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リヒテンシュタインのことで質問します。Wikipediaから下記の???の履歴を拾いました。
<質問1>??の男爵領、伯爵領は:
オーストリアの中の、つまり領邦内の爵位の付いた領地だったのでしょうか。
それとも、他の領邦内の爵位の付いた領地だったのでしょうか。
つまり、領邦内の爵位という意味です。
或いは、神聖ローマ帝国内の等族としての地位を持つ爵位だったのでしょうか。
<質問2>?のリヒテンシュタイン公(候)の件:
この公位(候位)は、神聖ローマ帝国内の等族としての爵位でしょうか。
それとも、領邦内の公位(候位)という位置付けだったのでしょうか。

?1699年 ヨハン・アダム・アンドレアスがシェレンベルク男爵領を購入
?1712年 ヨハン・アダム・アンドレアスがファドゥーツ伯爵領を購入
?1719年 神聖ローマ皇帝カール6世は、リヒテンシュタイン家が買収したファドゥーツ伯爵領とシェレンベルク男爵領とを併せてリヒテンシュタイン公(侯)領とすることを認可(リヒテンシュタインの始まり)
?1806年 神聖ローマ帝国の崩壊によって独立国となり、翌年にライン同盟に参加する

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

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1 ● 匿名回答1号
ベストアンサー

おおよその事は、ヨハン・アダム・アンドレアスの記事を読めばわかると思うんですが。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%82%B9

また1699年にスイス国境のシェレンベルクを、1712年にその南に位置するファドゥーツを購入した。後者の2つの所領はいわゆる帝国直属身分(英語版)の荘園だったため、ヨハン・アダムはリヒテンシュタイン家の当主としては初めて帝国議会の諸侯部会(ドイツ語版)の議員席を与えられることになった。帝国議会の議員に列せられることは、ヨハン・アダムにとって長年の念願だった。シェレンベルクを入手する以前、彼(とその父祖)は神聖ローマ帝国の直属領内には1つも所領を持っていなかったため、帝国諸侯の称号を持ちながら帝国諸侯としての権限を持たなかったのである。


質問2についてはこれが回答になると思う。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/liechtenstein/data.html

1719年 神聖ローマ帝国カール6世が両領に対し自治権を付与,リヒテンシュタイン公国に昇格。

ただし、公国と書くのは誤りだそうだ。
http://jpnlie.org/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%80%99%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%90%8D%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/


匿名質問者さんのコメント
質問1についてですが、どうもありがとうございます。 平たく申せば、「神聖ローマ帝国内の等族としての地位を持つ爵位」だったのですね。 ・・・・・・・・・・・・・ 「帝国諸侯の称号を持ちながら帝国諸侯としての権限を持たなかったのである」 ということですが、 >直属領内に所領を持っていなくても、帝国諸侯の称号を持っている というのは、理解するのが難しいところです。 ご提示いただいたヨハン・アダム・アンドレアスの記事から、その祖父にたどり着いたところ、皇帝から、「候」の地位を与えられたとなっていますので、これが、おそらく、等族としての「候」なのだと思います。ありがとうございます。 しかし、対応する所領・領邦のない、「候」というのも、びっくりしました。ふつうは、「××候」というのが一般的だと思いますので。

匿名質問者さんのコメント
質問2についてですが、どうもありがとうございます。 「神聖ローマ帝国内の等族としての爵位」ですね。 なお、もともと、神聖ローマ帝国内の等族としての男爵領と伯爵領なのですから、 すでに、自治権があるのではないか、とも 最初思いました。 しかし、等族領であっても、皇帝からの自治の度合いが種々であり、 強力な領邦(バイエルンやザクセン、ブランデンブルク、、、)と、 小さな男爵領・伯爵領では、皇帝との関係が一律ではない、 のは十分にありうることだと思いなおしました。 (この考え方は、少し、一人合点かもしれないですが・・・・・・)

匿名回答1号さんのコメント
帝国直属身分にもいろいろあるみたいです。 ドイツ諸ラント史辞典 ?中世から現在までのドイツ領邦と帝国直属家門?(翻訳) https://oiu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=160&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=21 (大阪国際大学/PDFファイルのダウンロードリンクです) >> (6)君主(領主) 三つの帝国直属身分(選帝諸侯・帝国諸侯・帝国都市)と、ドイツ帝国会議の議席は有しないが帝国直属身分である二つのグループ(帝国騎士・帝国村落)と平行して、なおも数多くの帝国直属でない政治的な単一体があげられる。 << つまり、新たに取得したシェレンベルク、ファドゥーツはどちらも議席権を有する帝国都市であったため、晴れて帝国議会に出席するという宿願が叶った、という事なのでしょう。

匿名質問者さんのコメント
お返事遅れて申し訳ありません。 >対応する所領・領邦のない、「候」というのも、びっくりしました。 >ふつうは、「××候」というのが一般的だと思いますので。 の件ですが、采地名を持たない爵位に違和感がありました。しかし、 采地をそもそも持っていないのですから仕方ないのですね。 PDFファイルをありがとうございました。99頁に「(7)肩書きだけの諸侯」というのがありました。「位記貴族」という名称がありました(英語で、あるいはドイツ語でなんというのか、と思いましたが・・・)。しかしながら、とにもかくにも、 采地名を持たない爵位とは、まさに、これなのだろうか、と思いました。 この「位記貴族」が、“帝国諸侯の称号を持ちながら・・・”の地位を示しているのだろうと素人ながら推測しておるところです。

質問者から

ヨハン・アダム・アンドレアスの祖父であるカールのときに、
the Duchy of Troppau on 28 December 1613 and the Silesian Duchy of Jägerndorf on 15 March 1622 の二つの「公領」を取得しているようでした。これらは、等族としての領地ではなく、領邦内のものだと推測します。土地には必ず、爵位という格が付随するものなのでしょうか、どういものなのか、少しよくわからないです。
なお、同じく、ボヘミアにも領地を得たようでした。こちらの爵位はあったのかなかったのか、よくわかりません。
なお、いつごろに取得したかよくわかりませんが、現在のリヒテンシュタイン候は、オーストリアにも広い土地を所有していると聞いております。その土地も、取得した当時は爵位の付随するものであったのか、わたくしはよくわかりませんが。


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