知人とこの話になった際、「内臓などは死んだ後自由にしてもらっても構わないが、眼球(角膜移植の為)だけはどうしても提供したくない」という意見で一致しました。
これがごく少数派の意見なのかどうかが知りたいというのが、質問させて頂いた動機です。
ちなみに大雑把で申し訳ないですが、移植の項目には以下のものがあるそうです。
・心臓移植
・肺移植
・腎移植
・肝移植
・膵移植
・小腸移植
・骨髄移植
・造血幹細胞移植
・角膜移植
自分が提供側として臓器を誰かにあげることは考えられません。(同時に、提供を受けることも考えられません。)自分の体を機械の部品であるかのように、あつかわれるのは嫌だというのがあります。目であろうと、心臓であろうと、どの部分でも嫌です。あと、誰かが自分から臓器の提供を受けるということは、自分の死を喜んでいる(望んでいる)誰かがいるわけで、そう考えると、臓器提供を受ける側について道徳的にどうか、と思えるからです。臓器提供は別の人の不幸がないとありえないことだと思えるから、自分は関与したくないです。
「臓器提供意思表示カード(ドナーカード)」については、こんなところを見ておけば、何をすれば良いかが一通り理解できる人は多いと思います。
http://www.jotnw.or.jp/donation/method.html
http://www.jotnw.or.jp/donation/donorcard.html
http://www.medi-net.or.jp/tcnet/navi/002.html
医療的な意味での移植については「なお思想的・宗教的立場から、臓器の移植は否定する主張もあるが、少数派として扱われている」という話が有りますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%BB%E6%A4%8D_%28%E5%8C%BB%E7%...
「提供側」として、と言うより、あくまで個人的な考えとしては、「どれをとっても、とても人様に差し上げられる様な立派なものは持ち合わせていません。どこの馬の骨か分からない者の、そんな質でしかないものを『臓器提供』と称する呼び名のもとに、お使い頂くのは誠に忍びないと強く感じています」、という風なものになります。
まず極少数派ですね。
回答ありがとうございます。
「自分のもので良かったら」というご意見と、「自分のものなど」というご意見がみられました。どちらも基本的なスタンスは同じ様に感じますが、出る結論が違うようです。
自分にその時が来たら臓器は提供してくれと家族に言ってあります
でも眼だけはいやですね・・・
なんででしょう・・・
自分の勝手な意見からすると
来世(次の人生)で目が見えなかったらいやですね・・・
見えたにしても他人の映像が浮かび上がって来るとか・・・
そういうのが怖くて自分は眼球だけは提供したくないです
回答ありがとうございます。
あぁ、自分ももしかしたらそういった、輪廻のような事を知らず知らずの内に考えていたのかもしれません。
眼球だけが特別ではないのですが、きっと眼球は他の臓器と違い、実際に鏡などで目視しているからかな、などとも思いました。
http://www.card-hakko.com/insurance/index.html
難しい問題ですよね。
私自身は、すべて「提供」したいという考えです。
亡くなってしまったら、もうなにもできなくなるので、せめて誰かのお役に立てれば・・・という思いからです。
ただ、家族に話したら、「死んでからも尚、体が切り刻まれるのはしのびない」と言われてしまいました。
(カードは持っていますが、まだ議論の対象になっています)
残された家族のことを考えると、わからなくもありません。
でも、そう言う家族も、自身は「提供」の意向を持っているのです。
少し話はそれますが、提供の意思は「保険証」などに明記できるようになったらいいですよね。
いまのままですと、どこに「カード」を貰いに行ったらいいかもわからない、という方も多いです。
保険証と一緒になれば、誰もが考える機会がありますし、いざという時に良いと思うのですが、今後どのようになるのでしょうか。
ご家族・ご親族の意向というのは難しい問題ですね。自分の体の話ではありますが、やはり自分だけで生きている訳ではないという事を痛感します。
ドナーカード、確かにもっと公な形で持つようになっても良いですよね。保険証に付属のアイデアは良いかもしれませんね、これから変わっていく事を期待しましょう。
私は心停止後に腎臓と脾臓を提供することにしています。
どうも眼球はなぁ、というのは同じくです。
脳死判定については、家族が混乱するとアレなので、受けない事としております。
いやまぁ、えぇ、心臓こそが必要なんだろうなぁ、とは思うのですが、私はデブなのと、代々心臓で死んでいるので(^^;
眼球、やはり気になりますか。
提供側としても、どの臓器が提供するに相応しいのか、ジャッジが難しいですよね。そう考えると、自分も肝臓は持病で飲んでいる薬でかなり酷使しています・・・。
http://www.exlog.net/archives/cat14/post_74/
http://blogs.yahoo.co.jp/reforest1962/41912287.html
私としては脳死は人間の死とは認めません。
URLのような例は複数報告されているからです。
私の家族が脳死状態になったとしても希望は捨てません。
したがっていかなる臓器の摘出も拒否します。
逆にいかなる臓器の提供も受けません。
臓器の提供を受けるという事は、相手が脳死であっても受けてしまう事になりますからね。何を以て人間の死とするのかは本当に難しい問題だと思います。
キュプラー・ロスの「死の瞬間」という本が、もう随分古いですがその辺りの問題に通じているように思います。
臓器提供でいいますと、私は死んでしまったら使える臓器は全て提供したいです。
献体としてお役に立てればと思います。
臓器提供とは違うのですが、献体方法で「プラストミック」という方法で作られた「人体解剖標本」というのもあるのですが、こちらは興味はあるのですが献体表明の勇気がまだ出ません。
以前テレビでみて興味を持ちました。
http://www.jintai.co.jp/exhibition.html
http://kamezo.cc/keyword/111362
つまり何年か前には、この世で生きていた人が、医学の向上のためならということで献体登録をされ、プラストミックといわれる、死後樹脂をしみこませるなどの処理をして半永久的に保存できるように処理されて展示されています。
「プラストミック」、初めて聞きました。冷凍保存などと同じ様な事ですかね。樹脂を染み込ませるというのはミイラの造り方と似ているような気がしますが。
将来的な医学の発展を考えると、そういう提供の仕方もあるのですね。想像するとなんだか怖いですが、一度調べてみようと思います。
臓器移植する際には、臓器提供者の脳死判定が前提となる。心停止を待つのではなく、脳の機能停止によって「死」を判断することが重要なのである。このことにより、臓器に重大な欠損が生じる前に取り出すことができる。つまり、「新鮮な」臓器を提供することができるのである。
腎臓、角膜、膵臓などは心停止後も臓器提供できるらしいが。
先日の臓器提供の際も脳死判定の方法が詳しく報道されていた。心停止という、今までの死の判定方法から「脳死」という新しい方法に移行するのであるから、注目を集めるのも当然だと思う。
幸か不幸か、私は人の死の瞬間に立ち会ったことは無いが、目の前で機械の助けを借りながらも呼吸をしていて、脈もある人が「死んでいる」と言われても実感できないであろうことは想像できる。その人が自分に近しい人ならばなおさらである。理性よりも感情が納得出来ないのでは無いだろうか。それ故に、脳死が「人の死」と認識させることを強制してはいけないと思う。
ただし近い将来、脳死が「人の死」だということが常識になったとき、前記したような感情は無くなって行くのだろう。現在は過渡期なため、人の感情がついて来ていないのだと思う。
もし、自分自身が脳死と判定されたと想像すると・・・私ならば「意識はもう戻らないのだから、どうにでもしてくれ」という感想しか抱かない。脳が破壊されてしまった瞬間に「私」という存在が消えると思っているので、そのあとはどうでも良いのである。
何年か前、祖母が亡くなった時に立ち会ったのですが、人工心肺で呼吸をしている状態で、正直な所このまま生きているのか解らない状態でベッドに横たわっているのなら、いっそ機械を停止させてもらった方が本人も楽なのかな、と思いました。それを決める権限は私にはありませんでしたが。
こちらの質問を拝見して、初めて
「眼球(角膜移植の為)だけはどうしても提供したくない」という意見
があることを知りました。
私自身は、脳死判定というものを信頼していないので
その場合の臓器提供は一切するつもりがありませんが、
心停止後の臓器提供はすべて可、と意思表示カードには記してあります。
それで誰かの役にたつことができ、喜ぶ人がひとりでもいるのであれば
死んだ後の臓器を使ってもらっても別に構わないからな、と思っているからです。
遺体に手を加えられ、最後のお別れができないこと自体は
どの臓器でもあまり変わらないかな、と思っているからです。
ただ、残された家族がどう思うかは別の話なので、
配偶者・子供ができた後には変更をする可能性はあります。
「脳死」と「心停止」にまつわる「死とはなんなのか」という問題が、臓器移植にはついて回るのだなと、皆さんの回答を拝見していて感じます。
正直自分は「何を提供したくて、何を提供したくないのか」という考え方にどれほど違いがあるのかに重点を置いていたので、「そもそも提供する段階とはいつなのか」という所に着眼出来ませんでした。難しい問題ですね。
僕の場合は、視力2.0でこれは使えるんなら勿体無いなと思うので別に構いません。内蔵も概ね健康なのでやはり勿体無いとは思います。
なので自分の中身の提供は「僕は」全然構わないと思ってます。
ですが家族が嫌だと思ったらそっちの気持を優先して欲しいですね。
見ず知らずの他人を救うよりも、身近な人に嫌な思いをさせたくない思いの方が優先します。
やはりご家族の意向は無視出来ませんね。
ちょっと気になったのですが、視力2.0の眼球を角膜移植に使った場合と、例えば視力0.1以下(自分の左目です)を角膜移植につかった場合、勿論相性などもあるのでしょうが、成功した場合は概ねどのような結果になるのでしょうかね。やはり視力の高い眼球の方が、移植後高い視力を出し得るのでしょうか。
回答ありがとうございます。そのような考え方もあるのですね、参考になります。