音楽を表現するということです。
楽譜には音程やテンポ、強弱の指定はありますが、記譜された作曲家の想いを音楽という実体に表現して観客に伝えるのが演奏家の役割です。
また、ブラバンやフルオケの場合、観客に演じるまでに指揮者が一定レベルの表現力を求めるので、その水準に満たなければトラを呼ぶことになります。
クラシックなどは楽譜に込められたメッセージを再現することで幸福感を得ているんだと思いますよ。
古い絵画を鑑賞するのに似ていると個人的には思っています。
過去に作られた作品を演奏、鑑賞することを目的に楽譜は存在しています。
その再現方法には演奏家によって個性が出ますがそれが芸術の表現だと思います。
コメントありがとうございます。
楽譜を見るだけで、楽譜にこめられたメッセージを再現することが出来ますか?楽譜の情報量が少ないものは難しい気もします。
>過去に作られた作品を演奏、鑑賞する
kanonk さんにとって楽譜を鑑賞するとはなんでしょう?
確かに、録音がない時代は、楽譜は重要でした。矛盾してるかもれませんが、録音された音源が聞ける現在楽譜はどれくらい重要でしょうか?
楽譜の情報量が少ないからこそそこに想像力が働き楽しめるのだと思います。
例えば、小説とテレビににてるかも。
活字で少女が一人立っていると書かれていると、読み手によって年齢、髪の長さ、顔、服装などなど想像させられます。
しかし、テレビで少女がたっていると全て確定されてしまいます。
その想像力を楽しむ事が出来るのも楽譜のいいところでしょうね。
録音物の音源ではできませんから。
楽譜を演奏するということは、文学を声に出して読むことに近いと思います。目で読んだだけでは読み手ひとりの脳内の世界ですが、声に出すことによって他者とその世界を共有することが出来ます。
奏者は、「その人」でなければならないということはないと思います。楽譜には誰それに弾いて欲しいという指定はありませんし、もし有ったとしても何十年か経れば意味がなくなるでしょう。
一方、聴き手にとっては、「その人」でなければならないこともあります。それは、物語の朗読を聴くのに似ています。市原悦子がいいのか、美輪明宏がいいのか、所ジョージがいいのか。読まれる物語は一字一句同じでも、生み出される音世界は違ってきますよね。
後もう一つ、久石譲や坂本龍一が自分の曲を演奏するのと、(アマチュアを含めた)ピアノ弾きが彼らの曲の演奏をするのと何が違うのでしょうか?
私自身は聴き手として、その人でなければならないとはほとんど思ったことが無いです。この人はこの曲をどう聴かせてくれるかな?という姿勢で聴くことがほとんどですから。ただ、あの人のは聴きたくないな、ということは有ります。単純にヘタだったり、光るものがなかったり、心が感じられなかったりなどが理由ですが、例えばガーシュインの曲ならアメリカの、それもシカゴやニューヨークのオケがいいです。北京のオケではどんな風になるのがなって興味は有りますが、そういうのは純粋な音楽の楽しみではないように思います。
2つ目のご質問ですけど、人はみな違います。専門家と趣味の人、または、作者本人と他人の違いも含め、人はみな違いますから表現されるものも全て違います。たとえ作曲者本人でも、昨日の久石と明日の久石は違います。生身の人の演奏というものはそういうものです。
また、オーケストラなどの大編成の音楽を作曲者自身が一人で全部演奏することは、打ち込みでない限り不可能です。かならず他人の手に委ねることになります。その設計図が楽譜ですね。
朗読の喩えで言いますと、その言語にあまり精通してない人や、滑舌の悪い人、イタい芝居を交えてきて気持ち悪い人、心ここにないような人など、聞くに堪えない朗読もあるでしょう。そこまで極端ではなくても、物語の内容にしっくり来る声や表現というのがあるでしょう。老若男女の四種類でも違うのは明らかですね。では創った本人が読むのが一番良いかというと、そうとは限らないでしょうね。
「道具や譜面に命を吹き込むってことじゃないでしょうか。」
=
わたしもボカロやシンセの話かとおもってたら、
コメントでトラというワードがでたので。
ヘタの横好きへのプロの手伝いをどこまで許すかということかな。
ヘタでも、いいぐあいのヘタレベルの人が
ちょうどよくあつまるとパワフルな演奏ってことになったりするけど、
一人だけ上手かったり一人だけヘタだったりするとまとまりがなくなって
一緒にやらないほうがお互いにとってマシだってなったりするとおもう。
そういう「音楽性の違い」で解散するバンドも多いですよね。
一人だけ上手い人に余裕があればヘタな人を生かした演奏もしてあげられるし、
それがそこそこ観客からみて面白い場合もあるでしょうが、
それは上手い人にとっては「手助け」「人だすけ」にすぎないので、
手応えも少ないし自分のやりたい練習でもない。
お互いを好きで、お互いの情熱をうまく伸ばせる
(そのときに自分には「客観的には負担が大きい」ことでも負担に感じない)
ようでないと手助けはうまくいかないですよ。
突出して上手い人は上手い自分でいるだけでもいろんなコスト(心理的、時間的、経済的)が必要なので
上手い人に報いる手段として「謝金」が使えるだけでも貨幣経済はまだ便利なほうだ。
ただ技術を蓄えた上手い人は若い人の盲目的な情熱とかがすごく好きなこともある。
そういうエネルギーに道筋をつけるのは自分にとっては苦にならないという
ちょっと変わったタイプの表現者もたまにはいる。
お金にできない報酬として、「エネルギーをもらった」という月並みだがなかなか意味深い表現がある。
社交辞令でなくエネルギーを与えられたのなら誇って良い。
そういう意思はお互いに尊重すればいいとおもう。
って言いたいこと通じるといいなあ。
もう少し深く考えていきたいです。演奏によって道具や譜面に命を吹き込むことがなぜできるのでしょう?
一期一会というのもあるでしょう。
時間は戻らない。だから今の一瞬を大切にしよう、ということがあります。
音楽とは日常から切り取られた時間です。生演奏を至上とする考えは諸手を挙げて賛成できるものではないかもしれませんが、演奏しているその瞬間が大事というのはひとつの重要な要素かと。
大前提として、「あの演奏と同じ(全く同じではないにしろ)音が手軽に出せる」というのは譜面の最大の利点です。
例えば「スターウォーズが演奏したい!」っていう欲求に対して、譜面がなかったらすげー困ります(特にアマチュアは)。
まあそれはそれとして、
趣味で譜面書いたりもするのですが、譜面が音楽そのものを正確に表す事はありません。
作曲家の中に、ある音があったとして、それが譜面として出力される時点で、譜面は譜面としての意味を持ちます。
例えば、それは小説家や漫画家が自分の頭のなかの情景を小説で書き表したとしても、読者が小説家の描いた情景を100%知ることはないのと同じです。
演奏者は譜面を手がかりに音楽を作り上げます。譜面に書かれているのはアバウトな音の高さ・テンポ・音色・ニュアンスなどです。ここから、どのような音楽を作るか、そもそもその譜面から演奏者にとって価値のある音楽を作る事は可能なのか・・・・・・どのような作家の影響下にその譜面は書かれたのか・・・・・・今までその譜面からどのような音楽が作り上げられてきたのか・・・・・・むしろ譜面というアバウトな制約があることで、「演奏者の音楽観」を表現することが可能になるわけです。
要は、譜面のある音楽の演奏というのは、全て「カバー」だといってもいいでしょう。「カバーアルバムを出すことに何の意味がありますか?」と尋ねるひとはあんまりいないでしょう(「原曲の完コピすぎてつまんない」とかそういうツッコミはありえるにしても)。
朗読なんかも近いでしょうね。小説の受け取り方は人それぞれですが、だからこそ個人の解釈が表現たり得る。
譜面を使わない音楽でも、「リミックス」とか「カットアップ」であるとか解釈を巡る伝言ゲームの例は枚挙に暇がありません。
結局のところ、譜面てのは音楽というアバウトな伝言ゲームのローカルルールの一つってことです。
もちろん、いくら解釈ゆーても、グレーゾーンを越えた「明らかにダメな演奏」ってのはありえますけども。
トラについては、やりたい音楽表現のために、その譜面が演奏できるに足る奏者(技量的な意味か、人数的な意味かは曲によります)が必要だから、でしょう。そこはその団体さんの考え方による、としかいえないでしょうね。
楽譜を演奏するというのはその楽譜に記された音楽を表現する事だと思います。
その楽譜を演奏する人がその人でなくてはいけないという理由はないと思います。
ピアノにしろオーケストラの曲にしろ作曲者さんが生きていることはほぼありませんし、今となっては演奏したい人が演奏するのが良いのではないでしょうか?楽譜には単に音だけではなく強弱の付けかたなどが記入されている物がありますので、それらにおいてはやはりその指示に従って演奏した方がメリハリが出たりテンポよく聞こえたりしますし、それが嫌だ、だけどその曲は好きだというのであれば自分でアレンジを加えればいいだけの事です。コンクールなどにおいても100人いれば100通りの表現方法がありその違いを楽しむためにも元となる楽譜が必要なのではないでしょうか?自分はピアノで自分なりに思うように弾いても先生とはどうも理解の違いがあるようでいつも怒られてしまいますが^^;
誰でもその曲を演奏できるようにするために楽譜が存在していて、それを表現したいという行為が演奏するという行為なのではないでしょうかと私は思います。
「あるモノ」を見て聴いて読んで「こう思った」というのと同じです。
楽譜が読める者にとって、楽譜は確固たる「像」として捉えることができます。
その「像」を見て、私は「こう思った」を音で表現しているだけです。
プロは「こう思った」を数十パターン考えてみて、一番しっくりするものを本番で採用します。
カラオケなどでも、同じ曲でも人によって自然に違う歌い方をしますし、聞こえ方もすると思います。
それは解釈であり、また創作でもあります。
こういうバラエティが面白いのでしょう、音楽は。
別に解釈は、音楽だけでなく、ある一定のレベルに達していれば発生することです。
文学、哲学、数学、プログラミング、人との関わり方、コメディ、何にだって起こりえます。
小説やライトノベルを映像化するとき、
表現する人によって、キャラクターや演出が異なってきます。
そこに常に「新しさ」があるのではないでしょうか。
アマチュアオーケストラのコントラバス奏者を30年ほどやっています。
リーダー(コンサートマスター兼オーナー)の方針で、現代作曲家の曲を演奏することも多く、作曲家に依頼した曲の世界初演も何度も演奏しました。
実際の所、作曲者は楽譜(オーケストラスコア)を書くところまでが仕事で、そこからパート譜を作り、演奏するのはリブラリアン(譜面清書、管理者)とプレイヤー、指揮者の仕事です。そして、その演奏を聞く人がいて初めて音楽という芸術が完結します。
今までお付き合いした作曲家の方の中には、コンクールで何度も優勝して高い評価を受けている方にもかかわらず、「オーケストラで演奏してもらったのは初めてだ。」という方もいらっしゃいました。コンクールではピアノで演奏して評価されていたのでしょうか。
音を記録再生できるようになってまだ100年ほどです。それまで長い間音楽は消えていってしまう芸術でした。その場に居合わせないと体験できない芸術です。絵画や彫刻など、形の残るものは製作者が死んでしまってから何千年もたってから発掘されて評価されることがありますが、音楽は演奏しないと聞くことができないという性格を持った芸術なのです。
西洋音楽の最古の楽譜はグレゴリオ聖歌と言われていて、その楽譜を読めば、現代でも作者の意図したと思われる音楽を再現することができます。しかし、現代の音楽家が再現したグレゴリオ聖歌は500年前に教会に響いていたものと同じでしょうか?聴衆が違いますね。グレゴリオ聖歌が楽譜に記された当時この音楽を聞くことができた人は、現代の音楽環境とは全く違う世界の人々ですから、ハーモニーもない男声だけのお経を神聖な気持ちで聞いていたはずです。
楽譜は音楽の要素をできるだけ作者の意図を記録できるように作られていますが、実際に音楽にするには、必ず演奏者の手を通らなければならないという宿命を帯びています。盲目の演奏家は楽譜を読むことができないので、師匠の演奏を聞いてそれを再現します。もちろん演奏者が変われば表現も変わりますね、耳なし芳一は盲目の琵琶奏者でしたが、その演奏が凄まじく平家の亡霊を呼び寄せてしまいました。かつて楽譜が存在しなかった頃にも音楽はあり、聞伝えで長い長い時間を伝えられてきました。
楽譜自体は音楽を書き留めておく手段であって、音楽ではありません。「楽譜を演奏すること」は、その行為によって作曲者、演奏者、そして聴衆という3つが揃い、初めて芸術としての音楽が成立する唯一の方法なのです。
作曲者の特徴を知り、音楽を味わうということではないでしょうか。
音楽を楽しむこともそうですが、知ることで今後の音楽の勉強に繋げていくということではないでしょうか。音楽の引き出しを作っていく作業になると思います。
自分、作曲、演奏、時に自作自演もします。
作曲のときは、書いた譜面に思いを込める。
演奏のときは、書かれた譜面に込められた思いを表現する。
そんな感じです。
自分にとっての演奏って、譜面にこめられた思いを汲み取って、
自分の解釈を加えるのが演奏って思っています。
吹奏楽のステージに上がることもあるけど、そのときは自分で読み取って、
指揮者の感覚とすり合わせていくことかな。
>楽譜を演奏するというのは、どういう意味があるのでしょう?
音符や記号で表現された曲を音で再現する。音符や記号を音に置き換える。
>その楽譜の演奏者はなぜその人でなくてはいけないのでしょうか?
再現できれば演奏者は誰でも良い。ただ再現性や解釈に揺らぎはある。
言葉通りに回答するとこうなると思うけど、違う方向の回答を求めてるのかな?
質問の背景がわからないので回答がカオスってるような。
質問の趣旨がなぜ楽譜があるか、という事でしたら、音楽を伝えるためという事になります。作曲と演奏とが分業になっている世界では、作曲家が創作した音楽を演奏家に伝えないと音になりません。作曲家と演奏家とが音楽について情報交換する手段として楽譜を使います。
質問の趣旨が楽譜と演奏との関わり、という事でしたら、楽譜には指定しきれていない内容を演奏家の裁量で決めて、楽譜に書いてあるはずの音を完成する、ということになります。楽譜には、たとえば、楽器の名前が書いてあっても、特定の楽器までは指定していません。ピアノと書いてあっても、メーカ名や製品番号まで指定してあることはまずありません(あっても希)。
楽譜を演奏する人が決まっている理由についてですが、作曲と演奏とが分業になっている世界では、楽譜を演奏する人が決まっているということは、普通はないはずです(あっても特例)。演奏により完成度の差が出ることはあっても、誰が演奏してもよいはずです。
演奏者が特定されるのは、作曲と演奏とが分業ではない世界の習慣と思います。例えば明治時代より前の邦楽界では、家元が演奏家の生活を保障して音楽の継承を図ることがありました。このような世界では作曲と演奏とを家元が管理し、演奏は家元の流派に限るということがあったはずです。
書かれた際の時代背景を知るのが良いのでは?
2014/06/22 13:55:55>なぜ記憶された作曲家の思いが分かるようになるのでしょうか?
2014/06/22 14:24:17楽譜を見るだけで音楽をイメージできる観客は少ないので、それを実体(音)として表現することで観客に伝えるのが演奏家の役割です。
もちろん、実体に変換する際に、演奏家が楽譜を「解釈」する行為が入ります。その解釈のやり方が、観客を魅了することもあります。
さらには、譜面に忠実でありながら、最新の録音・映像技術による表現を巧みに利用し、ライブ演奏を知らない顧客層をも取り込んだのがカラヤンでした。カラヤンは楽団員に高い技術力を要求しましたが、その人心掌握術にも長けていました。
プロのオーケストラでトラを呼ぶのは、技術より人数あわせのことが多いです。
地方オケだと楽団員が少ないため、モーツァルトはできてもマーラーは演奏できないということがあります。
また、日本公演と同時期に本国公演をやっている海外オケの場合、来日している多くの団員がトラだったりします。