もうだいぶ過去の話になりますが、とあるワークショップに友人と参加したことがあります。
日常生活における習慣などから身体と心が硬直しているのをほぐすという内容のそのワークショップはある夏の日、山の中腹にある宿泊施設を借りて開催されたものでした。
当時、私はどう表現してよいのか、どことなく違和感を覚えている毎日だったのですが、踊りをやっている友人が身体関係のワークショップに詳しく、そこを案内してくれたので参加してみることにしたのでした。
1泊2日の予定で行なわれたその中身は、知らない人とペアになって身体をゆるめる体操を行なったり、歌を歌ったり、詩を朗読したりと、ちょっとした演劇ワークショップにも似たものでしたが、主眼になったのはひとが自分として生きぬいていくため、普段使わないような体の動きや感情の表現を試みることなのです。
ワークショップの講師は現在はもう亡くなりましたが、その方面ではかなり有名な方で、ほのぼのとした雰囲気というよりはなにかの稽古のような厳しさがあって、友人とこれはなかなか怖いな、と休み時間にちらっと会話を交わしたりしたことを覚えてます。
そのようなワークショップの中で特に印象に残ったことがあります。
それまでプログラムは室内でずっと行なわれておりましたが、天気があまりにも良い事と、それからこれは推測ですが、プログラム自体にどこか講師が煮詰まったものを感じたのではないか、ということで、外に出ることになりました。
そこで行われたのは、『ブラインド・ウォーク』というもの。
2人一組になって、一人が目をつぶって盲目になり、もう一人がその人の手を引いて敷地のあちらこちらを案内するという内容です。
大抵は知らない人と組むのがワークショップの一般的な姿ではありますが、そのときはどういうわけか友人とペアになりました。
まずは友人が目をつぶり、私が案内人として歩きます。
その取った手の華奢なこと。
友人とはそのとき10年来の付き合いになってましたが、こうやって意識して手をとるのは初めてのように思います。子どもでもないし、普段はそれほど手を繋ぐ機会というものはないものです。
どこをどう案内したか、とにかく友人はいま私の先導で歩いていること、私を信頼していること、こういったことが頭を駆け巡ってそこはほとんど覚えていません。知らない人とだったらそこまで考えたかどうか。
次に、役割を交代して私が目をつぶって歩くほうになります。
やわらかく私の手を取った友人は、他のペアのところへ近づいていって、私の手を、そのほかの人たちの肩や腕のほうへ先導してゆきました。
目をつぶって触れる人の体はどれもこれも温かくて優しい。
終了してからいたずらっぽく笑う友人がいうには
「ほら、あまり人に触れたがらないから、こういうときにちょっと触ってみたらどうかな、と思って」
そうです。私はいろんな意味で人と触れるのが苦手で友人はその反対。
きっと普段から歯がゆく思ってたんだろうなあ、と考えたらちょっとだけ可笑しくなりました。
もし、同じことを目を開けて行なっていたら、果たして私は人のぬくもりを感じ取ることができたかどうかわかりません。
目を閉じて、友人に先導をまかせることは自分自身の頑なさを放棄することでもあります。
ブラインドウォークの後のプログラムでは人に変な風に思われないようにとかいう意識をゆるめることができ、ワークショップに集中することができるようになりました。
その後もやっぱり厳しくて、ブラインド・ウォークだけが今考えると息抜きになってたような気がしますが、講師の気迫に接することができたことと、友人と非日常で過ごしたことは印象深い思い出として残っています。
もうだいぶ過去の話になりますが、とあるワークショップに友人と参加したことがあります。
日常生活における習慣などから身体と心が硬直しているのをほぐすという内容のそのワークショップはある夏の日、山の中腹にある宿泊施設を借りて開催されたものでした。
当時、私はどう表現してよいのか、どことなく違和感を覚えている毎日だったのですが、踊りをやっている友人が身体関係のワークショップに詳しく、そこを案内してくれたので参加してみることにしたのでした。
1泊2日の予定で行なわれたその中身は、知らない人とペアになって身体をゆるめる体操を行なったり、歌を歌ったり、詩を朗読したりと、ちょっとした演劇ワークショップにも似たものでしたが、主眼になったのはひとが自分として生きぬいていくため、普段使わないような体の動きや感情の表現を試みることなのです。
ワークショップの講師は現在はもう亡くなりましたが、その方面ではかなり有名な方で、ほのぼのとした雰囲気というよりはなにかの稽古のような厳しさがあって、友人とこれはなかなか怖いな、と休み時間にちらっと会話を交わしたりしたことを覚えてます。
そのようなワークショップの中で特に印象に残ったことがあります。
それまでプログラムは室内でずっと行なわれておりましたが、天気があまりにも良い事と、それからこれは推測ですが、プログラム自体にどこか講師が煮詰まったものを感じたのではないか、ということで、外に出ることになりました。
そこで行われたのは、『ブラインド・ウォーク』というもの。
2人一組になって、一人が目をつぶって盲目になり、もう一人がその人の手を引いて敷地のあちらこちらを案内するという内容です。
大抵は知らない人と組むのがワークショップの一般的な姿ではありますが、そのときはどういうわけか友人とペアになりました。
まずは友人が目をつぶり、私が案内人として歩きます。
その取った手の華奢なこと。
友人とはそのとき10年来の付き合いになってましたが、こうやって意識して手をとるのは初めてのように思います。子どもでもないし、普段はそれほど手を繋ぐ機会というものはないものです。
どこをどう案内したか、とにかく友人はいま私の先導で歩いていること、私を信頼していること、こういったことが頭を駆け巡ってそこはほとんど覚えていません。知らない人とだったらそこまで考えたかどうか。
次に、役割を交代して私が目をつぶって歩くほうになります。
やわらかく私の手を取った友人は、他のペアのところへ近づいていって、私の手を、そのほかの人たちの肩や腕のほうへ先導してゆきました。
目をつぶって触れる人の体はどれもこれも温かくて優しい。
終了してからいたずらっぽく笑う友人がいうには
「ほら、あまり人に触れたがらないから、こういうときにちょっと触ってみたらどうかな、と思って」
そうです。私はいろんな意味で人と触れるのが苦手で友人はその反対。
きっと普段から歯がゆく思ってたんだろうなあ、と考えたらちょっとだけ可笑しくなりました。
もし、同じことを目を開けて行なっていたら、果たして私は人のぬくもりを感じ取ることができたかどうかわかりません。
目を閉じて、友人に先導をまかせることは自分自身の頑なさを放棄することでもあります。
ブラインドウォークの後のプログラムでは人に変な風に思われないようにとかいう意識をゆるめることができ、ワークショップに集中することができるようになりました。
その後もやっぱり厳しくて、ブラインド・ウォークだけが今考えると息抜きになってたような気がしますが、講師の気迫に接することができたことと、友人と非日常で過ごしたことは印象深い思い出として残っています。