「街を見渡せば、100通りの家族に100通りの家。家をのぞいてみれば、それぞれの暮らし振りが面白い!」と展開してきたイエルポタージュ・コーナー“イエ・ルポ”の続編。
“イエ・ルポ 2”では、特にマチとイエ、人と家族のドラマやものがたりを語らっていきませんか?愛するマチ、好きな風景、家族のエピソード、イエでの思い出…。あったかい、ユニークな、心に残っているお話、みなさんのマチやイエならではのお話が集まって、「イエ・ルポ」本が実現するとうれしい!毎回のテーマに沿って、あなたのイエとマチのルポ、お待ちしています!
イエ・ルポ 2 #001 THEME「今なら笑える!あなたのお仕置きの思い出」を教えて下さい
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※今回の「いわし」ご投稿は11月15日(木)正午で終了とさせて頂きます。
周りの、のっていらっしゃった方もホッとしたと思いますよ。
よかったと思います。
もっとよい方法・・?
私だったら、「すいません。静かにしてもらえませんか。」というかもしれません。
でも、その後どうするかおもいつきません。
以前電車で足を投げ出してる人に、おじさんが、「兄ちゃん悪いけど、その長い足をちょっとしまってくれないかな。」と言ってるのを聞いたことがありますが、他に電車の注意は聞いたことがないんですよね。
友人の親が、道端で座り込んでいるタバコ吸ってる子にも怒る親だったそうなのですが、私はその人尊敬していました。
iijimanさんが降りた電車に乗っていたら、「良くぞいってくださった」って思うと思います。
多いですね。椅子の上を土足でピョンピョンはねたり。
わーわー騒いだり…。
結構みんな見て見ぬふりですよね。
あと、別に悪い事をしていないけど不快なのが、子供の靴を脱がせないで抱っこしている親。
割と満員電車の中で眠った子供を抱っこしている親がいたのですが、
子供が靴をはいたままで、しかもその日は雨が降っていて、抱っこされていた子供の靴は
ドロドロでビチョビチョ。
その靴が私の隣にいたサラリーマンのおじさんのワイシャツについていて…。
おじさんは気付いていませんでしたが、ワイシャツに子供の靴の足跡がついていました。
子供を連れて電車に乗るのはとても大変な事だと思うけど、
一応まわりの人に迷惑をかけないようにしてもらいたいと思う。
子供って、悪気があって人に迷惑を掛けているわけではないんですよ。だから誰かに叱られるとその時点での行為はおさまりますが、自分に非があったとか、具体的に何が悪かったのかといったことは全く理解しませんから、次はまた同じになってしまうんです。
私はこんな時、どうせ叱っても次に役立つわけではありませんから、子供に声をかけてお友達になることにしています。具体的には、鞄から紙を取り出して口をパクパクさせるキツネさんとか作りましてね。それで「きみきみ、お靴が泥だらけで椅子さんが泣いてるよ」なんて話しかけるわけです。これで掴みを取ったら、あとはキツネさんが公衆の中でのマナーを楽しく教えてくれるという次第。
たいてい男がこんなことを始めると、付き添っている親はビックリして警戒しますが、それでいいんです。まともな親なら、それできちんと子供を見ていないとまずいということに気が付きます。
ま、今の時代、他人に関わると何をされるか分かりませんから、いつもいつもこんなやり方が通用するわけではありませんが、一例としてそんな接し方の選択もあるかなということで。
見知らぬ人間に叱られるより、友だちになった人からの言葉の方がずっと心に届きますね。子供に公衆道徳を求めるということは、子供を社会の一員として迎えるということですから、社会人のスキルとしても、子供とのコミュニケーションは学んでおいた方がいいのかもしれません。
なんと鮮やかな手口!!
手口というと人聞き悪いですが、
子供とそんな方法でコミュニケーションを取りながら
やんわり教えていく方法もあるんですね。
よく電車内で子供に注意をすると親が腹を立てて
「こわいお兄さんに嫌なこと言われるから静かにしましょうね」
なんて嫌味を言われるという話がありますが、
こういうやり方ならそんな心配もありません。
パクパクきつねさんの作り方をおぼえたいですね。
子供とのスムーズなコミュニケーションはたしかに社会人のスキルとして必要かもしれません。
たしかに子供に公衆道徳を求めるなら、子供という存在を社会の一員として認めることが必要ですから、同じ社会を共にする者同士のコミュニケーションからスタートしていくのが理想ですね。
子育ての経験が無く日頃小さな子供と接することもない私のような者にはとても難しいことですが、少し昔なら見知らぬ子供にも気軽に話しかけられる大人ばかりだったと思いますから、現代人はそういう世代を超えたコミュニケーション能力が低下してしまっているのかもしれませんね。考え直してみたい問題だと思いました。
1991年頃だったと思う。
その日は朝から端末のトラブルやら何やらで私もいら立っていた。
というか、もともとストレスフルな職場だったから、いら立っていない日の方が少なかったかもしれない。
へろへろになって帰宅する電車の中。JR線の快速。家族連れがいた。ロングシート(長いタイプの座席ですね)に並んで座っていた。
父親は30代くらい、母親もそのくらいか。間に子供が1人居た。子供は3歳くらいだったと思う。多分、初歩的な日本語はわかるんじゃないかというくらい。
別に席を譲ってくれなんて言わない。私も20代で、そこまでへばっていなかった、いや、へばってはいたけれど、立てないというほどでもなかったし、平日に家族連れなんて、たまの(親父の)年休か何かで、貴重な時間を過ごしていたのだろうから、その邪魔をしたいとも思わなかったし。
ただ、気に障ることがあった。問題は、子供がはしゃぐことだった。
最初は、座ったまま声をあげながら父親をつねったりひっぱったりしていた。父親はそれが嬉しいのか、にやにやしていた。母親は寝ていた。
子供の行動は徐々に拡大の方向にあった。声は大きくなり、行動もグーで殴るという感じになっていた。
グーで殴るのは別にいい。所詮子供の力だし、第一、仮に怪力であったとしても他人の私がどうこうこう問題でもない。父親は相変わらずにやにやしていた。
ただ、大声は勘弁して欲しかった。いら立っていた私のカンに触るものがあった。
しかし、両親はもちろん、周囲の大人たちは皆、黙っていた。
ここで(私が)怒りだすのも、かえって大人げないというものかと思うことにした。
子供の行動はさらにエスカレートし、ついには座席に土足で上り、奇声を発しながら父親の頭を殴り始めた。
これにはキレた、が、理性が私を引き止めた。
キレているのは、周囲を見渡す限り(当事者親子=父親・母親を含めて)、私だけという感じなのだ。大人は大勢居た。誰もが意識の扉を閉め切ったように、無視をしていた。
理性が私を引き止め、理性ならぬものが子供をエスカレートさせていくという状況がしばらく続いた。
こうなってくると、これはもう私個人の問題だけではないのではないか?車内の誰にとっても迷惑な状況ではないか?
だが、車内の(少なくとも表面的な)世論は「無視」、その状況から察するに「許容範囲内」であった。滅多にあることじゃない、他人に関わるのは面倒だし、まあいいじゃないか、と。だからこれくらいは「許容範囲にしようよ」と。
だが私は「許容範囲を超えている」と考えた。私は作戦を考えた。
幸い、快速は私の下車する駅に近づいていた。沿線風景から見て、あと5分くらいか。
5分待った。5分。子供は奇声を上げ、父親はにやにやし、私はつり革につかまって、ただ、じっと子供を見ていた。子供は私を見ていなかった。
快速がブレーキを掛け、おそらく時速20kmくらいにまで減速した時、私は声を出した。結構大きな声だったと思う。
私は子供を呼び止めた。
「君!」
子供は私を見た。父親は正面を向いたままにやにやしていた。子供が呼び止められたことに気づいていなかったかもしれない。
「君!車内で大声を出すのは止めなさい!それから、土足で椅子に上るのは止めなさい!」
鋭いいくつかの視線を感じたが、その時、快速は既に停車してドアを開けていた。
私は素早く快速を下車した。脱出だ。
子供が一瞬固まったのを視界の隅でキャッチしたような気はした。両親の表情を見る余裕はなかった。
そのあと子供がどうなったかは知らない。
お仕置きというにはあまりにも不完全だろう。叱られた内容がどこまで子供にちゃんと伝わったかだろうか。
脱出の前に、あまり早いタイミングで叱り始めると、両親や周囲の大人が私に反撃してきそうな気がした。毎日使う通勤電車でいざこざは起こしたくはなかった。後々の仕返し等を恐れて「両親には私の顔を覚えて欲しくなかった」というのもある。
あの時は、そうするほか思いつかなかった。
だが、あれでよかったのだろうか?そうでもないような気がする。
もっと良い方法はなかったのだろうか?