1. なぜ遠藤周作は、わざわざ教会を敵に回すことになる『沈黙』を書かなければならなかったのでしょうか。
2. 禁書に指定されたことを、遠藤はどのように受け止めたのでしょうか。そして何か行動をとったでしょうか(たとえば、バチカンに謝罪したとか、どこかの司教と仲直りの儀式をしたとか)
遠藤周作本人の言葉で1. 2. について述べているものがあれば教えてください。
遠藤周作が『沈黙』を描いたきっかけは、一枚の古びた「踏み絵」であった。 その「踏み絵」には、十字架から降ろされたキリストの体を膝に抱え込むようにした聖母像が、銅板として木の中にはめ込まれてあり、何度も何度も踏みつけられた黒い足の指の痕が、くっきりと残っていた。遠藤周作は長崎市内の長崎十六番館で、この踏み絵を見て『沈黙』を書こうと思ったらしい。遠藤周作は、「転び者ゆえに教会も語るを好まず、歴史からも抹殺された人間を、それらの沈黙の中から再び生き返らせること。そして、私自身の心をそこに投影すること」が小説の動機であると語っている。遠藤周作の代表作とされる本書は1966年に発表された後、大きな評価を受けながらも、カトリック教会に否定され、長崎では長い期間にわたって禁書扱いにされてきた。この小説の舞台となった長崎県西彼杵郡旧外海町に『沈黙の碑』が建ったのは、1987年。遠藤周作が『沈黙』を発表してから21年が経過していた。『沈黙の碑』には「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりにも碧いのです」と刻み込まれている。
しれませんが、公式にローマ法王庁の「禁書」はありません。というか、1966年(ちょうど
「沈黙」が出た年)に、ローマ法王庁の「禁書目録」(Index Librorum Prohibitorum)の
制度は廃止されました。参考: http://en.wikipedia.org/wiki/Index_Librorum_Prohibitorum