それらの報道は、有名人のスキャンダルや猟奇的な事件など、大衆が喜ぶような事件を扇情的に書き立てる「イエロー・ジャーナリズム」の典型です。
下記の論文・エッセイでは、ジャーナリズム腐敗の歴史、健全なイエロー・ジャーナリズムが可能か、ということについて論考しています。
ジャーナリズム史研究の困難
http://www.center.iii.u-tokyo.ac.jp/new/news16/16-2.html
下品で覗き見趣味的なワイドショーや雑誌にも、存在意義はあるのか!?
日本でのマスコミ論的な学問はまだまだ遅れている部分がたぶんにあると思います。今朝のニュースを見てもどのチャンネルにあわせても金太郎飴状態です。論文ではないですが以下の場所でマスメディアの解説はあるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%8...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A...
いずれにせよマスメディアの報道には視聴者もよく熟慮してみることが必要なようです。
このような論文が参考になると思います。
「雑誌における女性被害者報道の分析」
http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/2006/Elib/S1/001/001.html
事件の被害者の属性によって、雑誌での扱われ方がどのように変わってくるのかを研究した論文です。これは被害者の「性別」に焦点を当てていますが、事件そのものに冠する有用な情報に比べて、いかに覗き趣味的な情報の比率が大きいかがよくまとめられています。
淡白な取り上げられ方になるのか、それとも煽情的な記事にされ消費されるのかは、他にも「事件の状況(猟奇性など)」「動機(男女問題絡みの犯罪か金欲しさの犯罪か、など)」「発生場所」などで大きく変わってくるだろうと思います。
マスコミにとって事件は商品なので、そのつど包装されています。
彼らの経験的な思いこみで、どれも同じように報道されます。
ルポルタージュもまた、商品として塗装されます。
したがって、熱心な読者も、すこしづつ飽きてしまいます。
加害者たるべき者は、新しいニュースに関心を示し、学習します。
なんの知識もない被害者だけが、いつも危険にさらされています。
凶悪事件は、しばしば誤った乏しい情報で論評されています。
警察発表そのままの新聞や、被害者の遺恨に便乗したテレビでなく、
事実にもとづく裁判資料の分析が、唯一の手がかりなのです。
代表的な殺人事件を網羅した古典的大著です。
── Wilson,Colin & Seaman,Donald/関口 篤・訳
《現代殺人百科 19881110 青土社》
猟奇犯罪に関する博識と哲学が、綿密な資料によって語られます。
庶民の殺人事件について、入念に調査された労作です。
―― 松本 清張《ミステリーの系譜 ~ 肉鍋を食う女 ~ 19750210 中公文庫》
謎のまま、忘れられるのを待つ人々を歴訪しています。
―― 上坂 冬子《生体解剖・九州大学医学部事件 19890220 中公文庫》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030603
すべて落着した佐川事件にも、いまなお虚ろな謎が残されています。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030611
罪と罰 ~ Cannibalism ~
http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50336695.html
最近読んだブログの記事ですが、参考になると思います。
1936年におきた猟奇事件「阿部定事件」では、阿部定逮捕の報に、国会議員まで審議を休憩し号外を読みふけったとか。
2・26事件から日中戦争に向かう不透明な時代背景の下、センセーショナルな報道に人々はかっこうの息抜きと飛びついたそうです。
今の社会も似たような状況のような気がします。
バラバラ事件で必要以上に騒ぎ立てる必要はありませんが、「猟奇事件+過熱報道」は一種の社会状況を映す鏡とも言え、一連の現象を観察する価値はあるのではと思います。
面白いですね。いろいろ視点があるようですね。