10代将軍「徳川家治」の嫡男「徳川家基」は将来の11代将軍として期待されていましたが、急死しました。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%9F%BA

もし、徳川家基が急死しなかったら、江戸幕府は実際よりも長く続いていたでしょうか?

皆様の考えをお願いします。

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  • 終了:2015/12/23 16:23:13
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id:meefla No.2

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安永8年(1779年)に徳川家基が一命を取りとめたとします。
毒殺説を取るとその後も狙われて無事に11代将軍になれない可能性があるので、ここでは毒殺ではなかったとしましょう。

天明6年(1786年)に 徳川家治 が死去します。
順当に行けば徳川家基が第11代将軍になるわけで、家基は満年齢で24歳です。
その3年前、天明3年(1783年)に浅間山が噴火するなどして、時代は 天明の大飢饉 のまっただ中です。

田沼意次を批判していたところから、徳川家斉 と同様に田沼意次を罷免する事は間違いないと思われますが、家斉より年長でもあり、周囲の期待に違わぬ名君として指導力を発揮したとします。
松平定信が主導するかどうかはわかりませんが、寛政の改革 もより多くの成果を出していたでしょう。
飢饉で疲弊した地方農村の復興が期待されます。
田沼意次の重商政策に対する重農政策ですね。
また、大御所時代がなくなるわけですから、家斉のように放漫財政に陥る事もなく、幕府の財政は比較的健全なものになっていた可能性があります。

もしかすると家基の嫡男の時代、つまり第12代将軍の時代になっているかもしれませんが、天保4年(1833年)から始まる 天保の大飢饉 でも、被害を最小限に食い止める事ができたとします。
家基の嫡男も家基と同様に名君だったという仮定ですが。
これまた水野忠邦が主導するかどうかわかりませんが、天保の改革 も失敗することなく、幕府の威信もそれなりに保たれていたかもしれません。

約20年後の嘉永6年(1853年)に、ペリーが来航します。
史実ではその15年後、1868年に明治元年になるわけですが、家基が生存していた場合の時間軸では、幕末における佐幕と勤王の勢力図が史実と異なっていたでしょう。
具体的に言えば、佐幕勢力がもっと多数で強力だった可能性が生まれてきます。
だとすれば、明治維新の到来=江戸幕府の終焉を5年くらいは先延ばしできたのではないかと思います。
佐幕派と倒幕派が拮抗していればもう少し長く先延ばしできたかもしれません。

とは言え、黒船に対しては開国以外の現実的な解は存在しませんし、倒幕勢力が全くいない歴史は考えにくいので、いずれは大政奉還に至っていただろうと考えます。
一橋慶喜(徳川慶喜)あたりが、倒幕派の急先鋒になって活躍しそうですし。

以上、あくまでも私見ですが、ご参考になれば幸いです。

その他の回答1件)

id:nokogiri44 No.1

回答回数32ベストアンサー獲得回数9

ポイント800pt

将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。定信が主導した政策を寛政の改革と呼ぶ。

第11代家斉は、15歳という年で将軍を継いだとはいえ在任は50年です。
その間、幕政は安泰とは言えずとも、特に弱体したとは言えず、家斉が特に無能だったという評価もありません。

家斉は田沼を罷免しましたが、家基も田沼意次に批判的だったようです。
ながくやってみないとその後は分かりませんが、将軍職を継いでのしばらくは家斉も家基もあまり変わりがなかったのではないでしょうか。

たいして、変わらなかったのではないでしょうか。

id:meefla No.2

回答回数997ベストアンサー獲得回数472ここでベストアンサー

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安永8年(1779年)に徳川家基が一命を取りとめたとします。
毒殺説を取るとその後も狙われて無事に11代将軍になれない可能性があるので、ここでは毒殺ではなかったとしましょう。

天明6年(1786年)に 徳川家治 が死去します。
順当に行けば徳川家基が第11代将軍になるわけで、家基は満年齢で24歳です。
その3年前、天明3年(1783年)に浅間山が噴火するなどして、時代は 天明の大飢饉 のまっただ中です。

田沼意次を批判していたところから、徳川家斉 と同様に田沼意次を罷免する事は間違いないと思われますが、家斉より年長でもあり、周囲の期待に違わぬ名君として指導力を発揮したとします。
松平定信が主導するかどうかはわかりませんが、寛政の改革 もより多くの成果を出していたでしょう。
飢饉で疲弊した地方農村の復興が期待されます。
田沼意次の重商政策に対する重農政策ですね。
また、大御所時代がなくなるわけですから、家斉のように放漫財政に陥る事もなく、幕府の財政は比較的健全なものになっていた可能性があります。

もしかすると家基の嫡男の時代、つまり第12代将軍の時代になっているかもしれませんが、天保4年(1833年)から始まる 天保の大飢饉 でも、被害を最小限に食い止める事ができたとします。
家基の嫡男も家基と同様に名君だったという仮定ですが。
これまた水野忠邦が主導するかどうかわかりませんが、天保の改革 も失敗することなく、幕府の威信もそれなりに保たれていたかもしれません。

約20年後の嘉永6年(1853年)に、ペリーが来航します。
史実ではその15年後、1868年に明治元年になるわけですが、家基が生存していた場合の時間軸では、幕末における佐幕と勤王の勢力図が史実と異なっていたでしょう。
具体的に言えば、佐幕勢力がもっと多数で強力だった可能性が生まれてきます。
だとすれば、明治維新の到来=江戸幕府の終焉を5年くらいは先延ばしできたのではないかと思います。
佐幕派と倒幕派が拮抗していればもう少し長く先延ばしできたかもしれません。

とは言え、黒船に対しては開国以外の現実的な解は存在しませんし、倒幕勢力が全くいない歴史は考えにくいので、いずれは大政奉還に至っていただろうと考えます。
一橋慶喜(徳川慶喜)あたりが、倒幕派の急先鋒になって活躍しそうですし。

以上、あくまでも私見ですが、ご参考になれば幸いです。

  • id:miharaseihyou
    こりゃぁ、典型的な毒殺だな。
    ワキが甘いやつはあの手の世界では長生きできない。
    いずれにしても推して知るべし。

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