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手裏剣の威力・有用性
手裏剣、あるいは苦無などの投擲して使う小さな刃物。
忍者による手裏剣での殺傷事例って歴史に残っていますか?
一応、ウィキペディアは読みました。

●質問者: グラ娘。
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 2/2件

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1 ● kumonoyouni

興味持ったので調べてみました。

第一回 「ラッキョウ手裏剣の巻」 | 歴史人公式ホームページ|歴史人

第一回 「ラッキョウ手裏剣の巻」

今日では手裏剣といえば
忍者の専売特許のイメージが強い。

でも、実際のところ
手裏剣は武士の裏芸とも言われ、
表芸である弓、槍、剣術などとともに
誰もが修練したものだった。

江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜も
手裏剣術を好んだそうだ。

手裏剣は「削闘剣」とも言われている。
敵の戦闘力を削るという意味だ。
手裏剣は一撃必殺の武器ではない。
綿入れの着物や垂れ布などは
貫通しにくいという弱点もある。

忍者は手裏剣を打って
敵の体勢が崩れた瞬間に斬りつけたり、
逃げたりしたという。

忍者の武器と思われている
星型の多角形手裏剣は
忍術伝書にほとんど見られないし、
伊賀や甲賀で発見されたこともないようだ。

では、
いったい忍者はどんな手裏剣をつかったのだろうか。

忍者は、
忍び込むときには手裏剣を持って行かなかった。

いろいろな職業に変装して
敵地に潜入するときに
関所などで持ち物検査にあえば
正体が発覚する恐れがあるからだ。

そんなときに使われた手裏剣もあった。
まずば、五寸釘。
持っていてもさほど不審がられない。
手裏剣として使われた他に
城の石垣のわずかな隙間に突き立て、
それを手掛かりにしてよじ登るのにも用いた。

もうひとつ、思いもよらないものがある。
それはラッキョウと縫い針。

ラッキョウは単なる食べ物だし、
縫い針は旅をする者の必需品だ。
持っていても何らおかしくない。
このラッキョウに毒をしみこませ、
針を何本も突き立てると必殺の武器に早変わりした。

身のまわりにある物を使い、
怪しまれず目的を果たす、
まさに忍者らしい武器といえよう。


手裏剣の名手と言えば上遠野広秀 - Wikipediaがいるようです。

上遠野 広秀(かどの ひろひで、生没年不詳)は、日本の江戸時代中期の兵法家、剣客。願立流剣術、上遠野流手裏剣術の使い手で、とくに手裏剣の名人として「手裏剣の上遠野」と称された。通称、伊豆守。

上遠野氏は旧姓、小野氏。1404年(応永11年)に磐城国菊田庄(菊多郡、現いわき市)上遠野に住んだことからこの地名を名乗るようになった。第10代上遠野高秀(伊豆守)が伊達政宗に招かれて家臣となり、843石を扶持された。広秀は明和、安永(1764年 - 1780年)の頃の人で、仙台藩で3千石取りとなっていた。家伝の願立流[1]剣術のほか、独自に手裏剣術を工夫した。

広秀が手裏剣の技を工夫したのは、相手の眼を潰してしまえばいかなる大敵でも恐るるに足りない、という考えからであったといわれる。広秀はいつも両の鬢に4本ずつ、計8本の針を差しており、この針を指の脇にはさんで投げると百発百中といわれた。広秀は「手裏剣の技は一代限りのもので、教えてもらって上達するものではない。根気よく自分で工夫して針2本打つことを習得すれば、自然に上手になる。」と語ったという。

エピソード
---------------------
あるとき、仙台藩7代当主、伊達重村が江戸・芝の上屋敷で、御杉戸の絵に、桜の下に馬が立っている図を見て、この馬の足の爪に針を打ってみよ、と命じたところ、2本打って2本とも命中した。このときの針の痕は、後に上屋敷が焼失するまで残っていたという。

また治承・寿永の乱(源平合戦)の昔、仁田四郎が富士の巻狩りで猪の背に乗ったという逸話を聞き、広秀も山狩りのたびに猪を見つけて飛び乗ることを得意とした。広秀は、猪の背に後ろ向きに乗り、尻の穴に脇差を刺し通せば必ず仕留めることができる、といったという。



ご参考になれば幸いです。


kumonoyouniさんのコメント
他には[http://noburu.blog92.fc2.com/blog-entry-100.html:title]にある渡辺松之丞も手裏剣の名手だったようです。

グラ娘。さんのコメント
ご回答ありがとうございます。 そうなんですよね。 歴史には詳しくないんですけど、忍者って実在したんですよね。 でも、忍者が手裏剣を使って戦ったとかいう記録が残ってないのかどうなのか 知りたくてこの質問しました。 そもそも、忍者の活躍は記録に残りにくいもんだと思うので諦め半分。

kumonoyouniさんのコメント
引き続き探してみましたが、忍者は暗躍するものなので表舞台に出てきてはおかしいという結論に達しました。 以下もご参考までに [http://www.k5.dion.ne.jp/~marici/yakunodan.htm:title] [http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/ninjya.htm:title]

2 ● a-kuma3

忍者が手裏剣を使って戦ったとかいう記録が残ってないのかどうなのか

現代に置き換えると、「CIA がこんな銃を使って KGB のエージェントを倒した」レベルの話になるので、そこまで細かいものが残ってる可能性は低いかもしれません(でも、武将の手紙が残ってたりする)。
ですが、どのような集団だったのか、という程度の記述は残されているようです。

「北条五代記」という書物には、以下のような記述があるそうです。

昔、関東諸国乱れ、弓箭をとってやむ事なし。其此らっぱと云うくせ者おおく有し。これらの者盗人にもあらざる。心かしこく、けなげにて横道なる者どもなり。され共、此者を国大名扶持し給ひぬ。これはいかなる子細ぞといえば、この乱波我国に有り盗人をよく穿鑿し尋ね出して首を切り、おのれは他国へ忍び入り、山賊、海賊、夜討ち、強盗して物取る事が上手なり。才智有て、謀計調略をめぐらす事凡慮に及ばず



「萬川集海(ばんせんしゅうかい)」という忍術兵法書が残っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%B7%9D%E9%9B%86%E6%B5%B7
http://www.geocities.jp/naoya_820/index-densyo-bansen.htm

江戸幕府が落ち着き、忍者が暇になってしまった時代に書かれた書物です。
こんなページがありました。個人で、国会図書館所蔵の原書復刻版を写本したそうです。
http://www.geocities.jp/ciliegiostanza_bansensyukai/frame.html
# ページの作りがしょぼくって、IE じゃないとスクリプトがきちんと動きません ><

残念ながら、手裏剣などの武器に関する第二十巻は写本されていません。
http://www.geocities.jp/ciliegiostanza_bansensyukai/deta/00-04b.jpg
http://www.geocities.jp/ciliegiostanza_bansensyukai/deta/00-05a.jpg


こんな動画もありました。
D
こちらも残念ながら、第二十巻に該当するところはほとんど触れられていません。


「萬川集海」の他にも、いろいろな書物が残されているようです
http://www2u.biglobe.ne.jp/~oreades/sinobininjutusyo.htm

# あまり、質問の答えになって無くて、ごめんなさい


グラ娘。さんのコメント
そうなんですよ。 忍者って本当に活躍してたのかなぁ。 忍者は信じるとしても、手裏剣はかなり怪しい。(その存在は認めるとして実際に使用されることなんてなかったんじゃないかと) >CIA がこんな銃を使って KGB のエージェントを倒した CIAの装備も機密なんでしょうかねぇ。パタリロ読んでたけどヒューイットが何使ってたか 覚えてません。
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