そもそも、パレスチナのレバノン国自体が、植民地時代、仏英宗主国のキリスト教を表していた
だけで、歴史的には紀元前10世紀まで遡らなければ、ユダヤ教のイスラエル王国に辿り着かない。
7世紀からイスラム帝国支配化になって、ずっと、イスラム文化ですみ続けてきた民族たちの
国で、国の範囲は【小レバノン】で、オスマン・トルコ時代の支配者ドルーズ派領主の時
から続くきょうかいだったのが、ⅠWW後、宗主国となったフランスがレバノン独立運動を阻止する目的で、
さまざまな国家、宗派を抱き合わせることで団結させないよう、【大レバノン】(元シリア領であるベッカー高原・レバノン北部・トリポリ市・レバノン南部も含めた)に国境線を勝者の権限で無理やり引いてしまう。
しかし、抑えても時代の流れと人々の独立への思いは、内戦として噴出してくる。
独立運動のリーダーシップをとったのは、キリスト教マロン派とイスラム教ドルーズ派で、
レバノンへの帰属意識が高いといわれる。他方、イスラム教スンニ派と同シーア派と
キリスト教ギリシャ正教は元々の小レバノンには属さない人、つまり大レバノン出身者で
、元来、シリアの人々で、ベイルートよりもダマスカスに帰属する人々である。
こうした、其々勢力は多数派が無く、均等した勢力関係であったろうと推察されている。
というのは、政治的に利用されてはないように、レバノン国勢調査はⅡWWにフランスが
食糧配給の為にしたがこれは非公開。もう一回の1932年の調査を元に、キリスト教6:イスラム教5との比率で、独立時、紳士協定【国民協約】で、大統領はキリスト教徒から、首相はイスラム教スンニ派、国会議長は同シーア派・・という風に宗派ごとの閣僚、議員ポストを配分した。
この協定は暫定的とされていたのに、その後、ヨーロッパで阻害されたユダヤ人が
イスラエルに集まり、アメリカの力で、イスラエル国家として自分たちの領地にした為、
それまですんでいたイスラム教徒が難民としてレバノンに押し寄せ、人口比率では圧倒的に
イスラム教徒の比率が高まったのに、政治ポストは昔のまま、キリスト教徒が大統領
という法律を変えないので、イスラム教徒らの不満はつのり、とうとう!シリアやイラン
の介入も簡単に受け入れて大きな紛争に巻き込まれてしまう。。という事情があるようです。。
又、元々、多くの民族、宗教で無理やりに作られた大レバノンの国軍は、1976年3月、
寄り合い所帯で、特にイスラム教徒は所属宗派の民兵組織へ脱走が相次ぎ、
マロン派(ファランヘ党等)民兵組織は、軍事力優位のPLOやシーア派民兵組織に
追い詰められることとなる。。
2月まではシリアは中立で静観し、内戦前のレバノンの現状を維持することを支持し、
イスラム教徒左派には遺憾とし、ドルーズ派やPLOから反発をかっていた。。
が、遂に!あまりの爆撃のひどさと自分たちが大切にしている宗教行事を踏みにじられ、
とうとう!1976年5月、シリア、レバノン政府の要請で侵攻する。
米国が自分の軍事介入はあくまでも、内戦終結目的であるという言い訳にする為に、全く
根本を解決しない協定をシリアとイスラエルとの間結ばせる。
不文律の【レッド・ライン協定】。
① ベイルート以南にはシリア軍主力部隊を駐留させず、
② レバノンではイスラエル射程圏内の兵器を配備せず、
③ レバノン国内には一切の戦闘機、爆撃機を駐留させない
④ 必要以上にキリスト教徒に危害を加えない
ドルーズ派とPLOらの革命はイスラエルのレバノン、シリア攻撃の可能性を恐れ、
軍事力で急進派のこれら革命軍を軍事力で制圧し、一時的にだけ!沈静化しただけだ。
アラブ社会やPLO、マロン派内でもシリアに不信感が生まれるだけだった。。。
1976年9月、マロン派vsシリア軍vsPLOとの対立が再燃し、マロン派内にも
民兵組織連合体反シリア・パレスチナのレバノン軍団(LF)を設立し、
シリア軍と戦い、1978年、LF部隊が、レッドライン協定検問中のシリア軍を協定破って
、急襲し、それを切っ掛けにシリア軍も協定を無視し、マロン派拠点の東ベイルートを
攻撃し、激化する。。
イスラエル、エジプト(アラブ諸国のリーダーでありながら、エジプトはレバノンを
イスラエルから取り戻すにはイスラエルを動かしてる)アメリカに直接交渉しないと無理だと
方針を変更する。アメリカを委員長に据え、中東和平交渉の場、キャンプ・デービットの
座につき、そこで、アメリカと取引し、初めて、アラブ側がイスラエルに勝利する。
1982年、イスラエルはレバノンを親イスラエル国家として転向させ、シリア、
アラブ諸国の影響を排除しようと、イスラム教左派のボイコットを受けながらも、LFの
反シリアリーダーをレバノン大統領にアメリカの力で傀儡大統領を立てる。(8月当選)
が、翌月、暗殺される。その弟が継ぐが、影が薄い。。
その上、イスラエル軍監視の下で起こった、LFのパレスチナ難民大量虐殺事件により、
国際的非難が高まり、イスラエル、シャロン国防相、辞任に追い込まれる。
1982年6月13日、イスラエル軍、西ベイルートへ突入
1982年8月21日、PLO、停戦に応じ、
1982年8月30日、米、英、仏、伊らPLOのリーダーをチュジニアへ追放し、
パレスチナ難民への安保という理由でレバノンへ多国籍軍を派遣するが、収拾はつかない。。
米海兵隊がレバノン国軍を直接訓練し指導するにつれ、穏健派だった大統領も次第に、
イスラム教徒やシリアへ強硬、専制政治を行うようになっていく。。(日本国民も注意しましょう!)
(又、日本の自衛隊米日合同練習もね、、きっと!感化?洗脳されてる、、危険では??)
、シリアもシーア派民兵組織・レバノン大統領、ドルーズ派、新興勢力ヒズボラにテロを
含め支援する。
↓ ★米軍の指示で、国軍はイスラム教民兵組織の壊滅こそが内戦終結と目標され、
激化 ★米国の本音に怒って、国軍から分離したヒズボラが、米軍や米大使館爆破、
多国籍軍の仏軍、伊軍イスラエル軍へも爆撃するようになったというようだ。。。??!?
●ヒズボラ:元々はイスラム原理主義のマイナーグループだったのが、レバノン戦争時
にイラン革命防衛隊から同胞支援ということで加担された民兵。
●シーア派は南部に住み、常にイスラエル攻撃に晒されつつ、パレスチナ問題には
クールで、PLO支配の傲慢さに反感をもち、イスラエルに理解を見せていたのに、
イスラエル軍はシーア派の信仰や大切にしてる宗教行事を妨害したり中止させ、
一気に反イスラエルになる。
イスラエルが攻撃しているイスラム武装組織ヒズボラ(ヒズボッラー)は、イランがその設立に関与したり武器供給するなどして密接に結びついていると言われています。イランの核武装を懸念するアメリカは、イランと指向を同じくする急進的シーア派のこの組織も当然問題視しており、イスラエルとその点で利害を共有します。
アメリカはイランの石油を狙っている的な陰謀説めいた諸説もあると思いますが、上記の理由は公にあると思います。
ここからは蛇足。いつまで経っても、なぜこの説明を他の回答者がしないのか疑問なんですけど…