たい焼き100周年はウソ?


今年はたい焼きの元祖である「浪花家」100周年ということで、たい焼き100周年として報道されているようですが、一方でたい焼きの起源は浪花家ではないという情報もあります。

こちらは浪花家説。
二重焼き、大判焼きに関連した歴史年表
http://hb2.seikyou.ne.jp/home/my-morita/ni/how_to/ni_chronology2.htm

第6回「回転焼と大判焼と今川焼の間には」の巻
http://www.maboroshi-ch.com/sun/pha_14.htm



一方、ウィキペディアでは以前は浪花家説でしたが、現時点では「発祥は、三重県津市大門にあった「日の出屋食堂」」と書かれています。
Webm旅 2007年11月号 たいやき研究ノート
http://www.webmtabi.jp/200711/feature_8_0.html
Webm旅 2008年3月号 たいやき研究ノート 2
http://www.webmtabi.jp/200803/serial/taiyaki02.html
こちらでも、浪花家説が疑問視されています。

果たして本当のところはどうなのでしょう?また、信頼できる情報源を教えてください。

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  • 登録:2009/10/03 15:05:41
  • 終了:2009/10/09 19:52:24

回答(1件)

id:nozomi_private No.1

nozomi_private回答回数93ベストアンサー獲得回数92009/10/07 03:24:55

ポイント60pt

浪花屋に関しての情報は未確定ですのでポイントは結構です。

三重、津市の日の出屋がたい焼き発祥との説について

ウィキペディアのノートでは「一般には」とあるのですが、浪花屋の創業1909年より以前にあったという資料は、少なくともネットでは見当たりませんでした。

ウィキペディアのノートでは津市の観光協会のページがソースとあります。

http://tsukanko.jp/cgi-bin/search/search.cgi?case=disp_data&send...

今では庶民の味となっているたいやきですが津が発祥の地です。最初は大門の日の出屋食堂で出され、当時は東京や大阪のデパートにも出店していました。現在は鳥居町のびすとろぴあっとで注文販売によってなつかしい元祖の味を味わうことができます。

ここで見る限り、年代の指定はありません。

現在津市では日の出屋のオーナーのお嬢さんの<ビストロぴあっと>

http://www.alles.or.jp/~piatto/

という店で復刻版を出されているようなのでHPを見てみるとこんな広告用紙(包装紙?)がアップされていました。

http://www.alles.or.jp/~piatto/bigtai.html

ここで出店したと書いてあるデパートですが、その中の松坂屋の店史では

http://www.matsuzakaya.co.jp/corporate/history/honshi/syowa.shtm...

 わが国特有の名店街は、名古屋店が1936年(昭和11年)12月1日に開設したのが最初です。「いよいよ1日より開設『東西名物街』。古くから名代の老舗と謳はれる東西一流の代表的専門店を常設致しました」と広告にあります。

とあります。これは名古屋店で、昭和11年の暮れですから、他のデパートをふくめ、東京に名店街が展開したのは昭和12年以降ということになります。ですので、日の出屋が出店したのはこれ以降になります。

ウィキペディアのたい焼き発祥に関する記述では

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%84%E7%84%BC%E3%81%8...

発祥は、三重県津市大門にあった「日の出屋食堂」と言われている。当時、同店が東京や大阪のデパートにも出店していたことから知名度を得て全国的に広まったとされる。

とあるので、この記述が正しければたいやきが東京に広がったのは昭和12年以降でなくてはなりません。

が、NHKの取材によれば、たい焼きは関東大震災のあとにブームになっている、ということです。

http://d.hatena.ne.jp/bunka/20090227

こちらの取材ではおよげ!たいやきくんのモデルが浪花屋、と少々疑わしいことも言っているので、信用していいか判断に迷うところですが、たいやきくんのときにブームになったのは確かですので、震災のときにもブームが起きたのかもしれません。

そうすると、少なくとも日の出屋がデパートに出店してから全国に広がった、という説は少々無理が出てくるかと思います。


その日の出屋の創業年代ですが、ネットで調べたところでは明治創業という資料は見当たりませんでした。昭和創業、ということでなら下の資料含め何件かヒットします。

http://www3.ocn.ne.jp/~gourmet/ganso.htm

日の出屋(廃業) 三重 地方独特 たいやき

終戦後間もない頃、鋳物工場で鯛型を作らせ、配給品の「キューバ糖」を使って旗揚げしたのが、津市「日の出屋」のたいやきだという。昭和24年、まだ月給が百円という時代に1斤五百円の砂糖を使ったたいやきは、なんと1個百円もしたそうだ。甘みに飢えていた時代とはいえ、それが飛ぶように売れたというので驚きである。 このお店のたいやきは評判を重ね、全国の百貨店、デパートから特設の出店として招待されて日本中に広まり、ついには日本橋などの三越デパートで「本場・津のたいやき」と広告されて本家のお墨付きを得た、ということ。残念ながら10年ほど前に廃業したという。

<ビストロぴあっと>でアップされている広告用紙ですが、ここで東京支社とされた場所には別の会社が昭和41年8月に入居しています。

http://www.kk-kaho.co.jp/company.htm

また別府市近鉄百貨店に売り場を設けたとありますが、別府市近鉄百貨店がこの名前で操業を開始したのが昭和36年7月(それ以前は別府近鉄会館)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%BA%9C%E8%BF%91%E9%89%8...

ですので、この広告が作成されたのは昭和36年7月から昭和41年8月の間ということになります。

米子高島屋の創業も1961年(昭和36年)5月

http://job.mynavi.jp/10/pc/search/corp82436/outline.html

ですので、この時期集中して全国に出店したのでは、と考えることが可能です。

日の出屋はなぜか年代について自称していないようなので、正確にはいつどうやって始まったかはネットではたどれませんでした。

津市観光協会では年代が特定されていないので、昭和の創業を元祖と勘違いした、ということも考えられます。


一方、東京 麻布の浪花屋と四谷のわかばについては、昭和28年3月19日の読売新聞の記事に始まる「たい焼論争」で第三者によって存在が記録されています。

http://nojee.livedoor.biz/archives/54898065.html

ここでは、戦後あんこを普通に尻尾まで入れている当たり前の誠実さに感動した、と言っていますから、たい焼きは戦前からあった、かなりポピュラーな菓子だったと思われます。


とりあえず三重の日の出屋発祥説についてのみ調べてみましたが、確たる証拠はなく、どちらかといえば昭和の創業ではないか、という気がしました。

浪花屋の正確な創業年代についてはまた調べてみますが、どなたかお分かりの方がいらしたら教えていただければと思います。

浪花屋に関しては、弟子に暖簾わけを何回かしているようで、両国、南千住、森下など(両国は明治42年創業だそうです)

http://www.enjoytokyo.jp/id/cazcaz/137272.html

http://r.tabelog.com/tokyo/A1324/A132401/13030105/

http://yuki-ssg.seesaa.net/article/5776315.html


(焼き型からの推理でかっぱ橋近くではないか、という説を唱えている方がいらっしゃるそうですが、もみじまんじゅうの宮島のように、人が集まり、(大判焼きのような)菓子を売った歴史のある街なら、日本どこでもその手の型はすぐに作れる技術があったかと思います。推測ですが。

http://www.aa.alpha-net.ne.jp/usaco3/momiman/rekisi.htm )


(こちらの記事によれば、「関東大震災でたい焼きブーム」という情報のソースはどうも浪花屋の主人からの聞き取りのようです。

http://blog.livedoor.jp/cdim/archives/51850821.html

(なぜ麹町か、ということについては、種類は違いますが助惣焼きの店がかなり昔からあったようなので、焼き物の伝統があったのかもしれません

http://ameblo.jp/fushigisoshi/entry-10320543354.html

http://www.imes.boj.or.jp/cm/pdffiles/nishikie0305.pdf

id:matsunaga

ありがとうございます!情報が極めて錯綜していますね。

国会図書館の新聞記事データベースなどで戦前から一括して検索してみたりする必要があるのかもしれません。

2009/10/07 08:49:13
  • id:nozomi_private

    id:matsunaga様
    ブログの方の記事拝見しました。もうあまり必要とされないかもしれませんが、その後の調査をいくつか。

    日の出屋に関しては東海テレビの以下の企画書が見つかりました。(民放連が作った資料のようです)
    http://nab.or.jp/index.php?plugin=attach&refer=%CA%FC%C1%F7%A4%C8%C0%C4%BE%AF%C7%AF%2F%A1%D62001%C7%AF%C5%D9%CC%B1%CA%FC%CF%A2%A5%E1%A5%C7%A5%A3%A5%A2%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC%A1%A6%A5%D7%A5%ED%A5%B8%A5%A7%A5%AF%A5%C8%B8%A6%B5%E6%CA%F3%B9%F0%BD%F1%A1%D7%A4%CB%A4%C4%A4%A4%A4%C6&openfile=09.pdf
    「このたい焼きを日本で初めて作ったという人が、伊藤正見さん。
    ・・・
    昭和62年、夫婦はロシア料理店を始め、たい焼きの店「日の出屋」の看板は32年で降ろされる。」
    お店の引札(風包装紙)の記述とは激しく食い違いますが、この取材が事実でご本人からそういう証言を得ているのだとすれば、三重、津市の日の出屋は伊藤正見さん一代限り、ということで、操業32年、ということになります。

    そしてまた文学者の記述に現れたたい焼きにつきまして
    「露肆 ほしみせ 泉鏡花 明治44年2月
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4564_21653.html
     寒くなると、山の手大通りの露店(よみせ)に古着屋の数が殖(ふ)える。
    ・・・
     この次第で、露店の間(あわい)は、どうして八尺が五尺も無い。蒟蒻(こんにゃく)、蒲鉾(かまぼこ)、八ツ頭(がしら)、おでん屋の鍋(なべ)の中、混雑(ごたごた)と込合って、食物店(たべものみせ)は、お馴染(なじみ)のぶっ切飴(きりあめ)、今川焼、江戸前取り立ての魚焼(うおやき)、と名告(なのり)を上げると、目の下八寸の鯛焼(たいやき)と銘を打つ。真似(まね)はせずとも可(い)い事を、鱗焼(うろこやき)は気味が悪い。」

    この時期、泉鏡花は麹町、今の四谷駅の近くに居住していたようです。
    泉鏡花自筆年譜
    http://www2s.biglobe.ne.jp/~ant/nenpu.html
     明治四十三年 五月、麹町下六番町十一に。

    また、ほぼ同時期に松井須磨子もたい焼きを食べています。
    「松井須磨子 - 長谷川 時雨
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000726/files/45986_26597.html
    卒業間近くなって朝から夜まで通して練習のあったおりなど、みんながそれぞれのお弁当をとるのに、袂(たもと)のなかから煙の出る鯛焼(たいやき)を出してさっさと食べてしまうと、勝手にさきへ一人で稽古(けいこ)をはじめた」

    卒業とは文芸協会のことですが、これが新宿区余丁町7-1、明治43年ごろだと思われます。
    「http://www.tokyo-kurenaidan.com/sumako.htm
    明治42年 坪内逍遥の文芸協会演劇研究所に第1期研究生として入学。(島村抱月は母校早稲田大学文学部で、英文学史・文学概論などを教える傍ら、演劇研究所の講師もしていた)
    明治43年 文芸協会第1回試演会で、「ハムレット」と「ヴェニスの商人」に出演。前沢誠助と離婚」

    どちらも浪花屋創業の半年から一年後、浪花屋の麹町からは歩いていける距離ですが、須磨子の出したたい焼きは煙、つまりまだ湯気が立っていました。女性の足で麹町から余丁町まで、たい焼きが暖かいうちに歩くのは大変かと思いますので、浪花屋以外の場所にあった、余丁町の近くの店で買ったと考えるのが自然ではないかと思います。
    http://maps.google.com/maps?hl=ja&rls=com.microsoft:*:IE-SearchBox&rlz=1I7ADBF_ja&q=%E4%BD%99%E4%B8%81%E7%94%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

    また、鏡花の見たたい焼きは(四谷近くの)夜店の屋台です。
    鏡花はさまざまな夜店についてこちらで描写していますが、神楽坂を中心にこの時期アセチレンランプの開発などもあり、明治20年ごろから夜店が流行っていました。

    ここでわかることは、
    1.少なくとも日の出屋の東京のデパート進出から全国に広まったと考えるのは無理。デパート出店以前からたい焼きは存在し、しかも夜店にあった。
    2.鏡花の見た夜店が浪花屋か他の店か
    a.鏡花の見た夜店は浪花屋
    (テキヤさんはよそ者に厳しいので、上方から来た神戸氏が容易に出店できたのかが疑問ですが)
    b.鏡花の見た夜店はまったく別の店

    たい焼きについては、明治43年、松井須磨子がいきなりたもとからたい焼きを出して食べて「なにそれ」といぶかしがられないほどには知名度があった食べ物かと思います(鏡花はうろこがきもちわるい、と言っていますが)。
    個人的には、今川焼き、天ぷら、すし、二八そばと同じく、基本的に屋台の食べ物だったのではないか、と考えています。当時コレラもありましたし、屋台の食べ物は食べるな、という人もいたようです。江戸っ子は屋台好きなのでそれでも懲りずに食べていたようですが。

    錦絵などに残っていればいいのですが、今川焼きも見つからないので、難しいです。詳しい方のご教示をお待ちすることにして、とりあえず。

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