なぜ日本人は輪廻転生を受け入れず、「みんな死んだら仏様」という考え方に飛びついたのか?

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回答13件)

id:toitaiki No.1

回答回数123ベストアンサー獲得回数0

ポイント30pt

明治維新の際に、廃仏毀釈がされ、輪廻転生の仏教史観が否定されました。靖国神社はまさにその国家神道の象徴であり、死んだら「神様」になるが、宗教観のない日本人が「仏様」になると表現したと考えます。ですから、外交文句として、「みんな死んだら仏様」に納得しているのであり、そもそも輪廻転生を受け入入れる入れないは個人の信仰の問題と捉えます。

id:hkt_o

「日本人」と書いたのは言葉の綾です。そこのところはこちらの意図を汲んでいただければ……。

日本人の多くは仏教について多少の知識はあって、輪廻転生という言葉くらいは知っているわけです。仏閣で手をあわせたり、仏式で葬式を挙げたりもする。でもなぜか輪廻転生は信じていない。お盆とか、そういった「人間は1代限りであの世行き」思想がはびこっています。それはどうしてなのか、ということです。

2005/04/06 16:46:58
id:neoarcheologist No.2

回答回数776ベストアンサー獲得回数0

ポイント30pt

ここに説明がのっています。日本人の昔ながらの神の観念との関連で説明されています。


以下引用。


難行苦行を積んでも仏になれない断絶感こそが仏教上の認識の中で、日本だけは「死んだら仏になる」と信じられており、それで、仏壇に仏像ではなく位牌(仏)を飾って手を合わせるのです。「死んだら神になる」と同じ事であり、日本の八百万の神は自然万物と繋がっており断絶感は無いのです。

id:hkt_o

ううむ、もう少し歴史的経緯を踏まえた回答があるとうれしいです。

2005/04/06 16:48:31
id:su-mo No.3

回答回数15ベストアンサー獲得回数0

ポイント30pt

http://www.hatena.ne.jp/1112759660#

人力検索はてな - なぜ日本人は輪廻転生を受け入れず、「みんな死んだら仏様」という考え方に飛びついたのか?

生れる前のこと、死んだ後のことは

人間の憶測や記憶などとして心理的な側面から語られることがあったとしても、それを誰も科学的や別の側面から立証できていないと聞いてます。そういうコトから”輪廻転生”に深い興味やコダワリを持たないのではないでしょうか。


それから日本人の場合、一千年以上前から変化しつつも途絶えることなく伝わる仏教学が思考の基本になっているので今の私たちも無意識に仏教的思考なんだと思います。改めて飛びついたのではなく、根本思考ともいえるかも・・・?ですから一般的には”死んだら皆仏様”という表現の方が”しっくり”きます。

仏教では、他人を認めて仲良くすることが自分をも大切にすることでもある、というような教えもあるとか・・・。そういうコトで言うならば輪廻転生という思考も認めるが、自分がソレを受ける入れるかどうかは別問題であるということでしょうか。

そして、ここで書かれている「みんな死んだら仏様」という言葉のように宗教信仰を意識した感情は一般的に無いと思い居ますよ。


・・・支離滅裂ですね、ポイント無くてもいいですよ。

id:hkt_o

輪廻転生は仏教の重要な部分で、ふつうの人間がふつうに生きたら仏様にはなれないはずなのです。ところがなぜか、日本の庶民は凡人が死んでも仏様扱い。49日経ったら生まれ変わっているんだから、位牌なんかに手を合わせても意味がないんじゃないの? お盆の準備なんかしたって、生まれ変わっているんだから誰も帰ってくるはずがないでしょう。

そこが不思議なんですね、私は。

2005/04/06 16:52:16
id:uumin3 No.4

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ポイント40pt

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?id=0693310-0000&kind=...

国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書

 「後生が悪い」という言い方をご存知ありませんか。これは生まれ変わり(輪廻転生)を前提にしている日本語の一つです。後生が悪い(悪く生まれ変わるような)ことをするなという言葉で、倫理が語られているのです。

 また「袖擦り合うも他生の縁」もそうですね。前生(ぜんしょう)-今生(こんじょう)-後生(ごしょう)という生まれ変わりの縁の中で人間が生きているという考え方が下にあります。


 因果応報というのも、もともとは死に変わり生まれ変わる輪廻の中で、悪因悪果・善因善果の生まれ変わりがあるから悪いことをしてはならないという倫理観を表す言葉です。悪いことをしてすぐに悪い報いを受けるという現報の考え方とともに、景戒の『日本国善悪現報霊異記』にはたくさんの仏教説話でこの考え方が述べられています。


 四足の獣の肉を食べるのが江戸時代にタブーとなっていたのも、先祖・父母・知人などが六道輪廻の中で畜生となっているかもしれない(だからそれを食べるのはやばい)、という考え方が支えていたところがあります。


 お葬式でいただく戒名は、戒律を受けた仏弟子としての名前です。戒名をいただくのも、お経を唱えてもらうのも、目的は亡くなった方を「成仏」させるためですから、建前としては上手くいけば皆輪廻から解脱して仏になっていると言えるかもしれません。さもなくば四十九日間「中有」をさまよった後、どこかに生まれ変わるのですから。


 ですが、死者をホトケと言うのはおそらく厳密には「成仏」したからというのではなく、人は死んで他界に行くという仏教伝来以前の日本の考え方に仏教から借りてきたことばをプラスして、亡くなった方を指す言い方としてあるのだと私は思います。

(ちなみに真宗などで言う南無阿弥陀仏と唱えて「浄土」に行けるという考えですが、弥陀仏のいる「西方浄土」へは輪廻・生まれ変わりで行くのです。浄土に生まれ変わって、そこで最終の修行をして解脱する。もともとはそういうところであって最終目的地ではありません。)


 ことほど左様に仏教受容以来の日本には「輪廻転生」が受け容れられておりました。という説明でいかがでしょう。

id:hkt_o

私が子供心に疑問に思っていたのは、お盆に先祖の霊が帰ってくるとしたら、生まれ変わった命はどうなってしまうのだ? ということでした。お盆の間、仮死状態なの? そんなアホな〜、という。

日本人は仏教大好きで1000年くらいやってきたのに、輪廻転生だけは、どうしても信じなかった。戒名なんてつけたって、凡人が解脱するわけないのだから無駄でしょう。位牌を拝んだって、もうどこかで何かに生まれ変わっているわけで、骨灰なんてものは抜け殻に過ぎない。日本の仏教界は、こうした状況を座視して1000年余り、いったい何をしてきたんだ、そんな思いがあります。

輪廻転生という知識はあって、生まれ変わりだ何だという話はするのが日本人ですが、本当は「死んだら仏様」を信じているに違いないと私が思うのは、お盆とか墓参りなどの習慣に大きなお金と手間を費やしてきた事実があるからです。

日本人は仏教徒じゃなくて神道の信者、といわれるのは当然なんですけれども、「死んだら仏様」という価値観でお金を稼いでいるのは仏教の方。なんだか変ですよね?

2005/04/06 16:59:32
id:toitaiki No.5

回答回数123ベストアンサー獲得回数0

ポイント40pt

二回目ですのでポイントは結構です。質問の意味が分かりました。

まず宗派論として、禅宗と真言宗は輪廻を否定します。禅宗は禅即悟り即菩提です。密教は即身成仏ですので。転生はありません。法華経の16番目のお経に「今私(仏陀)が悟ったのではなく、遥か昔(1億とかの世界)に何度も生まれて悟ったとあります。ですので、仏壇に手を合わせるのは次回少しでも悟りに近づいて「転生して」悟りの「菩薩道」に生まれる環境にありますように。ということです。そもそも小乗では、自分しか悟りを追及しませんので省きます。結論としては、日本人と仏教界を含めて分からないまま、生きているけど、死んだ人まで恨んではいけないという、刹那が日本の道徳として繁栄したものです。ですので仏教界でも、意見の分かれるところです。

id:hkt_o

ふむふむ。

ご意見を踏まえて、なお私が疑問を持つのは、なぜ日本人が大乗仏教を好んだのか、それは偶然なのか、神道との兼ね合いなのか。禅宗と真言宗が日本の権力中枢に食い込んでいった背景に、その教義が日本の指導層に受け入れられやすいものだったこともあるのではないか云々。

2005/04/06 18:03:26
id:TomCat No.6

回答回数5402ベストアンサー獲得回数215

ポイント80pt

そもそも東洋的輪廻思想はヴェーダーンタに由来し、

この系譜につながる宗教では、

およそ命あるものは生まれ変わり死に変わりを繰り返すと考えます。


まずヴェーダーンタの世界観では、

神や聖者が様々な形で生まれ変わって登場します。


近年で著名な生まれ変わりの聖者は

パラマハンサ・ヨガナンダが紹介した

マハアバター・ババジでしょう。


この「不死身の聖者」は同じ肉体を保持しながら「不死身」なのではなく、

様々な時代と様々な場所に、様々な姿で登場します。


さらにこのババジがシヴァ神そのものの生まれ変わりである、

と考えている人も多いようです。

 

http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/jaina/4_south/south.htm

���C���h�̃W���C�i���z

こうした生まれ変わりの思想は庶民にも深く根付いていますから、

元々インドでは墓を作るという習慣すらありませんでした。

墓を作って死者を長くまつるというのは、

生まれ変わりの思想にそぐわないからです。


これは同じ系譜を引くチベット仏教などにも色濃く表れ、

鳥葬などの墓を作らない葬送方法が

それをよく表しています。

 

http://www.sukima.com/12_touhoku00_04/11chionji.htm

�q�����i���茧�����s�j

ところが日本では、非常に「墓」というものを大切にします。

これは古墳時代からつながる風習です。


さらに武家政治が成熟してくると、

いわゆる城下町で、寺を一ヶ所に集めていく、

といった設計がなされていくようになりました。


広大な墓地を持つ寺院一ヶ所に集めることは

地形的に防衛しやすい町を作ることになるわけですが、

そもそもなぜ寺院が広大な墓所を持ったかと言えば、

「墓」をまとめることが人をまとめることにつながるという

統治の都合もあったと言われています。


とにかくこうして、庶民の意向からも為政者の都合からも、

「墓」というものが日本の信仰の中心的存在として

大きな位置づけを持つに至ってきたわけです。


ここにおいて、墓が不要な生まれ変わりの輪廻思想ではなく、

死んだら仏になって浄土に行く、それを拝むための墓という、

日本人の「墓」を中心とした浄土思想が

クローズアップされてくることになります。


「墓」を中心とした信仰感。

これが浄土思想が広く歓迎されていった風土の根底であり、

生まれ変わりの輪廻ではない、

死んだらあの世に行きっぱなしの極楽往生を願う信仰感へと

発展していったものと考えられます。

id:hkt_o

私は小中高と仏教系(真言宗)の学校へ通いました。すると輪廻転生の教えを学ぶわけです。先の回答に真言密教は即身成仏の教えなので輪廻否定とありましたが、それはひとつの究極の形であって、誰もが真言を唱えるだけで成仏しますというお手軽な話でない。だから庶民は転生してしまうのであります。

さて、いただいたご意見には一点、飛躍があるように思います。なぜ墓にこだわる日本人が、それでも仏教の一部を喜んで取り入れたのか、というあたり。

2005/04/06 19:46:49
id:morningrain No.7

回答回数824ベストアンサー獲得回数2

ポイント30pt

やはり、日本に入ってきたのが大乗仏教だったというのが大きいと思います。

最初に日本に入ってきたのが中国経由の大乗仏教だったので、もともとの仏教とは違うものが入ってきてしまったという面が大きいと思います。

日本では仏教はあくまで国家仏教として輸入されており、輪廻転生のような個人に関わることよりも「護国安泰」的な国家を守るものとしての仏教といった側面が大きかったということがあります。

また、現在の日本仏教に関して言えば、葬式を営むことがそのメインの仕事となっています。しかし、これは仏教の始まり方からすると全くおかしなことで、シャカの頃の仏教は葬式を行うことはせず、葬式はバラモン教流にしていたと聞いたことがあります。

個人的な結論としては、大乗仏教という一種原始の仏教からは変質してしまったものが、さらに国家仏教として日本に輸入されたため、輪廻転生のような原始仏教の考えが伝わらなかった、ということではないでしょうか?

「自力救済」→「他力救済」(大乗)→「みんな救済」(浄土真宗など)というイメージです。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326151846/qid=11127834...

Amazon.co.jp: 仏教の言説戦略: 本: 橋爪 大三郎

ちなみに仏教の変質については橋爪大三郎の『仏教の言説戦略』が面白いです。

id:hkt_o

なるほど、そもそも輪廻転生の世界観よりも安直な成仏を庶民に説くことになりがちな仏教しか日本人は知らないからである、と。

2005/04/06 19:49:16
id:uumin3 No.8

回答回数108ベストアンサー獲得回数2

ポイント30pt

 私も二度目ですので、この回答はノーカウントで…(urlはダミー)


 前にもちらと書きましたが、仏教以前の日本の他界観がずっと残存していると思うんですよ。

 山中他界、海上他界、地中他界(黄泉)などなどへ死者が赴くという考え方が。輪廻の考えはそれに接木されて(不思議に)矛盾とされずに来てしまっているんじゃないかと。

 だからホトケという言い方自体は成仏した存在を言うのではなく、この世から去った者の呼称となっている感があります。


 そしてカミについての考え方を思い起こしてください。カミという存在は不定形で「ちはやぶる」(道早振る…これは鎌田東二説だったかな)~行ったりきたりするもので、時に依代に憑依して(拍手を打ったりした時ですね)そこに存在し、またいずこへか去るといったものとして考えられてもいたのです。

(勧請された神は分けていくつもの神社にましますよね。そういうこともできる存在であると)

 これにアナロジカルにホトケとか祖先(祖霊)も捉えられたのではないでしょうか。


 お墓に行けばお墓にいて、仏壇に手を合わせればそこにいて、そしてお盆には他界から迎え火でお迎えし送り火でお帰りになる、そこに矛盾を感じるとすればそれは我々の考え方が昔のホトケ観を失ってしまっているからなのではないでしょうか?


 で、確かに輪廻に関しても一定の定着はしていたと思うのですが、それは「永劫の苦」の世界の輪廻ではなかったであろうことも確かではあると考えます。それゆえ解脱に対する切望が今ひとつ庶民に共有されなかったんじゃないかなと。

 この話を政治とか権力関係で読むのは筋が違うと個人的には思います。


 あとなぜ大乗仏教かですが、大乗の発展的な考えとして山川草木悉皆成仏というようなコスモロジーもでてきたはずですし、親和性があったんじゃないですかねより基層の日本的自然観と。大乗仏教は排他性は薄く、諸方でシンクレティックになり得ますし。

id:hkt_o

はいはい。

日本人の適当さというのは凄いですよね。本気で信じていないにもかかわらず生れ変り伝説が大好きですし。このアバウトさがあるので、「この子はおじいちゃんの生れ変りよ」といいながら位牌に手を合わせるのです(笑)

明朝くらいまで開いておきます。

2005/04/06 19:52:09
id:kanija3939 No.9

回答回数164ベストアンサー獲得回数0

ポイント20pt

↑ダミーです

死人の遺族のため。仏様になって、遺族を守るっていう考えからでは?

id:hkt_o

あのですね、死者が「あの世へ行く」ことが救いになるか、「生まれ変わる」ことが救いになるか、というのは価値観の問題なんです。死者が仏様になることが遺族を守ることにつながる、というのは、価値判断の先にある話であって、それでは私の質問への回答としては話が転倒しているのです。

なぜ日本人は、生まれ変わりを否定することが幸せにつながるような価値観を持つに至り、そして仏教を喜んで受け入れたのに、仏教の世界観において絶対に外せない重要ポイントだったはずの輪廻転生の考え方だけはないがしろにしてきたのか。それが私の質問なのです。

2005/04/06 22:15:31
id:su-mo No.10

回答回数15ベストアンサー獲得回数0

ポイント30pt

http://www.hatena.ne.jp/1112759660

人力検索はてな - なぜ日本人は輪廻転生を受け入れず、「みんな死んだら仏様」という考え方に飛びついたのか?

hkt_oさんのコメントを受けて、再度投稿させてもらいます。


”凡人は仏様にはなれない”はずなのが、輪廻転生的思想なんですよね。だから一般には受け入れられなかったのではないでしょうか。身分階級が厳しい時代には、輪廻転生されたくない人たちが沢山いたでしょう。もしも生まれ変わることが出来るのなら誰からも大切に扱われる人間に生まれ変わりたいと皆が思うハズです。

ですから、”死んだら皆仏様”となって生きてる人々に手を合わせて貰い、死んだ後も大事な存在として扱ってもらいたい、という生きた人間の願いが現在の仏事全般に繁栄されているのだと思います。


それから、そういう人間の純粋な願いである仏事を必要以上にイベント化し、無駄な金銭の行き来が葬儀社のところで行われるようになったのは、宗教者たちの戦後の布教怠慢の結果かな?と思ったりもします。葬儀の場合の僧侶と施主の間を取り持ち、細部にわたる葬儀の準備を行ってくれる葬儀社はありがたいと両方で思ってしまいますが、実は無駄なことも多いと聞きました。葬儀社任せの”葬儀式”になってしまっていると、ちょっと少し前にやっていたTV番組をみていて腹立たしく感じました。余談でした(^^;;

id:hkt_o

ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。

現在の日本人の価値観を無条件で受け入れて前提にして議論されては困ります。輪廻転生の考え方は、生命に普遍的な価値を意味を与え、人間だけじゃない、世界の全ての生命を尊重する思想なのです。私は庶民向けの説話を習っただけなので、非常に単純な書き方をしますけれども、仏の教えを実践するということは、究極の無私につながり、幸福な人だけでなく不幸な人にも自省を促すことになります。自分だけが特別な存在なのではない、全ての命に自分の命と同じだけの価値がある、と認めることを迫られるからです。なんて書くと、そりゃウケないはずだよね、って感想が返ってきそうですけれども、それはみなさんが日本人だから。たったひとつの命、私は私、人間様が鳥インフルエンザをおそれて数十万羽の鶏を、「病気の鶏と同じ農園にいたから」というだけの理由で虐殺しても誰も不思議に思わない、そういった考え方が世界にどれだけ多くの不幸をもたらしたか。決してそれは唯一絶対の正しい価値観なんかじゃない。転生思想がもたらす「救い」が「救い」であると認めない人が、今の日本には多いであろうと私は予想しますけれども、まあ、そこまでひとつの価値観に染まってしまえばかえって幸せかもしれないですよね。

閑話休題。

世界中の誰もが墓を作るわけじゃないのです。大雑把にいって世界には転生思想と単生思想の2大世界観が存在し、日本人は仏教に入れ込みながら単生思想の傾向が強い、変な民族なのです。日本の庶民が墓を持つようになったのは、案外、歴史の浅い話なのだそうです。とするとですよ、日本人は転生思想の方に染まってもよかったはずなんですね。なぜ少なくとも明治期にはお盆とお墓が常識になり、死者が転生しないことになってしまったのか。圧倒的多数の日本人が、心底信じるのが単生思想になったのか?

su-mo さんのご回答は、今の日本の空気をよく伝えるものだと思います。ただ、その一歩先を、私は「知りたいな」と思っているわけなのです。

2005/04/06 22:39:25
id:maroyakasa No.11

回答回数15ベストアンサー獲得回数0

ポイント60pt

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480056858/

Amazon.co.jp: 日本人はなぜ無宗教なのか: 本: 阿満 利麿

「日本人はなぜ無宗教なのか」 ちくま新書 阿満 利麿 (著)に書いてあることを要約すると・・・


仏教が死者祭祀に関わるようになったのは、「考」という考えを重んじていた中国に入ったころである。

中国ではこの世でどれほど善行をなしたかが、死後の世界の幸、不幸を決めると信じられており、子は死んだ親の死後の幸福のため、亡き親に代わりこの世で善行を積む。

その善行の中で最も効果があることが死者のために仏に供養することであった。こうした、死者祭祀儀礼の含まれた仏教が日本へと伝来した。

その儀式を、豪族たちが先祖祭祀のために取り入れた。豪族たちの先祖には、「出自の先祖」と「歴代の先祖」という2種類あった。前者は天皇家で言えばアマテラス。後者は現実の先祖である。「出自の先祖」は氏の神として聖地で祭られていた。仏教を利用したのは「歴代の先祖」に対してである。それは彼らが現実に生きていたために「死穢」を免れることが出来ない存在だったからである。その「死穢」を克服し、神、つまり「出自の先祖」に連なる存在となるために、新しく伝来された仏教が注目された。つまり、死の穢れを浄化する呪術の体系として仏教は受容されたのだ。この死の穢れを浄化するという機能は仏教が一般社会に広まる上で重要な役割を果たした。というのも、古代日本の「自然宗教」では死者の鎮魂慰霊の技術が未発達であったからだ。不慮の死や恨みを持ち死んだ人間は激しく祟る霊となると信じられていた。そういった霊に無力であったが為、仏教の持つ浄化の機能に魅力を感じたのだった。

死者の穢れを払ったり、祟る霊を沈めるために仏教が大きな力を持つと信じられたことが、「葬式仏教」の基盤となった。

さらに法然による専修念仏の登場の影響もある。法然の念仏は、もともと生きている人のためのものであったが、次第に広大な阿弥陀仏の慈悲にすがって使者の成仏も願うという風潮が生まれた。

このようにして、「葬式仏教」という特異な日本仏教が15世紀ごろから姿を見せ、16,17世紀には広く定着するようになった


とのことでした。


P50あたりです。

id:hkt_o

ふむふむ。

日本の仏教だって輪廻転生を教えているのに、日本人は伝統的価値観からみて都合のいい部分だけ積極的に取り入れた、という解説ですね。世界には、新たな宗教文化との出会いによって価値観をひっくり返した事例が多々ありますが、日本ではそうならなかったというわけですね。

それはなぜですか? という問に答えは出ないのかな。

2005/04/07 12:59:52
id:matsunaga No.12

回答回数536ベストアンサー獲得回数87

ポイント80pt

http://www.sousou.cc/yougo.htm

葬送共生会/気になるコトバたち_ア01

日本にはもともとアニミズム、アニミスティックな思想があった、というところが原点でしょう。

>>

アニミスティツクなものの考え方は、今日もなお日本人の心の奥に潜んでいる。

このようなアニミスティツクな考え方や行動形式が、今日も残っているのは、じつは仏教の影響による面があるのかもしれない。というのは、仏教は日本古来の精霊崇拝を仏教の枠組みでとらえなおして、より高度な理論構築を目指したと考えられるからだ。日本のアニミズムもまた、仏教に触発されて「神道」というシステムをつくりあげてきた。

<<

http://mandalaya.com/shinbutsu.html

�_���̕���

そして、現世否定のはずの仏教が、中国に入って変質し、それがさらに日本に入ってきた、という要素もあるようですね。

>>

インドで始まった仏教は、中国を通過し道教や儒教の影響を受け、日本にやってきました。

そのため日本の仏教には、現世否定の思想が少なく、先祖供養の儀式が中心となっています。

<<

http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-15.htm

�u���̂̂��v�̐��̂Ƃ́H

この記事の結論は先祖供養肯定ですが、もちろん、もともとの仏教と違ってきた理由は明確に書かれていると思います。

>>

日本土着(いわゆる「神道」)の信仰であったアニミズム的「先祖崇拝」の概念を仏教的にアレンジし直したものが、日本仏教の「先祖供養」(もちろん「輪廻転生」を信じるインドにはこのような考え方はない)

<<

こういう指摘もあります。

>>

お盆の習俗の大半は、日本土着のアミニズム習俗であるということがわかる

<<

id:hkt_o

流れとしてはそういうことだろうと思うのですね。

なぜ日本人が、アニミズムを固守し、道教は受け入れて仏教は都合のいい教義だけ取り入れたのか、仏教に全面的に感化されることがなかったのか。

2005/04/07 13:03:17
id:TomCat No.13

回答回数5402ベストアンサー獲得回数215

ポイント40pt

> なぜ墓にこだわる日本人が、それでも仏教の一部を喜んで取り入れたのか、


とのことですので、ちょっと追記させていただきます。


まず仏教の伝来ですが、これは538年、

百済の聖明王が朝廷に釈迦像と経典を献上した時が

はじまりと言われています。


しかし、仏教というものが庶民の間に広く信仰されていくのは、

実に数百年後のことになります。


ここにおいて仏教を広く大衆に浸透させたのは、

長く朝廷や貴族の崇敬を集めた宗派でも

行と教学に優れた宗派でもなく、

浄土教の流れを汲んだ分かりやすい救世論を説く、

官位を離れた私度僧たちでした。


その布教の成果が次第に宗派としての形を整えていき、

法然上人の浄土宗、親鸞上人の浄土真宗、一遍上人の時宗

などとなっていくわけですが、

これはある意味、それまでの四宗相承や三密による行と教学の仏教、

特別な人しか成仏が叶わないそれまでの仏教感とは大きく異なった、

「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも浄土に行けるという

浄土思想による「新興宗教」の登場だったということが出来ます。


こうして、先祖崇拝のアミニズムとよく整合する

新しい形の日本的民衆仏教が広まっていったわけです。


以上の理解で、墓にこだわる日本人が

仏教を喜んで取り入れていったという飛躍が埋まるものと思いますが

いかがでしょうか。

id:hkt_o

なるほど。輪廻転生の教えがもたらす「救い」の理論は庶民には小難しく、ピンとこなかった。虫一匹の命も人間の命も等価値であるという考え方よりも、人間は人間、虫は虫、みんなひとつ限りの命を生きている、という価値観に勝てなかったのである、と。なぜ日本人がそうだったのか、はわからないのですが、状況整理としてはそういうことなのだろうと思います。

2005/04/07 14:23:16

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