亡くなった日は、天明6年8月25日が定説になっていますが、
「徳川実紀」には9月8日となっています。
亡くなっても直ぐに発表しないなどの慣習があるのかもしれませんが、
8月24日でもなく26日でもなく、25日だという根拠となる書物があるのでしょうか?
教えて下さい。
喪で終わる熟語 ~ 発喪・服喪・阻喪・沮喪・宮中喪・国喪 ~
── 1. はっ‐そう【発喪】喪を発表すること。はつも。 2.はつ‐も
【発喪】喪を発すること。その人の死を人々に知らせること。はっそう。
── 大辞泉(JapanKnowledge)
徳川 家治 江戸幕府将軍10 17370620 江戸 17860917 49 /元文 2.0522~天明 6.0825
── 世嗣家基に先立たれるなど不幸が続き、反田沼派の策謀でその死
も直ちに公表されず、田沼失脚後、9月8日に発喪された。葬地は寛永
寺。浚明院と諡された。(参)「浚明院殿御実紀附録」(『徳川実紀』
10編)(松尾美恵子)
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4023400521
── 《朝日日本歴史人物事典 19941130 朝日新聞社》P1140
── 天明6年(1786年)8月25日に死去。享年50。死因は脚気衝心
(脚気による心不全)と推定されている。
高貴な人の死は1ヶ月ほど秘されるのが通例(発葬されたのは9月8日
・新暦9月29日)だが、その間に反田沼派の策謀により田沼意次が失脚。
また、意次の薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治
が危篤に陥ったため、意次が毒を盛ったのではないかという噂が流れた。
(Wikipedia)
追記 ~ 死亡・退位・発喪の日付について ~
1.下記では、発喪の日付を命日に当てています。
徳川 家治 江戸幕府将軍10 17370620 江戸 17860929 49 /元文 2.0522~天明 6.0908
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4107302105
── 《新潮日本人名辞典 19910305 新潮社》P1192
2.当時の(将軍の)在位期間 [-] は、必ずしも連続していません。
徳川 家重 将軍 9 17120128 江戸 17610713 49 [17451124-17600625] 正徳 1.1221~宝暦11.0612 51
徳川 家治 将軍10 17370620 江戸 17860917-0929 49 [17601010-17860929] 元文 2.0522~天明 6.0825-0908 50
徳川 家斉 将軍11 17731118 江戸 18410227-0322 67 [17870531-18370506] 安永 2.1005~天保12.0107-0130閏 69
http://d.hatena.ne.jp/adlib/00000000 紀元前の日付表記
── 《生没総譜 BC-∞‥‥~AD ∞‥‥ Awa Library》
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A1%D4%C0...
コメント(1件)
追々記
質問の要旨を、いささか早合点してしまいましたね。
いわば政府の公文書である『徳川実紀』の日付があれば、実際の命日
は“非公式情報”なので、これを採用するのは、明治以後の文献です。
したがって、後世の研究者が、当時の伝聞資料や民間情報を探索して、
前後の状況から推測した日付なので、人名辞書の編集者にとって泣き所
ではないでしょうか。
現代でも、ほんとうの死亡日があいまいなケースは山ほどありますが、
戸籍上で抹消されるには、医師の「死亡診断書」または「死体検案書」
が必要です(現在62歳以上の人は「出生証明書」がありません)。
なお、わたし自身のケースでは、戸籍上の誕生日より数ヶ月も前の、
「ツベルクリン種痘証明書」を発見してしまったので、大いに戸惑って
いるところです。