匿名質問者

織田信雄の「三介どの」という通称はどこから来たのですか、三河介に任官した(称した)わけではないと思いますが。また、これは、他人(織田家の家臣)からの敬称なのでしょうか。

なお、織田信孝が、「三七どの」というのは一体どういう意味合いだったのでしょうか。

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  • 終了:2014/01/17 22:35:04

回答1件)

匿名回答1号 No.1

どちらも幼名ですね。

織田信雄:

元亀二年(1571)舟江城にて元服、北畠具教の四女雪姫(千代御前)と婚礼。
北畠具教の嗣子として北畠三介具豊と名乗る。

http://www.gokuh.jp/ghp/matsuei/ko_02.htm

織田信孝:

幼名は三七(3月7日生まれだったためとも)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AD%9D

匿名質問者

どうもありがとうございました。
信孝の三七は、3月7日生まれということなら、あぁそうか、と思いました。
三介は、どうしてこのような幼名を付けたのか、北畠家でよく使う幼名だったのだろうか、
と想像しましたが、いかがでしょう。
 (徳川家の「竹千代」みたいな)

なお、信忠長男の三法師も含め、「三・・・」が多いなと感じました。

2014/01/12 11:28:48
匿名回答1号

北畠家でよく使う幼名だったというわけではないですね。
信孝が先に生まれていて実は三男なので、という説もあるようです。
単に信長の気まぐれなのかもしれません。

2014/01/17 09:20:49

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