また、新約聖書はもともと、コイネー、旧約聖書もヘブライ語からギリシャ語にしたもの(70人訳)があったと思います。これらを、ラテン語に翻訳したものを、典礼用の正式なものとしたのはいつごろなんでしょう。
⇒正式なラテン語訳はいつごろできたんだろうか、とも思っております。正式という意味ですが、ローマ総主教庁で認定したという意味で使ってみました。ほかの総主教座に承認してもらうとか、そういうことは想定していませんが、そのあたりはどうなんだろうと思いました。
ローマカトリックの立場で、どのようになっているか、知りたいです。併せて、学者がそのあたりをどう見ているか、です。
もちろん、正教会(ギリシャ正教系)や東方正教会側で、それについてどう批判しているかも、添えて下されば幸いです。
ボルジア家出身のアレキサンドル6世や子供たちの話や、お子さんの居た教皇の話(フェルネーゼ家)なども知ってはいますが(ひととおりのことに過ぎませんが)、ローマカトリックの側ではどういう風に整理してるんだろうか、と思いました。5総主教は、それぞれ、自分の管区は、自分たちの言語でまとめ上げていくのかな、と思ったからです。ギリシャ語(コンスタンチノープル)、シリア語(アンティオキア、エルサレム)、コプト語(アレキサンドリア)で、、、。
コメント(6件)
都合の悪い相手を一服盛って殺すのはボルジア家の伝統だし、宗教裁判という手も多用されたカトリック教会の歴史を知らないのか?
ローマカトリック教会が設立された頃のローマの一般市民は現地語でしょうが、公文書などに使用される公用語が主にラテン語だったからではないでしょうか。
其のため初期からラテン語であったと思います。
ミサ曲など聖歌も現存している最古のものもラテン語のテキストですし。
私もキリスト教について詳しくありません。ただ、次のように理解してます。
①5総主教座について、ローマが筆頭格というのは、最初からだったと理解しています。根拠は、ローマの総主教座は、ペトロを初代である、としています。ペトロは、12使途の中の筆頭格ですし、ペトロを初代と扱うなら、設立も一番早くなりますから。
②エルサレムは、5番目の格と理解しています。カルケドン会議で、あらたに総主教座になったという経緯からみて、総主教座になった順序が一番遅いからです。
③キリスト教が公認され、国教化された時期は、ローマ帝国の中心はコンスタンチノープルでした。そのとき、ローマ帝国の公用文書が、ラテン語であったか、ギリシャ語であったか、私はよくわかりません。並立していたのかもしれません。
④ローマ帝国の東西分裂後、東はビザンチン帝国として興隆しますが、その段階では、ビザンチン帝国の公用語はギリシャ語であり、コンスタンチノープル総主教座での典礼もギリシャ語だと思われます。
⑤アンティオキア総主教座の典礼はシリア語であり、現在のシリア正教(カルケドン会議で分離した側)では、自分たちの典礼は、イエスが使っていたアラム語に最も近いと称しています。
⑥アレキサンドリア総主教の系譜をひく、コプト教会(つまり、カルケドン会議で分離した側)はコプト語で典礼をしています。
382年頃に、ローマ教皇ダマスス1世の要請で、
それまでのギリシア語聖書から新約聖書のラテン語の統一を行い、
その後、更に旧約聖書もギリシア語およびヘブライ語の原典からラテン語訳しました。
そのラテン語訳聖書はウルガタといわれて、
中世を通じて広く用いられて、カトリック教会の標準になりました。
ローマ帝国はなんども分割されては統一されている時期、ただし、395年に分割されて以降、二度と統一されなかったという、そういう時期にあたりますね。というより、キリスト教が国教化される時期ですね。
ちなみに、このラテン語訳聖書は、405年頃に完成したという話でした。
ご教示を受け、次のようなことを思いました。
●「ウルガタが成立する前は、ローマ総主教座ではギリシャ語による典礼であったのかなぁ」、
と思いました。
●エウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニュムスによる翻訳以後、
ローマ総主教座からすぐ指示が出たの か、どうなんでしょう、すなわち、
「ローマ総主教座の管轄地域は、ラテン語典礼に切り替えるように」という指示が・・・」、
とも、思いました。
ローマのキリスト教はカタコンベで文字通りの地下活動を行っていたわけですよ。