http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/2006/Elib/H32-2/005/002.html
聖徳太子は、天下に少し乱れのあったときに、神代やインドにおける吉例にしたがって、六十六番の物まねを演じるように秦河勝に命じられ、また御自分で六十六番の面を作られて、それを河勝にあたえられた。河時は橘(たちばな)の内裏の紫宸殿(ししんでん)において、この六十六番の物まねを演じた。するとまもなく、天下が治まって国土が平隠になった
http://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/history.html
観阿弥は、将軍足利義満の支援を得、大和猿楽の伝統である物真似主体の強い芸風に田楽や近江猿楽などの歌舞的要素をとりいれて芸術的に高めたほか、当時流行していたリズミカルな[曲舞]の節を旋律的な[小歌節]と融合させるなど音楽面での改革をも行って、大いに発展を促しました。
http://www.deston.net/rakugo/wagei02.html
米沢彦八の得意とするところは、仕形物真似《しかたものまね》であり、軽口咄《かるくちばなし》であった。物真似というのは、有名な役者の声色を使ったり、身振りを写したりすることで、咄のほかに物真似も演じて人気を博したもののようである。御入部伽羅女』(宝永七年(1710))に載る大阪生玉社前の図には、米沢彦八の熱演の模様が写されている。
立烏帽子《たてえぼし》大黒頭巾、編み笠、湯呑茶碗などを使いわけて仕形物真似を演じた。中でも大名の物真似に用いた立烏帽子姿は有名であった。
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