戦争指導方針を確定する御前会議に天皇が臨席していた事実により、天皇には開戦責任があったと考えられます。
攻撃命令を出したのは政府だから天皇には責任が無いというロジックは、言葉の詐術でしょう。政府が攻撃命令を出しえる戦争方針を決定した事実をもって開戦責任があると認められるべきです。
民間の契約でもそうですよね。契約書にハンコを捺したら、その契約書にハンコを捺した人に契約履行の責任があります。天皇は戦争指導方針に御璽を捺し、天皇の方針だということで国民は命令に従って侵略行為を為したのですから、天皇に関係無いという理屈は通じません。
尚、ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を暗号解読により知っていたから責任が無いという主張は、開戦時期を知っていたからといって侵略戦争に同意したことにはならないわけですから、「平和に対する罪」の違法性阻却理由にはなりません。
百歩譲って開戦責任が無いと仮定しても、天皇を含めた戦争指導者には侵略戦争を止める権能を持ちながら止めなかったという不作為を行った事実に対する“開戦後の”戦争責任は存在します。
いわゆる「御前会議」で戦争方針が確定したことは、日本国政府も認める客観事実であると思われます。
「 日本は欧米列強諸国の支配する奪い合いの世界に一人立ち向かい、
その後、ある光を遺して、敗れました。
思いおこせばこの数百年、奪うものが奪われるものを支配する力学が
罷り通っていた時代でありました。
そのような世を悲しまれ、
四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の たちさわぐらむ
そう明治大帝がお詠みになられたことが御座いました。
その大御心を一心に引き継がれようとされました昭和天皇を戴いて、
わが先達はこの百年の激動を駆け抜け、そしてついに、
歴史の流れを、かえたのであります。
欧米の世界制覇が進行するこの時代、我が国は自国のみならぬ
亜細亜の独立と安定を守る為、日清戦争では大韓帝国の独立を確保し、
日露戦争においては満州と朝鮮半島を狙う世界最強国ロシアを排撃しました。
第一次世界大戦が幕を閉じたパリ講和会議においては、
先人はこの時代を支配していたいかなる列強諸国も考えていなかった
ある提言を、堂々と行ないました。
大国列強の集うこの国際会議において、世にも人にも先駆けて我が国は、
隷従と酷使を強制する列強国を前に人種差別の廃絶を訴えたのであります。
神武建国の御時より今に至るまで、先達は天皇陛下と心を一にして、
この「 八紘一宇 」の精神を顕そうとされてきました。
しかし、我が国のこの存在は植民地を縛り上げることにより
権勢と富を貪ってきた列強諸国を揺さぶることとなり、
失うことの不安とそれ以上の憎悪とに苛まれた欧米諸国は、
対日戦略を立案し、強行的な圧力と挑発を繰り返すように
なったのでありました。 」
http://www.melma.com/backnumber_256_1360762/
http://www.melma.com/backnumber_256_1360463/
「 大正十年のワシントン会議で、日英同盟は、当事者では
ないアメリカにより破棄せられるところとなり、また、
移民の歓迎を国是とするはずのアメリカは、日本人移民のみを
締め出す排日移民法を、その感情の赴くままに制定し、
アメリカに帰化していた日本人の国籍まで奪いました。
この締め付けの果てに、我が国と欧米列強との関係は悪化の一
途をたどることとなりましたが、ひたすらに平和を願われます
昭和天皇の大御心に導かれまして、我が国はあくまで外交にも
とづく時局の打開に臨みました。しかし、アメリカがそれまで
の日米交渉の経過を一切無視するハル・ノートをつきつけるに
至って、神代より連なるこの国の生命の断絶を予感した我が国
は、昭和十六年十二月八日、ついに、米英との戦端をやむなく
開いたのでありました。
大東亜戦争において我が先達は、二千六百年もの連なりを
なしているその悠久を守るため、また列強による侵略の
苦痛より喘ぐ東亜の同胞を解放したい思いを胸に熱くして、
陸に海に空に、そして本土である沖縄に、力戦奮闘をたび重ね、
一つとしりながらもその尊き命を、この悠久に捧げられたのであります。
守るべきを守り抜いたこの奮戦を経て我が国は、
国民(くにたみ)の身を深くお憂いにならせられました
昭和天皇の御聖断を畏くも奉戴するをもちまして、
この御戦を閉じることとなりました。 」
靖国参拝もせず、A級戦犯に憤ったという事をみても、戦争には反対の立場をとっていました。
マッカーサーに「私は八つ裂きにされても日本は分割されないでくれ」
といったそうです。昭和天皇には罪はありませんよ。
あの時代の人間が、戦後生き残っていたとしても、言うべきことを言わずに亡くなっていたことでしょう。
日本国においては 大東亜戦争の開戦に関して
国民全体の 共同責任の代表者たちは居ましたが
犯罪者は 一人も居ませんでした
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog096.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog116.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog168.html
日本国の共同責任の代表者たちが 東京裁判で真実をはっきり述べたことは
とても大切なことでした
「 断じて日本国は侵略戦争をしたのではなく、自衛戦争をしたのである 」
終戦直後、日本国民は米国の政策によりすっかり洗脳されてしまいました
昭和20年時において、二十歳以上の青年で時代背景や過去の歴史をわかっておれば
洗脳プログラムに対抗しうる気力があったであろうけれども、
昭和20年時に、6~19歳前後の青少年であった人たちは、
食べるものがなく、飢餓状態の生活のなかで、ラジオや新聞によって
繰り返し洗脳されたため、自分で真偽を確かめる術もなく、ひとたまりもなく、
洗脳されてしまったのです。
表向き日本国を責めるようなことを発言しないとしても、
内心では日本国の過去の指導者たちに不信の念を抱くようになってしまったのです
米国の検閲により、正当な日本人と少数の公正な外国人の主張は消されてしまい、
主権回復した後でさえも、日本国の指導者たちは、
米国から押し付けられた「 歴史認識 」を修正しようとせず、
大東亜戦争の正しい事由を、自国民に 明確に伝えようとしてこなかったのです
その結果、共産主義者や 危険な洗脳教育を受けた隣国の民から、
捏造された歴史や、歪曲されたいわれのない事件について、非難を受けても、
一人一人の日本人が、毅然として言い返すことができない状態となり、
何とも憂慮すべき状況に陥ってしまったのです
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%88%A6%E4%...
東條の処刑の一番の大きな問題は、天皇の戦争責任と帝国臣民の戦争協力責任の解明が(政治的な意味で)困難になったということです。
なにもかも東條一人に責任を負わせて処刑してしまったがために、昭和天皇の戦争責任や、あのメチャクチャな戦争に協力して「天皇万歳」を叫んでいた一般国民の戦争責任を問うことが困難になってしまいました。そのことが、日本の戦後史に大きな影を落としていると思います。
もし東條が生きていて、そのことになにか言及していたら、国民総懺悔=国民の戦争責任の無回避といういまのような事態にはなっていなかったかもしれません。
そして、連合国に日本国が占領されたとき、政府や“国体護持”を絶対擁護を目した旧軍人たちが東條の処刑に賛成して天皇の戦争責任を問えなくしてしまったあたりの眞相。その歴史事実が、東條が死んでしまったことによって証言する人がいなくなってしまいました。
まさに死人に口無しです。
もし東條が終身刑になり、そこら辺の“国体護持派”の連中の売国的政治が歴史解明の中で明るみになっていたら、売国的な“国体護持派”の系列に属する政治家が政界を牛耳るようなことは無かったかもしれません。
大日本帝国のアジア侵略は、天皇自身の意思であり命令であり、戦争責任は天皇と天皇の命令に服した帝国臣民ひとりひとりに存在していました。
戦争責任は東條ひとりにあるのではありません。
東條が生きていれば、その事実を明らかにすることができたかもしれません。
それができなくなったことで、戦後の日本は戦争の総括が困難になったという側面もあります。
私とは思想も主張も異なる方ですが、富岡幸一郎氏が戦争責任は戦犯だけではないと主張しています。その主張に私は同感です。
富岡幸一郎「日本文化批評」 第8回「天皇論の可能性(4)」
http://web.chokugen.jp/tomioka/2006/08/post_5142.html
「A級戦犯」の問題について改めて言及しておけば、当然のことながらこれは東京裁判をどう捉え直すかという戦後史の問題となる。そして中国が「A級戦犯」が合祀された靖国への首相参拝に執拗に反対しているのは、1972年の国交正常化の際の賠償放棄とともに、「戦争はA級戦犯に責任があり、一般国民に責任があるわけではない」という論理を組み立てたからである。これは中国政府の論理であるが、実は戦後の日本人は、東京裁判を通じて、あの「戦争の責任は政治家や軍人などの指導にあったのであり、普通の国民は無理矢理に戦争へとかりたてられた犠牲者であった」という論理によって、今日までやってきたのである。
つまり、戦争責任は「戦犯」といわれる人々に転嫁してきたわけである。それは取りも直さず、日本人自身が主体的に「あの戦争」を受けとめ、歴史のなかで総括することをしてこなかったことを意味する。
もちろん、戦争指導者の責任は問われなければならない(なぜ戦争をはじめ、そして敗北に至ったのかという)が、戦前の政治家の蒙昧(もうまい)や軍閥の暴走から無謀な戦争に突入したということばかりが強調されてきたことによって、日本人は自らの「戦争」の意味について思考を停止してきたのである。
昭和天皇は、軍事と政治の大権(統帥権と統治権)を付与された君主として、大東亜戦争に関与された。東京裁判において、しかし天皇の戦争責任は問われることはなかった。天皇を戦争犯罪人として告発することは、占領政策にとってプラスにはならないとのマッカーサー司令部の判断が働いたがためである。東条英機らのいわゆる「A級戦犯」は、その点では昭和天皇の戦争責任論と深く関わっていることはいうまでもない。
1945年12月9日から1948年1月まで約3年間
毎週日曜の午後8時から30分間、米国占領軍のラジオによる洗脳番組が
NHKラジオ第一・第二で、同時放送された
さらに毎週月曜午後12時30分、木曜午前11時、夕方5時に再放送されたのである
番組名は「 眞相はこうだ 」「 眞相はこうだ・質問箱 」「 眞相箱 」「 質問箱 」
日本人の大人が、太郎という少年に戦争中の話を聞かせる形式だった
米国が全部正しかった 米国による原爆投下は当然の報い
日本は原爆を落とされても当たり前だ という
米国の一方的な論で、終戦直後の日本人を「 洗脳 」していったのである
1952年(昭和27年)4月28日の講和条約発効の日を迎えたあと、
日本国の共同責任の代表者たち全員が、赦免・釈放されていたとしたならば
「 眞相箱 」を構成する物の見方は、
決して日本人のなかに定着するようなことはなかっただろう
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog206.html
http://www.amazon.co.jp/GHQ%E4%BD%9C%E6%88%90%E3%81%AE%E6%83%85%...
東條英機の当時の年齢、GHQの占領五年、戦後の混乱というのを考えると、余り関係ないでしょう。
つい最近、「戦争論」で戦前の考え方が見直されてきたのですから。
ただ、「第2次世界大戦期」と「湾岸戦争」「米国同時多発テロ」とは、下記の様な条件も大きく違うと思います。
・時代背景
・期間
・中枢で関わった人物とその人数
・情報量
・情報媒体 など
特に情報媒体に於いては、半世紀以上昔と比較すると、比べものにならないくらいに発達しているので下手な歴史認識操作すると、いくら戦勝国と言えども、非難は大きいのではないかなと思います。ただ、考えられるとすれば、「第2次世界大戦」時の色々な史料やデータが半世紀以上において米国で極秘扱いされ、ここ近年において何らかの形で公開されると言う事もありますので、その様な史料やデータ的なもので極秘扱いになるものは出るかなとは思います。
この質問の意図は,フセイン元イラク大統領の処刑に伴う影響を推測することです.その参向事例としての「もし東條英機がそのまま生きていたら」という思考実験(?)です.敗戦国の中枢部を口封じすることで,戦勝国がどのように歴史認識を操作するか(しうるか).また謀らずも影響してしまうかに関心があります.
という訳でこの質問は東條英機一人に絞ってあります.
東条英機が戦争の代名詞の様に思われるが、某書物によると戦争に走らせたのは近衛文麿であると書かれている。そして、東条英機にのみ戦争責任を課すのも酷だと思うが、終戦に向けての画策は取らなかったのも事実である。戦時中には総理としては近衛文麿本人を含め7名の総理が誕生しているが、最後の鈴木貫太郎が終戦に導いている。
そこで本題だが、「戦争の問題が解決しているのでは?」と書かれているが、これは、ある意味東条英機に全責任があると言っている様な感じがするのだが、解決の糸口を見つける場合、東条英機ただ1人の意見で戦争に関する問題を解決させるのは無理があると思う。この6名の首相(鈴木貫太郎は終戦に導いたので除く)とその側近達がある程度生かされ、尚かつ、昭和天皇が事実を述べてくれるなら戦時下のある程度正しい歴史認識が出来、問題解決の糸口は見つける事は出来ると思う。
戦時中に起こり得た史実の事象は、戦後生まれの人間には考えもおよばない位に、根が深いと思う。
---1937年~1945年迄の歴代総理大臣--- ( )内は就任年度
近衛文麿(1937-1941)……A級戦犯・服毒自殺[1945年死亡]
平沼騏一郎(1939)…………A級戦犯・終身禁固刑[1952年死亡]
阿部信行(1939-1940)……特になし[1953年死亡]
米内光政(1940)……………小磯~幣原期に海軍大臣として終戦処理を行う[1948年死亡]
東条英機(1941-1944)……A級戦犯・絞首刑[1948年死亡]
小磯国昭(1944)……………A級戦犯・終身刑[1950年死亡(病死)]
鈴木貫太郎(1945)…………ポツダム宣言を受諾・戦争終結へと導く[1948年死亡]
陸軍幹部では有ったが、開戦決定に関与してませんから。
終身刑ならば祭る必要はない、あっても自分でどこに祭ってもらいたいかが判断できるので、合祀に伴う靖国問題は消え、総理として、一国民として靖国に参拝することが出来、重大な外交問題がひとつ消えると思います。
日本軍がしてきた事は侵略だけでなくアジア開放のためにもしてきたことが少しは認められると思います。
日本国においては大東亜戦争の開戦に関して
国民全員の共同責任の代表者たちはいましたが
犯罪者は一切いなかったのであります
繰り返して 全く同一のことを 申し上げておきます
当初より 一貫して 主張は変えておりません
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9...