こちらはご参考になりますでしょうか。
単純にいうと、
「わたしは思考する。だから、わたしが存在する」
ということですね。
つまり、
「わたしは思考する。だから、わたしが存在する。(だから、ほかのものも存在するといえる)」
「わたしは、ほかのものが本当に存在するのか、などと疑い思考するが、
そのように疑い思考するわたしが存在することは、疑えない。
(だから、ほかのものも確実に存在するということができる)」
我思う,故に我あり【われおもう,ゆえにわれあり】
ラテン語〈コギト・エルゴ・スムCogito,ergo sum.〉の訳。デカルトが方法的懐疑の末に到達した哲学の根本原理。あらゆるものは疑えるとしても,かく疑い考える我の存在は疑えない。
http://kotobank.jp/word/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86,%E6%95%85%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A
コギト-エルゴスム 6 [(ラテン) cogito, ergo sum]
〔哲〕「我思う、故に我あり」の意。デカルトが一切のものを懐疑した末に至った第一の真理。一般に知識と呼ばれているものを疑っても、疑い考える我が存在することは疑いえず、意識する自我の明晰・判明な確実性がすべての認識の確実性の始点となるとした。
疑わしきは排除するという方法的懐疑という手法で、いろいろなものを排除していったところ、今現在そのように疑っているという思考だけは排除できなかった。だからその思考をしている自分だけは確かに存在する、という話しです。
↓詳しくはこちらに。
我思う、ゆえに我あり
方法的懐疑
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1112316656
こちらはご参考になりますでしょうか。
単純にいうと、
「わたしは思考する。だから、わたしが存在する」
ということですね。
つまり、
「わたしは思考する。だから、わたしが存在する。(だから、ほかのものも存在するといえる)」
「わたしは、ほかのものが本当に存在するのか、などと疑い思考するが、
そのように疑い思考するわたしが存在することは、疑えない。
(だから、ほかのものも確実に存在するということができる)」
我思う,故に我あり【われおもう,ゆえにわれあり】
ラテン語〈コギト・エルゴ・スムCogito,ergo sum.〉の訳。デカルトが方法的懐疑の末に到達した哲学の根本原理。あらゆるものは疑えるとしても,かく疑い考える我の存在は疑えない。
http://kotobank.jp/word/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86,%E6%95%85%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A
コギト-エルゴスム 6 [(ラテン) cogito, ergo sum]
〔哲〕「我思う、故に我あり」の意。デカルトが一切のものを懐疑した末に至った第一の真理。一般に知識と呼ばれているものを疑っても、疑い考える我が存在することは疑いえず、意識する自我の明晰・判明な確実性がすべての認識の確実性の始点となるとした。
皆様回答ありがとうございます。
わかりやすかったです!
「我が持てる主観(理性)によって証明できるのは、我という観念し続ける存在だけ」
夢か幻かなど、我が存在する世界を理性によって疑い続けることは普遍的に可能。
私以外の存在は証明できないので、神の存在についても証明はできない、というもの。
似非科学 VS 懐疑批判 が終わらない所以
皆様回答ありがとうございます。
わかりやすかったです!