「へぇ~」「スゴイ!」と感動出来るような、ビックリする様な数々のエピソード、宜しく御願いします!!
タモリが芸能界にデビューするきっかけになったエピソードはジャズピアニストの山下洋輔氏の著作で知っていた。それによると、あるとき福岡でライブがあって、いつものように打ち上げと称してホテルの部屋で騒いでいた。そのころサックスの坂田明やドラムの中村誠一らの間でハナモゲラ語で会話する意味不明のナンセンスな遊びで盛り上がっていた。そこへなんの違和感もなくハナモゲラ語を駆使して会話に参入してきた見知らぬ男が当時サラリーマンだったタモリだった、というのだ。
その後、新宿二丁目だか(さだかではないが)にあったジャズマンたちの溜まり場であったバー「ジャックの豆の木」というバーへ仲間でお金を出し合い福岡からタモリを呼んではその抱腹絶倒なる密室芸を堪能していたという。いちおう山下洋輔がマネージャーとなり芸能界活動をはじめたのだけれどマネージャーとしては有能ではなかったようである。そこに漫画家の赤塚不二夫がタモリにほれ込み強引に東京に出てくることを薦めたらしい。タモリがなにかで語っていた思い出話では赤塚不二夫は福岡でのサラリーマン生活をやめてきたタモリを自分のマンションに住まわせ、自家用車も自由に使わせ、自分はというと狭い仕事部屋で寝起きしていたのだという。それもロッカーを倒してそのうえに布団をひいて。
赤塚不二夫が長い闘病の末、夫人二人のあとを追うように亡くなった。漫画界にどのような功績を残した人なのか(日本の戦後のギャグ漫画で偉大な業績を残したということらしい)うかつにも知らなかったが、このタモリの語ったエピソードがおかしくてちょっぴり哀しくて、男同士って惚れあうと(恋愛ではなく互いの存在をリスペクトしている関係みたいな)自分の生活を犠牲にするのもいとわないところがあるんだなあと思ったものだ。多分、タモリは十分敬意を払いながらも表面ふんぞり返っていただろうし、赤塚不二夫はタモリの生活を見てやっているなんぞと恩きせがましいことはこれっぽっちも思っていなかっただろう。
2006年の夏、池袋サンシャインの展望台に登ったらちょうど赤塚不二夫50周記念展をやっていた。その展覧会の準備で忙しかった眞知子夫人が開催直前に急死されたということがパネルで説明があったのを思い出す。
どちらかひとつめの目がぎ眼です。
知られていたらごめんなさい。
昔、大分でボーリング場で店長をやっていたみたいです。
詳しいことはわかりませんが・・。
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