1. 東京-京都間を標準的には何日間程度の行程で進んでいたのでしょうか?
2. 宿場は53あっても53泊もしたわけではないと思うのですが、実際に宿泊するのはどのあたりの宿場が多かったのでしょうか?
3. 実際の旅程には必ずしも必要とは思われないのに、なぜ、あんなに短い間隔でたくさんの宿場が整備されたのでしょうか?
一番、知りたいのは3番目の回答です。3の話に付随して1,2の話にも触れることになるのではなかろうか、とは思うのですが、1,2の質問についてははっきりした回答はなくても構いません。
1. 東京-京都間を標準的には何日間程度の行程で進んでいたのでしょうか?
13~15日間くらいの旅路だったようです。
Q7 飛脚は東海道を何日くらいかかったの?
A7 江戸から京都までは約492km、普通、歩くと2週間ほどかかりますが、飛脚はわずか3~4日で走ったのです。
飛脚は東海道を何日くらいかかったの?
2. 宿場は53あっても53泊もしたわけではないと思うのですが、実際に宿泊するのはどのあたりの宿場が多かったのでしょうか?
十返舎一九の東海道中膝栗毛で泊まった宿場は、当時も良く使われた宿場なのではないかと思います。
(1日目)・戸塚宿の旅籠に泊まる。
「東海道中膝栗毛」の旅
(2日目)・小田原宿の旅籠に泊まり、北八が五右衛門風呂の底を踏み抜く。
(3日目)・三島宿の旅籠鶴屋に泊まり、夜すっぽんに食いつかれる。
(4日目)・蒲原宿の木賃宿へ泊まり、夜這いに失敗する。
(5日目)・府中宿の旅籠よね屋へ泊まり、金策に成功する。
(6日目)・岡部宿の旅籠相良屋へ泊まる。
(7日目)・日坂宿の旅籠へ泊まり、巫女と一悶着ある。
(8日目)・浜松宿の旅籠に泊まり、幽霊騒ぎにあう。
(9日目)・赤坂宿の旅籠に泊まる。
(10日目)・宮宿の旅籠鍵屋に泊まる。
(11日目)・四日市宿の旅籠に泊まり、石地蔵を抱いて寝る。
お伊勢参りに行っちゃうので、12日目からは伊勢街道の方にそれていっちゃいますが。
3. 実際の旅程には必ずしも必要とは思われないのに、なぜ、あんなに短い間隔でたくさんの宿場が整備されたのでしょうか?
他にも理由はあったのかもしれませんが、華厳経の説話に基づいて決めたと言われています。
「53の宿場」は「華厳経」の教えから―
53という宿場数は、「東海道」という旅の幹線道路が誕生した所以にあります。
東海道五十三次セットの詳細―東海道五十三次.COM
東海道五十三次ができたのは、「徳川家康が江戸・京都間の人の往来を盛んにし、その拠点となる宿場町の繁栄をはかろうとした」ということは事実です。
その際に、家康公は「華厳経」の中にある「善財童子が53人の人と出会う旅を経て菩薩になった」という説話に従って、この街道の宿場の数を決めました。
東海道の成り立ちは、仏教と深い関係があったのです。
*華厳経は華厳宗の法典。華厳宗は日本仏教の13の宗派の一つで、東大寺が本山です。
*出典:『新佛教辞典』(中村元監修/誠信書房)、『さとりへの遍歴(上・下)』(華厳経入法界/中央公論社)
1. 東京-京都間を標準的には何日間程度の行程で進んでいたのでしょうか?
13~15日間くらいの旅路だったようです。
Q7 飛脚は東海道を何日くらいかかったの?
A7 江戸から京都までは約492km、普通、歩くと2週間ほどかかりますが、飛脚はわずか3~4日で走ったのです。
飛脚は東海道を何日くらいかかったの?
2. 宿場は53あっても53泊もしたわけではないと思うのですが、実際に宿泊するのはどのあたりの宿場が多かったのでしょうか?
十返舎一九の東海道中膝栗毛で泊まった宿場は、当時も良く使われた宿場なのではないかと思います。
(1日目)・戸塚宿の旅籠に泊まる。
「東海道中膝栗毛」の旅
(2日目)・小田原宿の旅籠に泊まり、北八が五右衛門風呂の底を踏み抜く。
(3日目)・三島宿の旅籠鶴屋に泊まり、夜すっぽんに食いつかれる。
(4日目)・蒲原宿の木賃宿へ泊まり、夜這いに失敗する。
(5日目)・府中宿の旅籠よね屋へ泊まり、金策に成功する。
(6日目)・岡部宿の旅籠相良屋へ泊まる。
(7日目)・日坂宿の旅籠へ泊まり、巫女と一悶着ある。
(8日目)・浜松宿の旅籠に泊まり、幽霊騒ぎにあう。
(9日目)・赤坂宿の旅籠に泊まる。
(10日目)・宮宿の旅籠鍵屋に泊まる。
(11日目)・四日市宿の旅籠に泊まり、石地蔵を抱いて寝る。
お伊勢参りに行っちゃうので、12日目からは伊勢街道の方にそれていっちゃいますが。
3. 実際の旅程には必ずしも必要とは思われないのに、なぜ、あんなに短い間隔でたくさんの宿場が整備されたのでしょうか?
他にも理由はあったのかもしれませんが、華厳経の説話に基づいて決めたと言われています。
「53の宿場」は「華厳経」の教えから―
53という宿場数は、「東海道」という旅の幹線道路が誕生した所以にあります。
東海道五十三次セットの詳細―東海道五十三次.COM
東海道五十三次ができたのは、「徳川家康が江戸・京都間の人の往来を盛んにし、その拠点となる宿場町の繁栄をはかろうとした」ということは事実です。
その際に、家康公は「華厳経」の中にある「善財童子が53人の人と出会う旅を経て菩薩になった」という説話に従って、この街道の宿場の数を決めました。
東海道の成り立ちは、仏教と深い関係があったのです。
*華厳経は華厳宗の法典。華厳宗は日本仏教の13の宗派の一つで、東大寺が本山です。
*出典:『新佛教辞典』(中村元監修/誠信書房)、『さとりへの遍歴(上・下)』(華厳経入法界/中央公論社)
宿場の数の由来に関しては、53以外の数字でも適当な由来を持ってくることはできたようにも思うので、むしろいかにも後付けっぽい感じがいろいろと想像を膨らませて面白いですね。全項目に対して素晴らしい回答をありがとうございました。
3の問いに
江戸を立って初日。
早朝に日本橋を出発して、夏なら陽が落ちるまでに戸塚に着くのはそれほど困難ではない。
しかし、冬の日が短いとき、出立が遅くなったとき、品川でうろうろしたり、玉川で手間取ったりすると、戸塚までたどり着けない。足腰の弱い女子供老人なども同様。天候が悪化して進めないこともある。
そんな時は、保土ヶ谷とか神奈川で足止め。
初日が狂えば、二日目に小田原にたどり着けないから、平塚。
五十三次は、旅程に合わせて調節可能にするため、というのもあります。
急行乗ればいいやとか、夜になっても頑張るとか、できないですから。
ありがとうございます。標準で14箇所程度あれば良いところに余裕を持たせてその半分の進み具合でもOK、としても28となるわけですから、53というのはいかにも冗長に感じるのは現代人の感覚なのでしょうか。
宿場町との間で何かあっても(体調不良とか、盗賊に合うとか)、どちらかの宿に一里(半時)でたどりつければなんとかなる。はたご以外に夜を過ごす場所がありません。明かりもまったくありません。街道を暮れ時以降に歩くのは、危険極まりないのです。二里から三里の間隔で宿場町がないと、港にたどり着けない船のようになってしまうのです。
3だけに大人の回答をします。
歴史秘話ヒストリアで吉原を最近扱ったのをご覧になられましたか?遊女を抱くまでに初回、裏を返してって何日もの期間と、相当なお金が必要です。
庶民にはそんな暇もお金もありません。そういった人々は宿場に泊まって女性を買いました。
江戸四宿という言葉があります。江戸に住む庶民が板橋、千住、新宿、品川5街道の一番目の宿場に飯盛り女と呼ばれた女性を求めて歩いて行ったものです。
かの高野長英ですら品川でよく遊んだと言われています。
幕府は売春を禁止まではしませんでしたが、現実にそこで売春が行われていることは知っていました。そこで飯盛女の人数だけを制限しました。
そのため、宿場町だけが増えていった感があります。過去に綱島に住んでいたことがあります。綱島と聞いただけで祖母が嫌な顔をしたんですね。何故なら昔は神奈川宿と保土ヶ谷宿の間で溢れた客を受け入れる安女郎の街でしたからね。
53次の間にはそんな街もありました。
忘れてた。
歴史秘話ヒストリア「花魁の真実!江戸・吉原遊郭の光と影」をご覧になっていないなら、こちらからどうぞ。
http://static.youku.com/v1.0.0388/v/swf/loader.swf?VideoIDS=XNjQwNzc0ODg0&embedid=MTAxLjE0MC4xNzUuMTYCMTYwMTkzNzIxAnZhcmFkb2dhLmJsb2cxMzYuZmMyLmNvbQIvYmxvZy1lbnRyeS0zNDIyNi5odG1s&wd=&vext=pid%3D%26emb%3DMTAxLjE0MC4xNzUuMTYCMTYwMTkzNzIxAnZhcmFkb2dhLmJsb2cxMzYuZmMyLmNvbQIvYmxvZy1lbnRyeS0zNDIyNi5odG1s%26bc%3D%26type%3D0
またまた忘れてた。
youkuだから、chromeにUnblock youkuの機能拡張してね。
宿場の数の由来に関しては、53以外の数字でも適当な由来を持ってくることはできたようにも思うので、むしろいかにも後付けっぽい感じがいろいろと想像を膨らませて面白いですね。全項目に対して素晴らしい回答をありがとうございました。
2013/12/14 21:45:25