何かこうなった経緯にエピソードがあったのでしょうか…??
諸説あると思うのですが、
・20字×20行の400字詰様式の起源は、塙保己一が編纂した『群書類従』の版木であるとされている。
http://www.weblio.jp/content/%E5%8E%9F%E7%A8%BF%E7%94%A8%E7%B4%9...
・400字詰め原稿用紙ができるキッカケを作ったのが「金色夜叉」の著者、尾崎紅葉だった、って知ってた?
間違って裁断した用紙を原稿用紙にするよう、彼が紙屋に依頼したのが起源だとか。
以来、明治の作家達は、各自使いやすいマス目の原稿用紙を、オーダーメイドするようになったらしい。
http://1hp.jp/page.cgi?id=sanroku&pn=28#原稿用紙
・万福寺の住職・鉄眼禅師は1681年、明から伝わった「大
蔵経」を刊行した。印刷用に、25年かけて6万枚もの木
版を彫り上げた。この木版は二十字詰め二十行で彫られ
ており、これが現在の四百字詰め原稿用紙のルーツ。
http://saya.txt-nifty.com/zatugaku/2005/12/post_eefa.html
といったところでしょうか。
昔、黄檗宗(おうばくしゅう)のお坊さんが、明からお経(一切経)を持ち帰り、みんなに読んでもらえるように訓点をつけて刷ったときの木版が20字×20行の400字詰めだったからなんだそうです。
「原稿用紙」の使用が一般的になったのは、明治時代中期に入ってからのことで、現在の「原稿用紙」の形状に近いものとしては、内田魯庵のつくった19字×10行の190字詰用紙がもっとも早い時期に属するものであると伝えられます。これは板木に変わって活版印刷が一般的になるなかで、新聞・雑誌などに原稿を掲載する際、字数が正確に計量できることが最重要視されたことと関係します。
http://www.oda-haruto.jp/blog/2009/04/post_261.html
今から350年も前、万福寺の住職だった鉄眼(てつげん)禅師が作った木版です。
鉄眼禅師は、中国の明朝から隠元(いんげん)和尚が持ちかえった「大蔵経」の刊行を決意し、25年の歳月をかけてなんと6万枚の印刷用木版を彫り上げたといいます。
このときの、木版のレイアウトが20字×20行で、これが現在の原稿用紙の400字詰めの根拠になっているというわけです。
その時、彫った字体は、現在の明朝体のルーツともいわれています。
http://blog.livedoor.jp/yonbili/archives/50396897.html
万福寺という寺の住職だった鉄眼禅師は、中国の明朝時代に隠元和尚が持ってきた『大蔵経』の刊行を決意。そして、25年もの歳月を賭けて6万枚の印刷用木版を彫り上げ、1681年に完成させた。
この書体が明朝体で今日の活字の基本となったのだが、『大蔵経』の木版が20字詰20行で彫られていたことが、現在の400字詰め原稿用紙のルーツとなったようだ。
http://www.tondaya.co.jp/blog_staff/200907/post-128.html
鉄眼禅師は授けられた経典から6万枚の版木を開版し、現在でも尚それが、ここ宝蔵院の収蔵庫に国の重要文化財の指定を受け、保管され、収蔵庫の一番奥では、職人さんにより刷り続けられています。
現在、仏教各宗派で使われるお経はどれもこの経典(一切経)のうちにふくまれているそうで、日本国内だけでなく海外にまで送られているとか。
又、版木に彫られている文字は広く使用されている明朝体の元となっており、版木そのものは400字詰原稿用紙と同じ仕様です。
いかがでしょう?
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