一般に動詞は一義的に定義しやすいが、名詞は一義的な定義は不可能。なぜなら、一人一人の体験や知識に差があるから。このように意味を定義すると、「地球環境問題」という20世紀後半に出現した言葉(名詞)の意味を、人類が理解することは実に難しいということが予測されます。なぜなら、身長2m足らずの人間は、地球規模の環境問題をとうてい認識することができないからです。また、地球規模の環境問題は、ごく最近の事象であり、それを体験した人間も少ないから。どうすれば、無垢なる人間たちに、「地球環境問題」の深刻さを伝えることができるでしょうか。
おそらく、環境専門家の多くも、言葉としては知っていても、その言葉の意味を知らないのではないかと思うのですが。
先ず、本質を理解し論点を整理することですね。環境問題には、ゴミ処理の問題・大気汚染・水質汚濁・騒音・振動…といった様々な問題があり、大気汚染についても、地球温暖化といった問題から、光化学スモッグ、洗濯物への汚染の付着といった様々な問題があるわけです。
これらを、①汚染の種類②汚染が引き起こす現象③汚染による人体への被害④被害の程度といったカテゴリー別に分類し、放置した場合の悪影響を予測し、立証する必要があります。
そもそも、言葉の定義が抽象的であるため、個別具体的に事象を分類し、相手方に共通認識を持たせることから始めないと不可能でしょう。
私の質問は、言い換えるならば、
Think globallyと気安く口にするけど、
人類はグローバルにものを考えることはできない
ということです
言語の意味の特徴から、言葉が空回りして、意味を理解することができないということ
このHPも、わかりやすく解説してくれていますが、本質にはたどり着いていない気がします
もしも人間が、自分の体にあったスケールでしか物事を判断できないならば、何故人は地球がまるいと知り、月まで飛んでいけたりしたのでしょうか?
深刻さは伝わります。
それでももし、伝えられないと思われるなら伝わる部分からゆっくりと進めていくしかないでしょう。どんな小さな存在だって、自分の周りの事くらいはわかるでしょう。そのわかる範囲をゆっくりと拡大ていく。そうすると、不可能と思われていた「月面着陸」が可能になったように、今は不可能と思われることも、いつしか可能になると、信じたい。
西行が、月を愛でる歌を詠んだのは、実は昔から人類は月を見ながら地球を考えていたという説(上田三四二)もあります。
地球が丸いことくらいわかったとして何になりますか
もっと大切なことを理解できていないと思うのです。
自分の周りからゆっくりと進めていく以外にないことは同感ですが、なかなか「地球環境危機」の本質にはたどりつけないと思います
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%D5%CC%A3
意味とは - はてなダイアリー
言葉とは概念を規定するものですが、話者によってその概念がズレるものです。同じ言葉を使っていても、まったく同じ意味でだれもがとらえているということはありえません。例えば「赤色」も、どこからどこまでの周波数を「赤」と呼ぶかについては個人差がありえます。これがまず一点。したがって「言葉としては知っていても、その言葉の意味を知らない」という発言は、「じゃああんたはその本当の意味とやらを知っているのか」ということになります。そして、これは名詞のみならずすべての言葉について言えます。
しかし、ある程度の共通理解は得られなければ言葉として通用しません。「まあこの辺の色は赤と呼ぶ」ということで理解が得られます。したがって、一義的な定義は「不可能」というのは言い過ぎでしょう(名詞の定義が不可能なら同士も不可能、動詞が可能なら名詞も可能)。
また、「知識及び体験の総体」とは、他者との関わりという経験によって調整がなされます。さらに、実体験ではなく伝聞及び推測・想像によっても「知識・体験」は得られます(夢だって体験だし、映画・テレビも知識の源です)。したがって「身長2m足らずの人間は、地球規模の環境問題をとうてい認識することができない」というのはおかしいし、そもそもあなたも身長2m足らずの人間であると仮定するなら、論理的には、あなたが「身長2m足らずの人間は地球規模の環境問題をとうてい認識することができない」と認識することもとうていできないはずですね。
言葉というものは、Aという概念をAでないものと区別するためにある、と考えるとわかりやすいと思われます。したがって、「地球環境問題」について、少しずつ分割して考えてみましょう。まず、「地球」の問題であって、家の中だけ、近所だけ、県内だけ、日本だけ、アジアだけの問題ではなく、また太陽系全体や銀河系に及ぶ問題でもなく、この惑星上の問題である、ということは概念として理解可能なはずです(そこにどれだけ実感が伴うかは別問題として)。また、「環境問題」も具体例を挙げれば理解は可能でしょう。
この質問では、あなただけは地球環境問題という言葉の意味を理解しているが、ほかの人たちは人間だから理解できない、というふうに受け取れます。
ここで「地球環境問題の深刻さを伝えたい」というのは、言葉の問題とはまるで無関係です。いかに「実感をもって伝えることができるか」という問題は、意味論とはまったく関係がありません。
この質問をもう一度読み返してください。あなたは「地球規模の環境問題をとうてい認識することができない」「身長2m足らずの人間」ですよね?それなのに「どうすれば、無垢なる人間たちに、「地球環境問題」の深刻さを伝えることができるでしょうか」と問いかけているということは、地球規模の環境問題を体験した数少ない人間の一人だということですよね?(論理的にはそう読み取らざるをえない)
あなたは一体、何者なのですか?
この問いかけは皮肉ではなく、あなたのおっしゃっていることがすでに矛盾しているのではないか、ということです。
ご指摘はわかります。
「自分だけがわかっている」という立場で質問を出したことが、矛盾というのは、わかります。
正直なところ、私は、最初は、なんとかなるかなと思って、いろいろと考えてみました。
しかし、考えて考えて考え抜いて、また、わずかではありますが、現場での経験や、環境問題に関わっている官僚やNGOの人たちと接して、上のようなことを考えるようになったのです。
私の絶望のほどをご理解いただくことはできますか
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言葉の厳密な定義や意味を追求しはじめると、確かに誰もその「正しい」使用法を知らないように思えてきます。特に、環境問題のような、人が直接「体験」することが極めて難しい問題の場合には、おっしゃるように、疑心暗鬼にとらわれて、絶望的な気分にさえなるでしょう。
しかし、そもそも「近代」に生きるわたしたちは、つねにすでに「伝言ゲーム」の中にいます。つまり、事件や出来事の現場にいあわせることはありえず、どのような事件や出来事も、人伝えに(メディア、教育、ジャーナリズムなど)それが「正しい」ものだと聞き、教えられたものばかりです。つまり、事件や出来事を「体験」することなしに、それが「正しい」ことを信じて実践するほかないのです。それが近代以降を生きる人間の条件です。
だからまず、「地球環境問題」の言葉の意味を確定 することを断念するべきです。
それから、人が「地球環境問題」という言葉を使うときに、その人が実際に何をしようとしているのか、に大いに注目するようにしましょう。学者が、ジャーナリストが、環境保護主義者が、教師が、一般の人々がその言葉を使っている時には、その人が「言っていること」と実際に「していること」の差異に敏感になるように努めることです。
だから、わたしの答えは、こうです。あなたの問題の立て方が、間違っている。この問題に関しては、ほとんどすべての人が、つねにすでに「無垢な人間」なのであり、だからそれをあなた自身が「理解」するよりも「実践」することを心がけるべきだ、というものです。
「認識においてはペシミズムを、実践においてはオプティズムを」です!
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意味を確定する必要はないと思います。
ひとりひとりが、本当の意味を体感すれば。
それ以外に、意味は存在しないのだから。
しかし、あなたは気安く実践といいますが、
何を実践すればよいのですか?
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amazlet.com: 本: 「おろかもの」の正義論
では聞きますが、「地球環境問題」は何故、どのように深刻なのですか?
おそらく結論としては「人類が滅ぶから」になるのではなかと思うのですが、じゃあ「人類が滅ぶ」のは本当に問題なのですか? それは傲慢に過ぎるんじゃないですか?
二度目の回答ありがとうございます。
あなたは「愚か者の正義論」は読まれましたか。
私は読みました。
あの本は、人類は近々滅ぶことを前提にして書いている、なかなかにクールな本です。
「どのように深刻か」というご質問にはどう答えるといいのでしょうか。
人類が暴走して、地球の野生生物が滅び、さらには人類までも滅ぶことが、「問題」かどうか、たしかに議論の余地がありますね。
ここで問題にしようとしまいと、滅ぶのであれば、議論する必要がないのかもしれないと、たしかに思います。
でも、問題にすることを傲慢というのは、いかがなものでしょうか。
私には、知らぬふりして、生活態度を改めないことこそが、傲慢な気がします。
環境問題を考える
URLは参考程度です。
どうすればよいのでしょうね。難しいと思います。
具体的に危機を示すようなデータを探して提示したり、日々周りの人に説いてまわったりするのが、結局は一番の近道なのではないかなと、考えたりします。
いかがでしょうか?
通じないのですよ。
意味が、存在しない人に対して、いかに問題を説いても、まったく通じないのです。
人間は予め自分が知っていることしか、新たに知ることができない、そうですね。
環境問題に興味をもっていない人には、説得のしようもないのです。
もちろん、何年も時間をかけるとか、よほどうまい説得方法を考えつくとかすれば、別なのでしょうね。
この質問は、よほどうまい説得方法を伺いたいためのものなのです
それなら「二十億光年の孤独」なんていう詩は理解不能ですね
・・・んなわけないので、「知識」というのが「直接知識」だけになってるのが問題です。
理系の人間には体験的にあきらかですが、「演繹」により間接的な知識でも言語にできます。1を聞いて20億を知る。
たとえば、元素名は名詞ですが水のなかに水素原子があることは電気分解などの体験によりあきらかなわけです。いちいち実験をしてもよいのですが、実験論文や、理論を説明する論文を読んでも理解できる。
地球環境問題も演繹をつかえば容易に理解できます。私にしてみれば地球全体のエントロピー増大速度が大きくなっている、との一言で理解できますよ。環境庁がまじめにエンタルピー値を計算すればいいんじゃないでしょうかね。
演繹、いいですね。
ものごとをじっくりと考える時間とゆとり。
それがあれば、もう少し、まともな世の中になっていたでしょう。
人の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分の頭で納得のいくまで、とことん考える。
そんな生活ができれば、今のようなカタストロフィックな世界にはなってなかったでしょうね
演繹をするにしても、考える時間や技法、さらには方向性が必要なのだと思います。
どうすれば、人は演繹的に地球と人類の関係を模索して理解することができるのでしょうか。
別に地球環境は悪化などしていません。
我々の言う環境破壊とは人間が住めなくなる/現生生物が生きていけなくなるだけで、生命は何らかの形で生き残っていくでしょう。
上記は地球の歴史のサイトですが、酸素産生生物の登場でそれまで存在した嫌気性生物の大半は死に絶えたといいます。今は地面の奥深くや海底火山周辺にひっそり残るだけです。
また、古生代/中生代境界に於ける酸素欠乏による無脊椎動物の大量絶滅というのもありますね。
http://tech-staff.yz.yamagata-u.ac.jp/kensyu/youshisyu2002/html/...
エネルギー・環境問題(エゴからエコへ)
エゴからエコへと叫ばれてますが、所詮それは人間のエゴに過ぎないのです。
ならば、我々は少なくとも自分達が生き残る術を見い出さなければなりません。そこにはエコではなく、エゴが無ければならないのではないかと思います。
代替エネルギーの多くはその初期設備投資などの経済性が障壁となって普及が進んでいません。ただ、それでも近年は大規模小売店がコジェネレーションシステムを導入したり、エコキュートに見られるヒートポンプ活用の新給湯システムなどが普及しつつありますからまぁ、徐々にではありますが進歩しているのかもしれません。これはこれで、経済性と環境問題への配慮がバランスよく取れてきているからだといえなくも無いのですが。
生物種保護の『生物多様性条約』も、生物の多様性は人類生存・新薬開発等の経済活動に不可欠であるという観点から成立した条約です。
ですから、エコではなく、エゴとして環境問題に取り組むべきではないかと思うのです。
確かに地球規模の環境問題など、市井の一市民には捉え所の無いものに違いないのです。ただ、我が子なり何なりの明日、自分の周囲10mの中から問題意識を持ち、それを拾い集めて解決していく立場が必要なのではないでしょうか?
あなたのおっしゃることが、よく理解できません。
人類が暴走し、多数の生物が絶滅したとしても、多くの毒性物質が残されたとしても、それはそれで運命なのだと諦めろということでしょうか。
そうかもしれません。
何を言ったとしても、何を考えても、世界は破滅に向かう以外ないのだから。それが人類なのだから。
ということでしょうか。
要するに、人類には、何を言ったとしても無駄である、人類に環境問題の意味を教えることは、人類が滅びることによってしかできない、ということでしょうか。
そうかもしれませんね
さびしいけど
人類が定義する地球環境問題というのは、つまるところ人類が生息可能な環境を守ろうと言うものに過ぎず、地球にとっては人類の存在可能な環境というものは問題となる環境ではない。従って、人類が存続可能な環境を維持しようという『地球環境問題』の定義は人類のエゴでしかなく、エゴであればこそ、我が身を守る為の環境保護という視点を持つべきではないかと思うのです。
前文は、そういう意味です。
早い話が問題がでかすぎて実感が湧かず、とりあえず目先の利益に終始しているのが人類の姿ではないかと。
とりあえず、排水に揚げ物の油を直接流すな。海にゴミを捨てるな、から始めりゃあいいんじゃあないかと。
ご説明ありがとうございました。やっとわかりました。
たしかに、環境破壊の元凶である人類が環境問題を考えるというのは、泥棒に泥棒対策を考えさせるような議論でありますね。
人類は、どこまで環境破壊が進んでも、自分のことしか考えないということも、悲しいですね。
回答も途絶えたので、ここで質問を打ち切ります。
禅の悟りのように、人間の考えの及ばない不思量呈をいかに思量するかという問題なのだと思います。
そのように、自分がわからないことを、わかりえない。わかろうともしない。そこに人類の「知恵」の問題があるのだと、最近思うのです。
要するに、言語で考えるかぎり、あなたのように考えてしまう。言語で考える限界です