんな自分と一緒にいたらこの人は不幸になる」とか
「こんな自分にこの人を慰められるわけ長い」とか
常に後ろ向きにしか行動できないわけです。
これでは相手を幸せにすることもできないし
ましてや自分が幸せになることなんか到底できません。
「自分なんか」というこの感情からは前向きな行動は何も生まれません。
自分を肯定できない人間には他人に何も与えられないし
自分を否定することで同時に周囲の人間を否定してしまうこともあります。
極端でわかりやすい例ですが
子供を持つ親である人が鬱状態になったりして「自分は生きていてはいけないのだ」と思い込むことがあります。
そういう時「自分の遺伝子を継いだこの子も生まれてきてはいけなかったのだ」と思い殺してしまうことがあります。
無理心中など、その心情に近いのではないかと自分は思っています。
自分を好きになる=自分を肯定できる、ようになって初めて人として人と対等に付き合えるような気がします。
しかし自分を好きなる、というのは非常に難しい事です。
「フルーツ・バスケット」という漫画を読んでいて感動した言葉があります。
「自分を好きになる」って…
それってどういう事なんだろう…
「いい所」って
どうやって捜すものなんだろう…
嫌いな所しかわからない
わからないから嫌いなのに
なのに
無理矢理探しても こじつけみたいで空しい…
……そうじゃないんだ
そういう事じゃないんだ
誰かに「好きだ」って言ってもらえて初めて…
自分を好きになれるんだと思うんだ……
誰かに受け入れてもらえて初めて
自分を許せそうな 好きになれそうな気が
してくると思うんだ……
これ重いですよね。実感です。
本当は一番最初に「親」に愛してもらうものなんですね。そうして自分を好きになり、人を好きになることを覚えるわけです。
でも親に愛してもらえなかった人間は?
…代わりになる誰かに愛してもらうことで、愛情を覚えるのではないでしょうか?
かくいう自分も親から上手く愛情を受け取れなかった人間で
長い時間掛けて「人を愛する事」を他の人から教わりました。
その中で実感してきたことが以上のようなことでした。
あまり役に立たないかもしれませんが
少しでも参考になればと思います。
Yahoo! JAPAN
下にきちんとしたことが書かれています。
私はなんかメロドラマのセリフ
っぽく感じてますが・・・
あの人は自分自身を否定してしまうのか、それじゃ私のこともいつかは否定
されちゃうのでは? と怖くなってしまうような気がします。らしいです。
リンク先は、モバイル仕様ページです。話が難しいと評判で、とんとお呼びがかからない坊さんのページですので、「恐いもの見たさ」で見るのには良いでしょう。
タイトルを拾って解説しましょう。「自信教人信」は、ご質問の中の言葉と同じことを観方を変えて言っていると思います。
「自ら信ずる、そして他人に“信ずる”ことを教え得る」という現代語調に開いて言える語句なんです。浄土教という分野の仏教徒の間には、よく知られた言葉です。
自分を好きになることを知らない人が、よその人を見て「あの人は、自分自身を好きなのだ」と、言葉で繰り返してみても、言葉に心が通っていないでしょう。
「自分を好きです」という言葉が、自分の心あるいは“いのち”から出てくるような経験や生き方をしている人なら、誰かが別の人を指して「あの人は、自分自身を好きなのだ」と言ったとしても、「なるほどそうかもしれない」と思える用意が出来ているでしょう。
実は、「自分を好きにならないと他人を本当に好きになることは出来ない」というのは、仏教の説教主である彼の釈尊が、訪問者から「あなたはこの世で誰が一番可愛いくて大切ですか?」と問われて「私です」と答えたのに続けて「それは一体どういうことですか」と質問を重ねられて理由として話したことでもあるのです。
素晴らしい宝を持って喜びを味わう人でなければ、「あなたも、この宝を持って喜びを味わってはどうですか?」って、心から勧められないでしょう。
自分を好きになることは、掛け替えのない気持ちです。しかし、そこを出発点にしても、「自分を好きだから、自分だけが大切だ」と、次に展開していかない留まり方をする事では、愚鈍の闇の底に沈むようなもので、仏教では「プラティエーカブッタ(死に菩薩)」と表現して、たいそう気の毒な者と観るのです。
http://www.msn.co.jp/home.armx
MSN Japan
一番よく分かっているはずの自分のこと
でさえ好きだと思えずに、他人のことを
本当に好きになれるはずないということ
だと思います。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4877287043/
Amazon.co.jp: 大河の一滴: 本: 五木 寛之
「大河の一滴」
この本の中にそんな文章がありました。
他損行為と自損行為は実は一体とかどうのこうのと。
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自分を好きにならなくても他人を好きになることはあると思います。自分にはないものがあるとかで。ですが自分の良いところを見つけられれば他人の良いところがもっと見つけられるという意味で理解してます。いい言葉ですよね。
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↑ダミーです。
自分のことを自分自身が理解して、自分の良いところを認める(好きになる)ことができないと、他人のことを理解する(好きになる)ことができない、ということなのではないでしょうか?
自分自身のことをわかっていないと他人を理解することはできない、ということを言っているのだと思います。
本当に好きになるとは、完璧でない他人(自分)を理解し許せることではないでしょうか?
自分を好きになれない原因は、「完璧でないところ」だと思います。
そのような人が他人を好きになれるとは思いません。何故なら完璧な人間などいないのですから。
当てはまる人もいるかもしれませんが当てはまらない人もいる言葉と思います。他人(好きな人)や守りたい人の為に自分を投げ出す(自己犠牲の精神)の上にその言葉はこじつけなくては成立しないでしょうし。よくあるワンフォーオール・オールフォーワンみたいな美化された表現と私は捉えてました。
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↑ダミーです。
『自分を好きにならないと、他人を本当に好きになることは出来ない』ということは、全くないと思います。
だって、世の中の恋愛している全ての人が、「自分のことを好き」とは限らないですよね。
いや、むしろ、「自分のことが好きでない→だから、自分を変えたい!」という願望を持ってる人が圧倒多数だからこそ、美容整形(外面)や、自己啓発(内面)などに、関心を持ったりハマッたりしている人が多いんじゃないでしょうか。
↑ダミーです
人を好きになるっていうことは、相手がどう思っていようが関係ないことです。
自分のことを好きではない人の「好き」は、自分のとこを好きになって欲しいなどの見返りが発生してしまいます。
だからその人のことを本当に好きになることは出来ないのだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/mirukutamago/
mirukutamagoの日記
本当の自分の姿を殺して、とりつくろって相手に合わせてしまうことではないでしょうか?
本来の自分が好きであればとりつくろう必要もなくなって、素敵な恋愛関係なりがつくれると思います。
自分のいいところ、じまんできるところをみつけてあげないと、他人のいいところを見つけることもできないと思います。私が、自分を好きでなかった時、相手に対してすぐうたがいの目をむけてしまい、すべてが敵のようにかんじました。が、私にも人から頼られることや人から好きだといわれることを通し、自分のことを少しですが好きになってあげれることができました。服や化粧をすることから自分を磨き自分にやさしくできてきました。そして、相手のいいところや、悪いところもうけとめられ思いやる気持ちがうまれてきました。自分のことをやさしくできない、理解できなかったら、他人である相手のことなんかわからない、分かろうともしないと思います。まず自分には人よりこれなら自信があるというものを、少しずつみつけていき、小さなことでもむねをはることができることを見つけることだと思うのです。
URLは私のブログページです。
教えれる立場ではないのですが、私なりに思う事を述べます。
”自分を好きになれない人”とは自分の性格が嫌いな人もいれば、体の一部が嫌いな人もいると思います
つまり自分に自信のない人ですね。
自分に自信のもてない方は自分の嫌な部分ばかり気になるのですが、良い部分がわからないのではないかと考えます。
自分が理想とする人間像は大抵が手が届きそうで届きにくい事を理想としていると思います。
ですが理想と現実は違うもので、人は何かしら欠点と呼ばれるものがあると思うのです
また、その欠点を補うくらいの良い部分も必ずあると思います。
自分の中にある良い部分を見つける事が出来ない人は、他人の本当に良い部分を見つける事が出来ないと言う事ではないでしょうか?
自分の良い所も悪い所も含めて”これが自分”です!!と自信を持てない人は
他人の表面上の性格や体型などばかり気になって、その人の良い所も悪い所も含めて”○○さん”という人間なんだ!
と言う事に気づけないのだと思います。
自分を好きになれない人(自信のない人)は他人(○○さん)の一部分(良い部分)だけしか見ないようになってしまって、
他の部分(良い所も悪い所も)が見えないでいるのではないでしょうか?
”他人を本当に好きになる”と言う事は、その他人(○○さん)の良い所も悪い所も含めたその人自身を認めてあげる事だと
思います。
自分(良い部分も悪い部分も含めた)を人として好き(認めれない)になれない人は
他人(良い部分も悪い部分も含めた)も人として好き(認めれない)になれないと言う事ではないでしょうか?
一部分だけ好きになったとしても、それは本当に人を好きになったとは言えないと思います。
これはあくまで私個人の意見ですので、他の皆さんの意見も踏まえた上で質問者様なりに理解して頂きたいと思います。
http://ameblo.jp/cerisier/entry-10001481930.html
私たちって不釣合い?|ウェディングプランナーのつぶやき
自分を好きになれないと、「好きになる相手と比べて、自分は不釣合いなのでは…」などと思ってしまい、
好きになることすらためらわれてしまうからだと捉えています。
自分のことを好きでなければ自分をうまく表現することも出来ないし、
他人と話しているときも、「相手は自分じゃ退屈なのでは」などと考えてしまうと思います。
たしかにそうでした…。
http://www.h5.dion.ne.jp/~biblroom/text/kw_a.htm
キリスト教キーワード(あ〜お)
自分さえ好きになれない人が他人を愛することはできないと言いかえることができると思います。自分を含めて、人を好きになる「方法」を知らないからだと思います。
そういう考え方もあるのか!なるほど。