皇居の地下道(江戸城の抜け穴)について

詳しい方いましたらご教授願います。
発見当初の画像などありましたらご提示ください。
秋庭著書関係はご遠慮願います。

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  • 終了:2009/09/20 10:20:05
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id:MEI-ZA-YU No.3

回答回数4756ベストアンサー獲得回数767

ポイント26pt

コメント欄が開いてないのでここで失礼します。

http://tukitodora.exblog.jp/9394881/

ここの一番下参照 ↓

この 隠し部屋は 上の図で 赤の下線が 引いてあるところです

そして! そのちょっと上にある 赤の四角!

こここそ 江戸城の「抜け穴」と 言われてるところですよ

内部図面には 「穴道」と 書かれています


http://tukitodora.exblog.jp/9406062/

「穴道」と 書いてあるところです

ここは 将軍の住まい「中奥」の一番 奥の部分

大奥の「お鈴廊下」の手前に当たります

この絵図は 都立中央図書館にあるもので

これ一つだけではなく 他の絵図にも

ちゃんと 下向きの階段様のものが 同じ位置に記されています

やっぱり あったんですねー 「抜け道」


しかし じゃあ「出口」は?というと こっちの特定は むずかしいですね

井戸の途中の横穴は さすがに違うでしょ と思いますが 

あと 出口があった と噂されたのは

「山王神社」 高田馬場の「穴八幡」 神楽坂あたりです

これに関しては 作家の「火坂雅志」さんが おもしろいエッセイを書いています

現在はJR新大久保駅の近くにある 「皆中稲荷神社」

ここは江戸時代 伊賀組の守り神だったそうです

ここの宮司さんが言うには 戦後 空襲で焼けた本殿を

建てなおそうとしたとき 床下から井戸のような竪穴が

見つかった と言うのですね

そして 底からは東に向かって 大人が立って歩けるくらいの

横穴が 延々と 続いていたそうです

火坂さんは 「これこそ 江戸城の抜け穴!」と言ってます

id:rojitrance

回答ありがとうございます。

これは、さすがにびっくりしました。

江戸城の抜け穴で興味深いエピソードといえば

やはり「半蔵門」でしょう。

皆中稲荷神社の説明にありましたが、徳川幕府は抜け穴の出口を

伊賀の忍者に警備させていたらしいのですが、

「半蔵門」の由来が服部半蔵であることから

あの付近にも抜け穴の出口があったのではないか、と想像できます。

あと赤坂見附駅近くに「ニンジャ アカサカ」というエンターテイメントレストランがありますが

内装が忍者の隠れ里風なだけあって、なにやら暗示的に思えます。

四谷付近でも抜け穴らしきものが見つかったと、うろ覚えですが記憶してます。

2009/09/13 17:36:13

その他の回答2件)

id:afurokun No.1

回答回数4647ベストアンサー獲得回数99

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大東京の地下400年 九層倍の嘘 錯乱編

http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/131.html

id:rojitrance

この地下妄の手記では秋庭著作の、ろくに調査、検証していないことを糾弾しているのであって

けして「皇居の地下道は存在しない」とは言っていないはずです。

かつて秋庭本を検証するため参考にさせていただきました。

昔年末の特番、確かさんまと福沢アナが司会だったと思いますが、

番組内で森本敏教授が皇居の地下道に言及されていました。

今は陥没の恐れがあるため空隙充填されてしまったらしいですね。

2009/09/13 12:27:33
id:lancer13 No.2

回答回数2934ベストアンサー獲得回数68

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●皇居の防空対策

 では、皇居の防空対策はどうだったのか。

①防空室=地下金庫室

 皇居には1935(昭和10)年ごろ、第2期庁舎に鋼鉄の扉付きの「防空室」が作られた。しかし、内部が狭いことと大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近くに新たに防空壕を作ることになった。のちに「御文庫」と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、両陛下は空襲警報発令のたびに宝剣神璽(三種の神器の一つの剣と璽=天皇の印)とともに皇居第2期庁舎の「防空室」=「地下金庫室」に避難している。

 小倉侍従日記によると、最初の避難は1942(昭和17) 年3月5日の警戒警報発令の時だった。このときは米軍機は東京東京上空にまだ来ていない。これより前の東京初空襲のときには大本営が東京上空に飛来する時間を読み違い、慌てて避難した様子が書かれている。9月30日(1942)からはここで就寝している。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no132.htm

id:rojitrance

回答ありがとうございます

2009/09/13 12:28:23
id:MEI-ZA-YU No.3

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http://tukitodora.exblog.jp/9394881/

ここの一番下参照 ↓

この 隠し部屋は 上の図で 赤の下線が 引いてあるところです

そして! そのちょっと上にある 赤の四角!

こここそ 江戸城の「抜け穴」と 言われてるところですよ

内部図面には 「穴道」と 書かれています


http://tukitodora.exblog.jp/9406062/

「穴道」と 書いてあるところです

ここは 将軍の住まい「中奥」の一番 奥の部分

大奥の「お鈴廊下」の手前に当たります

この絵図は 都立中央図書館にあるもので

これ一つだけではなく 他の絵図にも

ちゃんと 下向きの階段様のものが 同じ位置に記されています

やっぱり あったんですねー 「抜け道」


しかし じゃあ「出口」は?というと こっちの特定は むずかしいですね

井戸の途中の横穴は さすがに違うでしょ と思いますが 

あと 出口があった と噂されたのは

「山王神社」 高田馬場の「穴八幡」 神楽坂あたりです

これに関しては 作家の「火坂雅志」さんが おもしろいエッセイを書いています

現在はJR新大久保駅の近くにある 「皆中稲荷神社」

ここは江戸時代 伊賀組の守り神だったそうです

ここの宮司さんが言うには 戦後 空襲で焼けた本殿を

建てなおそうとしたとき 床下から井戸のような竪穴が

見つかった と言うのですね

そして 底からは東に向かって 大人が立って歩けるくらいの

横穴が 延々と 続いていたそうです

火坂さんは 「これこそ 江戸城の抜け穴!」と言ってます

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回答ありがとうございます。

これは、さすがにびっくりしました。

江戸城の抜け穴で興味深いエピソードといえば

やはり「半蔵門」でしょう。

皆中稲荷神社の説明にありましたが、徳川幕府は抜け穴の出口を

伊賀の忍者に警備させていたらしいのですが、

「半蔵門」の由来が服部半蔵であることから

あの付近にも抜け穴の出口があったのではないか、と想像できます。

あと赤坂見附駅近くに「ニンジャ アカサカ」というエンターテイメントレストランがありますが

内装が忍者の隠れ里風なだけあって、なにやら暗示的に思えます。

四谷付近でも抜け穴らしきものが見つかったと、うろ覚えですが記憶してます。

2009/09/13 17:36:13

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