質問の詳細については http://d.hatena.ne.jp/kishiwadungeon/20060525/p1 を参照ください。
その時のその人自身が逝くのではないでしょうか?
幾つの状態という見た目じゃなくて、その時の気持ちのまま。
難しいけれど。。。
私なりの解釈。ちょっとファンタジーめいてるかもしれません。
肉体はただの「この世の器」であり、人そのものは、魂そのものだと考えます。
たとえば、80歳の痴呆の人が70歳のときから3歳児のように幼児退行しているとします。70歳から幼児に帰っていったとしても、その魂は80歳なのではないかな、と思うのです。
外見上の器は器でしかなく、その内面には外からは見えない魂と言うものが宿っており、それは本人しか、もしくは本人すらも自覚していない正気の魂がいるのではないかと考えます。そして、魂は衰退することはなく、常に精進、成長を続けているのではないかと思います。
余談ですが、だから、幼児化したお年寄りに赤ちゃん言葉で接するのは、とても失礼なことのように思います。内面では、他人からは見えない「大人の魂」が宿っていて、実は屈辱感と孤独感を味わっているかもしれない、と思うからです。
話をもどすと、だから、外見上で『何歳のとき』というのは、ナンセンスだと思うです。どんなにひどい認知症だったとしても、苦しみや悲しみは心に刻んでいるとおもうのです。いい時代、悪い時代、その人のすべてを携えて、生きた時間すべてを味わいながら逝くのではないか、と考えます。
心には年齢は無く、代わりに経験・記憶があるのだと思っています。
そうすると、仮に『80歳で亡くなった人が25歳の頃の自分』であの世に行くのだとすると、それは『25歳で亡くなった人が25歳の頃の自分』であの世に行くのと何ら変わりは無いですよね。
25歳の頃の自分には、当然ながら80歳の頃の経験・記憶は無いのですから。
また、『10歳で亡くなった人が25歳の頃の自分』になる場合って…う~ん、あり得ないですよね。心は10歳で体は25歳って言ったって、体はこの世に置いてけぼりなわけだし…。
さて、認知症を患っている場合ですが、現代医学では認知症は当然脳の病気と考えられています。
心があの世に行く場合は、いずれにしろ、脳はこの世に置いていくことになります。
従って、あの世に行く時は認知症は治っていると思いますよ。良かった!
もし治らないのだとすると、それは脳の病気ではなく、心(魂?)そのものの病気であるということになっちゃいます。
そうすると、生まれつき認知症という人が生まれてくるはずですよね。でもそういう人はいないようですし。
やっぱりあの世に行く時は治ってる!!
でも、もしかしてあの世で直してるなんてことは…
ないと思ってしまうのは僕だけでしょうか。
もしあったとしたら僕は、中学生の時の自分希望
私も、「その人」が一番よかったと思える時期の姿で逝くとおもいます。
信じるかどうか、は別としまして・・・
ある程度は亡くなった時のまま、そこにいて
その後、浄化され魂という形になって
次の世界へ行く(生まれ変わる)、というような
お話をされていました。
次に行かない人もいるのですが
人によって大人だったり子供だったりするので
そういう場合は亡くなった時期のその人のまま
そこにいるみたいです。
病気や事故の場合、かわいそうなので聞いてみましたが
痛かったり事故の部分がなかったりはしないそうです。
ただ性格はそのままらしく、頑固な人は頑固でしたし
生前よく言っていた言い回しなどを使っていました。
なので「あの世」(浄化される)に行く時は
次の世界へ行く前準備として
生前の形としてでなく『魂』というような形で
(魂がどういう形かは分からないのですが)
昇っていくのでは~と思っています。
今はそれで私は納得していて心穏やかな気持ちです。
私が信じる信じないに関わらず、存在するものは存在しますし、存在しないものは存在しません。私の質問は「ある」という前提の下で考えてみてほしいということでして、自分がそれを踏まえてどのように生きるか、ということまで見据えたものではありません。
解かりにくかったならば、どうもすみませんでした。
質問文で載せたエントリでも多少触れましたが、経験を積んだり、思考を重ねたりすることで「その人」は変わってしまうでしょうから、「最もその人らしい」と判断する基準はどこにあるのでしょうか。そもそも、「最もその人らしい」などという状態は存在するのでしょうか。
時間も空間もないので時期もない、というのは良い着眼点だとは思いますが、「その人」「生き死に」といった具体的事象を説明するのに、いきなり抽象概念を用いて普遍を考えてしまうと、色々と重要な所を取り落とす気がします。
若返るとするならば、それは一体どのような理由によってでしょうか。
「思考」や「アイデンティティ」といったもの自体がそもそも具体的問題である(=現世での営みでしかない)という考え方をしたことはありませんでした。なるほどなるほど。
輪廻転生を前提とすると、確かにすっきりするお話です。
「こういう姿でありたい」と「思う自分」が(仮にでも)規定されない限り、トートロジーになってしまうのではないでしょうか。
人は生まれる前に(魂の時に)今度の人生はどんな人生にするか、自分で人生設計をして生まれてくるらしいんです。だから、今、目の前にある苦悩は自分でその苦悩を乗り越えれるように設定して生まれてきているんです。人は死んだら、また魂にもどって、その時生きた人生の反省をするんです。そして、次の来世では、今世でできなかった目標をまた、来世で挑戦するように、人生設計をたてて、生まれ変わるんです。だから、いつの時期のその人か?と聞かれたら、「生まれる前のその人(魂)」と言う事になると思います。
魂は、いつも自分の向上のため、あえて、自分に高い壁のある人生設計をして、わざわざ人間として生まれ変わり、最高の自分になれた時に、「魂」としての、自由な自分を手に入れることができるんだと思います。だから、その最高の位置までいくには、何度も何度も生まれ変わって、いろんな人生を経験して修行しているので、生まれかわりもあると思っています。生まれかわったその人は、「人」としては別人だけど、「魂」としては、年齢も性別も関係なく、同一人物(同一魂)なんだと思います。
100歳で亡くなった老人が、1年ごとに2年前の記憶を喪失すれば、
50年で記憶がゼロになります。生後150年目には、本人は出生時の
赤ん坊に戻るはずです。はたして彼は、何歳と呼ばれるでしょうか?