政府とは、国民から徴税を行い、代わりに公共サービスを提供するものだと思います。
しかし、平安時代の政府(朝廷、でしょうか)って、なんか庶民にサービスを提供していたんでしょうか?
大仏の建立とかは国家鎮護を願ったもので、(実効性はともかく)目的は国民全体の福祉である、と言えるかもしれませんが、「鎮護」ってどっちかというと朝廷の安泰を願ったもののように感じますし……(それ以前に奈良の大仏は奈良時代ですが)。
貧窮問答歌とかのイメージが強すぎるせいかも知れませんが、平安貴族って、租・庸・調とか徴税はするけど身分の卑しき輩の役には立たない連中、という感じがしてなりません。(っていうか役に立つ仕事をしているイメージがない。官位がある以上仕事もしてるんでしょうけど)
もちろん、平安時代の文化遺産は現代の我々にとって重要なものだし、仮名文字の発明など、日本文化の基礎が形作られた時代だとも思いますが、あくまで当時の視点で考えると、ということです。
「こういう点で平安政府は庶民にとって役立っていた」ということがありましたらご教示ください。
平安政府の一般庶民に対する功績としては、それまで中央官僚に集約してきた人材をアウトソーシングにした部分ではないかなと思います。
奈良政権初期~中期では庶民にカーストに類する身分制度を引き、その範囲内で人事権の行使や官僚への特権付与など国内の権益の独占、海外及び周辺地域に対しての外交圧力による利殖を中心としていましたが、末期には海外の独立、国内公有農地の拡大鈍化、それに反した人口の増加(当時は人に対する課税方式を採用していたので、そのほうが儲かると思われていた)、その対策として新規開墾地の私有化を特定条件下で認めたことによって官僚支配の体制を緩めた結果、
行き過ぎた能力主義から官僚の序列にまで影響が出てしまい、こうした事を教訓に、官僚の長の長たる天皇家の世襲も一新され、苦労人の桓武さんが天皇の地位に就き、平安政府ははじまったわけですが、その序列を正そうと都を頻繁に移してみたり、増えすぎた官僚を粛清しまくったりと色々やったおかげで地方に対する影響力も鈍化し、東方で反乱を起こされたり新都建設の責任者がブッ殺されたりと散々な目にはあうわけです。
そうした流れの中で、戸籍によって厳格に監視されていた大衆も比較的(とはいえ捉まれば死罪なのですが)簡単に収税の手が及ばないように逃げ出せるようにもなり、「人(身分)に対して収税を行う」という事が難しくなったと言う点、かわって、土地に対する収税意識が中央に芽生えた結果、
土地の所有者に対する規制が強まると同時に彼らに一定の権力が認められるようになり、その権力保持の為の各種セキュリティサービスが中央から行われる主要な業務となり、その結果、人々は直接税からは解放されると言う「恩恵」(現在と比べると恩恵と言うほどのものではないかもしれませんが)を受けました。
これによって各地域への人の往来規制はそれまでと比べて緩和され、地域の生産物の輸送体系が組織の接着剤としての機能を果たし、中央の人達は徴税業務(地域の支配者を守るという義務は増しましたが^^)から解放され、地方担当者の権限拡大によって地域の生産性の向上へと繋がり、その成果として財務も潤っていくわけですが、
奈良時代の弊害として地域の農民に対する種の貸し出し利率(税込みで貸し出し年利150%以上)の権限も引き継がれていた為、人的流動性が高まりすぎ、租税公課の高すぎる地域で生産人口が居なくなるような事態も生まれ、こうした利率の引き下げ等の農民救済と生産振興策を地方に施行し監督する事も平安政府の業務となりました(一律130%まで、不作時には減免あり)。
この政策によって農民の利殖は増えましたが、今度はその農民の中に貧富が生じ、地方から貸し出された種に更に利子をつけて貧困農民に貸し出し、利益を得る人達が増えます。こうした人々がより力をつけ、地侍等の形で地方の徴税業務を助けていった事により、彼らもまた徴税のシステムに組み込まれていくようになります。
これは富裕層人口の底上げにつながった側面もあるわけですが、より一層の貧困層の貧困化を招く要因ともなり、輸送路における群盗集団の活発化へと繋がり、こうした群盗集団から自衛する為の実力もまた、地侍の主導の元、貧困層によって組織され、貧困層の中で武力に優れた人々もまた平安政府の治安システムの中に組み込まれていく事になります。結果的に、治安と経済の安定の為、極限貧困層はより高い圧力と収奪の中に追い込まれ、淘汰されていく事になります。
その過程の中、流動人口は減少し(結局どこに行っても同じ的意味で)、地方の分権と(鎌倉時代へ至る国衆意識の醸成と言えばいいでしょうか)中央の統率システムが並行的に確立されていく訳です。
こうして考えると、平安政府の功績は日本史上の貧困層の凝縮化と土地意識の一般化という点において、政策的なひとつのエポックを生み出したと評価できるのではないでしょうか?
参考
とりあえず、大仏建立と貧窮問答歌は平安ではなく奈良時代ですね。
http://blog.hix05.com/blog/2007/02/post_111.html
ちなみに奈良時代には、光明皇后が病人を救うための「施薬院」というものを作ったという記録があるので、「奈良時代の皇族は庶民にとって役立っていた」というのは言える可能性があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%96%AC%E9%99%A2
でも平安時代となると…桓武天皇が庶民の兵役を取りやめていますが、これはもともとマイナスだったのがゼロになっただけなので、役立っているとは言いがたいし、彼も天皇なので貴族ではないです。
現代のサラリーマンは年中仕事があり毎月収入が入ってくるのでこういう印象を受けるかもしれませんが、農業という一次産業が基本であった当時は、農繁期と農閑期がありました。そして貨幣が流通する一方でそれを蓄える手段がない状況では、農閑期や不作の時には生活が不安定になりがちでした。
そこで、余裕のある時、余裕のある所から税を徴収し、こうした時期に宮中や神社の立て替えを行うことで、庶民の衣食住を補償したという一面もありました。すでに、現代の税金と同じ機能を果たしていたと考えられています。
wikiでも明確なのは第一次世界大戦以降で、それ以前についてはハッキリしていなようですし。
なるほど。
なんか平安遷都とか、地方の農民も駆り出してやってたイメージがあったので……。
認識を改めます。
>darkwoodさん
>[ ノブレス・オブリージュ ]は考え方自体は古くから有るようですが、比較的実践されるようになったのは近代になってから
私自身「ずいぶん時代は下りますが」と書いたわけですが……。
平安貴族にはそもそも「ノブレス・オブリージュ」的な考え方すらなかったんじゃね? という気がしたので。
まあ、質問の主眼は、貴族個々人のあり方より、「平安政府」のあり方についてなのですが。
>rsc96074さん
あー……。
・日本国憲法は全くの押しつけであったか
・仮に押しつけであったとしても、成文法に先行する思想は海外にはあったのではないか(キリスト教……ですか?じゃあ仏教は?)。「成文法がないから思想もなかった」という説明は正しいのか
・日本国憲法以前(たとえば江戸時代や明治憲法期)には、「民の生活を安んじる」といった発想は日本には全くなかったのか
・君臣・長幼の序を重んじる儒教道徳と「徳治」「仁政」といったものは相容れないのか
とか、いろいろ言いたいことはあるのですが、いずれもおそろしく面倒な議論になりそうですね……。
というか、私が質問したのは
「平安時代の“政府”は庶民の役に立っていたかどうか」
という点なのであって、役立つべきだという思想があったかどうかは主要な論点ではないのです。
なので、そちらを中心に書いていただければ幸いです。
一番肝腎な質問の論点を、本文に書かないで、コメント欄に書いてますナンテ言われてもナァ、ハ、ハ、ハ!!!!!!!!!!!!
「こういう点で平安政府は庶民にとって役立っていた」ということがありましたらご教示ください。」
って。
まあ、読んでないわけですね。
>> 比較的実践されるようになったのは近代になってから
> 私自身「ずいぶん時代は下りますが」と書いたわけですが……。
> 平安貴族にはそもそも「ノブレス・オブリージュ」的な考え方すら
> なかったんじゃね? という気がしたので
すみません、確かに[ (ずいぶん時代は下りますが) ]と有りますね。ただ、近代西洋と古代日本とをそのまま比較しているような印象が有ったので、西洋だって昔は... と思ったものですから。
でも貴族と天皇家が主役、次いで武士が時たまに出てくるくらいの平安時代において、国としての政策が一般の人々にはどういう影響を与えていたかを考えるととてもユニークな質問だと思います。
平安貴族が行った一連の結果で、より下級階層の民にどのような影響を与えたのか広い意味でまとめて回答しようかと思いましたが、5番目のMS06R3さんと同様の趣旨になりそうなのでやめました。
欧州では政治・軍事を担当するのは長らく貴族階級(その伝統ゆえに「ノブレス・オブリージュ」という考え方が醸成されたのかも)のようでしたし、平民は主に農業・商業・工業を担当。もし平民の出で能力優れた人物が名を知らしめようとするならば宗教か学業しか無かったと思います。日露戦争のあたりまでロシアは将官だけでなく士官までも貴族出身で、一般市民では下士官までしか出世できないのが普通でした。
それが日本では平安時代を経て結果的に貴族は文化的・祭礼的な行事全般を司り、あとは権威として影響を及ぼす程度にとどまったおかげで、在地領主クラスだけでなく運と能力次第で一般庶民出身でも比較的政治・軍事を担える機会が増えました。まぁ出自という階級自体は長らく残ったものの、独自の文化を作ったという意味で面白い時代ですね。
仏さんへのお供え物の風習、というか寺社仏閣への寄進というのは飛鳥時代からあったようですが、それまでは祭事を神の地上代行者とされる皇族とその親族が紀元前から行っていた神事への貢物であって、税という側面以外に、恵みに対する報恩と次の恵みへの加護を祈願するという側面がありました。
彼らは最も太陽が低くなる冬至の時期に彼らが太陽の再生を祈祷する事で再び日が高く登るといった加護をもたらすと信じられていたわけです(今でもこの神事は欠かさず行われてます)。アニミズムの象徴的存在としての太陽信仰は古代エジプト・ギリシャ・マヤ・アステカ等をはじめ、南太平洋~アマゾン先住民にも散見できますが、こうした中のひとつに日本の神道も含まれていると言ってよいでしょう。
庶民(というか皇室以外の人達)はこの天恵を受けて育ち生きていくワケで、四季の移ろいが殊更しっかりしているわが国では、お天道さんが登らず寒い冬が延々と続けばどんな人間も飢えて死んでしまい国は滅んでしまうと言う事を自己の経験の中でよく理解しており、それ以上に自然を司る神様(天照さん他)がとても気まぐれだと言う事をもまた十分知っていたと言う訳です。
こうした「神様のご機嫌取りを失う事」は=「国を大切にしない不届きな罰当たり」と言う感じで「誰の損にもならない」上に「大義を持てる」という意味で権威の骨格を太くし、庶民の能力主義を高め、その底支えによって、官職の地位をより強力に担保する力となっていったわけです。
これは有史以来続く社稷の象徴として培われてきた事による皇室の権威であり、田んぼの案山子のようなその無形の加護を受けると同時に自己の権威を固めるという意識を民衆に与え続けたという点で、その加護を信じて誰もがまず自分の為に働く=自分の周りの利益にも貢献する=結果として国も豊かになるという小さな意欲から大きな生産性を喚起する、非常に合理的で安心感を与える「精神的な権威」であったとはいえると思います。
この権威から民衆が自立していくのは今回のご質問以降の時代になっていくわけですが、この辺はまたの講釈でということで^^