そういったことについてチョムスキーやチョムスキアンが論じたことについて教えてください。
なんでこんな質問をするかというと、チョムスキアンは、シンタックスが文法であることが正面に出すぎている気がするからです。
日本人の常識で文法というと、助詞、助動詞、動詞や形容詞など用言の活用、代名詞といった1~2音節の音韻変化パターンです。
それが意味の変化につながるというのが日本語文法ではないでしょうか。
日本的な常識との乖離が大きすぎて、なんだかついていけないのです。
日本人チョムスキアンで、そういう疑問を述べた発言があれば、ぜひともご紹介ください。
言語能力は人間精神の生得的な特質であり、人間が生物学的に与えられたもので、遺伝的に決定されており、人間という種を特徴付けている。これを普遍文法(Universal Grammar)と定義した。言語獲得を可能としたのは、その生得的に備わっている言語についての知識であり、言語獲得装置とみなすことができる。この装置は、ある一定の質と量を持った個別言語の資料を継続的に与えられると、それに触発されて形式的・意味的特質を備えた分を生成する文法をつくりだす。普遍文法には、すべての規則は構造に依存しなければならないという原理が含まれている。
Chomsky 1975 "Reflections on Language" Panteon Books
チョムスキーの普遍文法についてはNo.1の方の通りですが、もう少し具体的に見て見ましょう。あるところ(Language and Mind、第5章)で、次のように述べています:
「ある言語の文法とは、ある入力信号に対して、(s,I)を出力するものである。
ここでsは信号の音韻表記(phonetic representation)であり、Iはこの信号に
対する意味解釈(semantic interpretation)である」
で、このような文法を信号から意味への変換過程としてとらえ、syntaxという。
そこで、従来文法でいう「語尾の活用」のようなこと(西洋文法でいう
morphology)はというと、syntaxの中に入り込んでいるのです。
たとえば、英語でいうと、 I go to school, He goes to school,
I went to school, He went to school というように、主語の人称や
時制によって動詞の形がかわるわけですが、これを
「名詞+人称+時制+主語属性」+「動詞」として、名詞の人称や時制に
よっては動詞の形がかわることを導きだします。日本語の係り結びみたいに、
みかけじょう離れた単語の語形の関係も導き出せるでしょう。
つまり、学校文法的にいえば、「単語の内部構造をあらわすmorphology」
と「単語の結合関係をあらわすsyntax」とを統一的にあらわす試みを
したわけです。ただ、Chomskyは世界的に普遍をめざしましたが、
英語、フランス語、ロシア語・・・といった印欧語族ではそれなりに
できても、日本語とか中国語とかいった言語をふくんで、本当に
普遍文法が成り立つかという疑問はあります。
なお、他のChomskyに影響を受けた方々がウェルニッケ野といった
ことも含めて研究しているかも知れませんが、そこまでは
私はわかりません。
(http://www.jei.or.jp/libro/lingvo_kaj_menso.htm:
私が今参照しているチョムスキーの訳本(エスペラント訳)です)
sibayunさん
ありがとうございます
とくに意味論がひっかかります。
意味を伝えない、意味を内包しないのが、記号だという記号論と
チョムスキーは相容れないのでしょうか。
学校で習う文法と、生成文法の指示する領域が違うというのも
気になります。
さらに、概念というもの、つまり脳内の各種記憶と、文法の関係
も明らかにしてほしいです。
今のところ、それらについては不問なのでしょうか
広い意味での文法とは、統語論、音韻論、意味論を含めたものだと思います。
Grammatical Errorというのは、統語論や意味論上の誤りを含んでいるでしょうか
つまり、言語能力=普遍文法ということですね。
すると、文法とは、構文(シンタックス)、概念(コンセプト)、音韻変化による意味付加、などなど、およそ言語能力に関することは全部「普遍文法」と呼びましょうということですね。
ようするに文法=言語能力ということですね。
じゃあ、語尾の活用とか、代名詞とか、係り結びとか、そういう狭い意味での文法は、何と呼ぶのでしょうか。
文法の中の文法みたいな言い方はありませんでしょうか
あと、ウェルニッケ野は他の霊長類でも発達しているそうですが、
その音声コミュニケーション能力については、
擬似文法とか、擬似生成文法とかいいませんか