「やはり問題というのは、我々が無知から生じる作り出したものであると仏教では言っております。ブッダも言っております。すべての問題というのは我々の無知から生じるものだということです。」
とおっしゃってましたが、このことは、どの仏教経典のどこに書かれているのか教えていただけないでしょうか?
間違っているかもしれませんが、痴ということなのでしょうか。
http://www.j-theravada.net/pali/key-akusala.html
moha(モーハ:痴)。無知。、愚かさ。ものごとの真の側面に気づくことができないこと。
人は、たとえばバラの花を見て「きれいなバラだ」と価値判断をし、それによって行動を起こします。それはごく一般的な行為ですが、真理の立場で物事を観ているとは言えません。正しくない認識による行動は、当然問題をつくり出します。
仏教では、ある一定の条件の中で一時的に「バラの花」という現象があるにすぎない、これは瞬間瞬間変化し続ける不安定な空しいものだ、という因果関係、無常の立場、現象論でものごとを観ます。そのように真理の立場からものごとを観られるのは悟りを開いた人だけなので、世の中の人々は皆無知な愚かさの中で生きているということになります。無知で生きている私たちは、ものごとをはっきりと正しくとらえることはできません。いつでも大雑把に認識して、混乱状態の中で価値判断をしています。そしてすぐに執着したり嫌ったりして苦しみをつくり出します。ですからこのモーハ(無知)こそは、すべての悩み苦しみの土台になる心所なのです。
屋敷がぼーぼー燃えてるわけです。
そこに居続けたら焼け死んじゃうのは外から見たら一目瞭然なんです。
でも中で遊んでる子供にはそれがわかってないので
早く逃げないと死ぬぞーって呼びかけても出てこないで遊んでる。
その状態が無知なんじゃないのと思うんです。
この場合の火は煩悩の象徴で、中で遊んでる子供たちは
煩悩にまどわされて救われない状態になってることに気づいてません。
気づいたら救われるのに、無知って恐いね、という感じ。
火宅の譬えには続きがあって
「外にはもっとすごいオモチャ(正しい仏の教え)があるぞ」
と呼びかけると、中にいる子供たちが喜んで出てきてめでたしめでたし。
外に出てみたら家燃えてるし、やばかったね僕ら、馬鹿だったんだねってなる。
meefla さんの回答にあるスッタニパータは
お釈迦様といろんな人との問答集ですが、
弟子のメッタグーとの会話にこんなのがあります。
「世の中苦しいことばっかりだけど原因はなんですか?」
「みんな執着から生まれるんだけど、そのことに気づいてないと何度でも同じ執着にとらわれて苦しんじゃうんだよね」
無知というのは、現代人が思ってるみたいな知識の有無を言ってるんじゃなくて、
自分を苦しめてる原因や、その原因を取り除く方法を知らないってことです。
ちなみに、スッタニパータは岩波文庫とかに入ってますので図書館で探せばみつかりますよ。検索するとほぼ全文ネットにあったりもしますけど。