結論として、脅迫ではなく、警告にすぎない可能性もあると考えられます。
刑法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M40/M40HO045.html
(脅迫)
第二百二十二条 生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。
2 親族の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者も、前項と同様とする。
脅迫とは、一般的には、恐怖心を起こさせる目的で、害悪を通知する行為を指します。
しかし、刑法学では、一般的な意味での「脅迫」という概念を、次の通り三種類に区分しています。
- 広義の脅迫:恐怖心を起こさせる目的で、害悪を通知する行為の一切(辞書的解釈)
- 狭義の脅迫:恐怖心を起こさせる目的で、害悪を通知する行為のうち、通知される害悪の種類が特定され、あるいは恐怖心を起こした相手方が一定の作為・不作為を強制されるもの。(脅迫罪、強要罪)
- 最狭義の脅迫:恐怖心を起こさせる目的で、害悪を通知する行為のうち、相手方の反抗を抑圧する程度の恐怖心を起こすもの。(強盗罪、強姦罪、強制わいせつ罪)
判例および多数学説では、刑法の脅迫罪は、狭義の脅迫であるとされており、恐怖心を起こさせる目的で害悪を通知する行為があったとしても、そのすべてが脅迫罪になるわけではないとされています。
したがって、提示されているケースは、「恐怖心を起こさせる目的で、害悪を通知する行為」という側面が認められたとしても、だからといって必然的に脅迫罪を構成するわけではない、脅迫罪ではない可能性もある、ということになります。
脅迫罪が成立する要件のひとつは、その行為が人を恐怖させるに足りる程度のものである必要があります。人を恐怖させるに足りる害悪の告知といえるかどうかは、「告知の内容を四囲の状況に照らして判断すべき」であるとされています。(最判昭35.3.18集14.4.416) また、害悪は行為者によって左右されるものとして告知されることが必要であり、行為者の手の及ばない害悪を告知する「警告」とは区別されます。
そこで考えなければならないことは、今回のケースは「脅迫」なのか「警告」なのか、という点です。
結論から言うと、その両方の可能性があり、「脅迫」ではなく「警告」にすぎない可能性があります。
死を考えている本人が書いていると仮定すれば、その本人の手で人が死ぬことになるわけですから「脅迫」です。しかし、単なる愉快犯もしくは善意の警告者が手紙を書いているとすれば、その愉快犯もしくは善意の警告者の行為によって誰かが死ぬわけではなく、いじめという環境によって自殺などが発生するにすぎませんから、「警告」にすぎません。(愉快犯自身がいじめっ子である場合を除く)
したがって、想定されている設問では、“誰が”手紙を書いているのか、その主体が特定されていませんので、いじめられている子ども本人による「脅迫」であるケースもありますが、愉快犯もしくは善意の警告者が「冷酷」書いているケースもあります。ですから「脅迫」である可能性もありますが、「警告」にすぎない可能性も同じようにある、という結論になります。
なぜ刑法が「脅迫」と「警告」を厳密に区別しているのか。それは次の理由に基づきます。
たとえば、包丁の刃先を自分の首に当てて「言うことを聞かないと死にます」と近親者を脅す行為は「脅迫」です。しかし、自殺を考えているうつ病の患者を診断した精神科の医師が家族に「このまま治療しなければ患者は将来自殺する可能性が高まります」と診断結果を伝える行為は「脅迫」ではなく「警告」にすぎません。
もし、「死の可能性の告知の一切」が脅迫罪に問われるとすると、うつ病の患者を診断する精神科の医師の多くは脅迫罪を犯していることになりますが、そんなことを認めたら精神科の医師は仕事ができなくなり社会秩序は壊れてしまいますので、単なる警告に対して「脅迫罪」を適用することはできないのです。
同じ理屈で、自殺しようと考えている本人ではなく、単なる愉快犯もしくは善意の警告者の場合は、その愉快犯の手によって誰かが死ぬのではありませんから、「脅迫罪」は成立しません。
匿名の手紙の場合は、自殺しようとしているいじめられっ子なのか誘拐犯もしくは善意の警告者なのかがわかりませんので、本当に生命を害しようとしているかただの冗談なのかが不明であり、両方の可能性があります。
親や学校関係者にしてみれば脅迫であることに違いはありません。しかし、刑法で言う脅迫罪は、脅迫を感じている側がどう感じたかという被害者の存在のみによって成立するのではなく、実際に生命を害する意思が行為者自身にあったかという要件がさらに必要になるということは前述したとおりであり、親や学校関係者の気持ちがどうであれ、行為者の行為実態の事実が把握できなければ、脅迫罪に該当するかどうかは断定できません。
以上の理由により、上記の結論が導かれると思われます。
尚、「脅迫」という観点から考えると、いじめられている子どもこそが、まさにいじめっ子によって「脅迫」を受けている可能性が大きく、その事実ことがまず第一に「脅迫」の問題として認識され、議論され、対策がとられなければならない事柄であると思います。
仮に、いじめられっ子が自殺予告を出しているとすると、いじめられっ子がいじめっ子のように「脅迫」という手段を使っていじめっ子化していることになり、「いじめっ子はかつていじめられっ子だったケースが多い」という教育現場の報告と一致します。
だとすると、いじめられっ子の自殺予告は、いじめらっ子が自分以外の誰かを犠牲にすることなくいじめっ子と同一化することによって自己を獲得しようとする、切なく悲しい自己存在の表明であるとも解釈できます。
いじめは、これまで多くの論者が述べているように、いじめる側といじめられる側をとりまく周囲の人間の、無関心、恐怖への屈服、強者への服従心などによって増幅されます。
自殺予告してまでいじめられっ子がいじめっ子になりたがるほどの「強者の論理」「弱者排斥の論理」が、自殺予告を出した人のいる環境に存在するのだとすれば、その環境こそが問題であると指摘されなければならないでしょう。
結論として、脅迫ではなく、警告にすぎない可能性もあると考えられます。
脅迫とは、一般的には、恐怖心を起こさせる目的で、害悪を通知する行為を指します。
しかし、刑法学では、一般的な意味での「脅迫」という概念を、次の通り三種類に区分しています。
判例および多数学説では、刑法の脅迫罪は、狭義の脅迫であるとされており、恐怖心を起こさせる目的で害悪を通知する行為があったとしても、そのすべてが脅迫罪になるわけではないとされています。
したがって、提示されているケースは、「恐怖心を起こさせる目的で、害悪を通知する行為」という側面が認められたとしても、だからといって必然的に脅迫罪を構成するわけではない、脅迫罪ではない可能性もある、ということになります。
脅迫罪が成立する要件のひとつは、その行為が人を恐怖させるに足りる程度のものである必要があります。人を恐怖させるに足りる害悪の告知といえるかどうかは、「告知の内容を四囲の状況に照らして判断すべき」であるとされています。(最判昭35.3.18集14.4.416) また、害悪は行為者によって左右されるものとして告知されることが必要であり、行為者の手の及ばない害悪を告知する「警告」とは区別されます。
そこで考えなければならないことは、今回のケースは「脅迫」なのか「警告」なのか、という点です。
結論から言うと、その両方の可能性があり、「脅迫」ではなく「警告」にすぎない可能性があります。
死を考えている本人が書いていると仮定すれば、その本人の手で人が死ぬことになるわけですから「脅迫」です。しかし、単なる愉快犯もしくは善意の警告者が手紙を書いているとすれば、その愉快犯もしくは善意の警告者の行為によって誰かが死ぬわけではなく、いじめという環境によって自殺などが発生するにすぎませんから、「警告」にすぎません。(愉快犯自身がいじめっ子である場合を除く)
したがって、想定されている設問では、“誰が”手紙を書いているのか、その主体が特定されていませんので、いじめられている子ども本人による「脅迫」であるケースもありますが、愉快犯もしくは善意の警告者が「冷酷」書いているケースもあります。ですから「脅迫」である可能性もありますが、「警告」にすぎない可能性も同じようにある、という結論になります。
なぜ刑法が「脅迫」と「警告」を厳密に区別しているのか。それは次の理由に基づきます。
たとえば、包丁の刃先を自分の首に当てて「言うことを聞かないと死にます」と近親者を脅す行為は「脅迫」です。しかし、自殺を考えているうつ病の患者を診断した精神科の医師が家族に「このまま治療しなければ患者は将来自殺する可能性が高まります」と診断結果を伝える行為は「脅迫」ではなく「警告」にすぎません。
もし、「死の可能性の告知の一切」が脅迫罪に問われるとすると、うつ病の患者を診断する精神科の医師の多くは脅迫罪を犯していることになりますが、そんなことを認めたら精神科の医師は仕事ができなくなり社会秩序は壊れてしまいますので、単なる警告に対して「脅迫罪」を適用することはできないのです。
同じ理屈で、自殺しようと考えている本人ではなく、単なる愉快犯もしくは善意の警告者の場合は、その愉快犯の手によって誰かが死ぬのではありませんから、「脅迫罪」は成立しません。
匿名の手紙の場合は、自殺しようとしているいじめられっ子なのか誘拐犯もしくは善意の警告者なのかがわかりませんので、本当に生命を害しようとしているかただの冗談なのかが不明であり、両方の可能性があります。
親や学校関係者にしてみれば脅迫であることに違いはありません。しかし、刑法で言う脅迫罪は、脅迫を感じている側がどう感じたかという被害者の存在のみによって成立するのではなく、実際に生命を害する意思が行為者自身にあったかという要件がさらに必要になるということは前述したとおりであり、親や学校関係者の気持ちがどうであれ、行為者の行為実態の事実が把握できなければ、脅迫罪に該当するかどうかは断定できません。
以上の理由により、上記の結論が導かれると思われます。
尚、「脅迫」という観点から考えると、いじめられている子どもこそが、まさにいじめっ子によって「脅迫」を受けている可能性が大きく、その事実ことがまず第一に「脅迫」の問題として認識され、議論され、対策がとられなければならない事柄であると思います。
仮に、いじめられっ子が自殺予告を出しているとすると、いじめられっ子がいじめっ子のように「脅迫」という手段を使っていじめっ子化していることになり、「いじめっ子はかつていじめられっ子だったケースが多い」という教育現場の報告と一致します。
だとすると、いじめられっ子の自殺予告は、いじめらっ子が自分以外の誰かを犠牲にすることなくいじめっ子と同一化することによって自己を獲得しようとする、切なく悲しい自己存在の表明であるとも解釈できます。
いじめは、これまで多くの論者が述べているように、いじめる側といじめられる側をとりまく周囲の人間の、無関心、恐怖への屈服、強者への服従心などによって増幅されます。
自殺予告してまでいじめられっ子がいじめっ子になりたがるほどの「強者の論理」「弱者排斥の論理」が、自殺予告を出した人のいる環境に存在するのだとすれば、その環境こそが問題であると指摘されなければならないでしょう。