沢山回答が寄せられていたので、「もう解決しただろう。余計に増やしても良くない」と思い、回答しなかったのですが、お困りのようなので、次のお話を用意しました。教育学と心理学の分野に入るテクニックを使っています。ただし、研究途中で学説として確固たる状況にまで詰めておらず、経験によりできた業績から、この話を作ってみましたので、学会での発表には慎重を期してください。
質問ですが、「このお話を貴方はどう評価しますか?」です。大学で学ばれた方は、できれば大学で課題にしていた事が何か書き添えてくださると大いに参考になりますが、あくまで任意です。
エピソードは、
http://www.d8.dion.ne.jp/~asuwasan/bb/situmon8-15to5.htm
に掲載します。
サイエンスフィクション『エピソード大和の国』かもしれぬ・・・
http://www.hatena.ne.jp/1123431362
人力検索はてな - 「右」と「左」の違いを言葉だけで説明することは可能でしょうか? たとえば、あなたが無線を使って、どこにいるのかわからない宇宙人と会話をしているとします。互いに言..
私も例の質問と回答内容については、興味深く拝見しておりました。
評価ですが、これはどうとらえていいものか……。
結局暫定的に決めるだけですよね。テクニック云々ではないと思います。会うまで左右が決定できないということなのですから。
致命的なのは、「文化の交流は全く」ないのに、
「その他いろいろ身体の臓器や食糧などの事、細胞や染色体について双方の研究がどの程度の進歩を経ているのかについてや、思想哲学といった問題まで意見交換をしました。
そして、大の国の宇宙人と和の国の人間が極めて似ているということが、お互いによって確認され、「身体の機能特性も収斂進化の理論に合致し、同じとみるのが正しいであろう」と考えるようになり、双方の意見の一致をみました。」
この前提がうまれることがあり得ない、という矛盾をはらんでいます。
あと、双方が了承する、という問題ではないです。
あくまでこちらの概念を相手にきちんと伝えることができるかどうか、です。
外交ではありませんし。
というか、これは全く別の問題を解決するためのエピソードなのでしょうか?
だとしたら、その問題はどこに明記してあるんだろう……。
あくまで上記URLの質問を解決するため、と考えました。
そうとらえると、評価は、一言で言えば「的はずれ」と言わざるを得ません。
(ご気分を害されたら申し訳ありません)
私は哲学科の学生で、卒論は進化論がらみのことを書く予定です。
こども向けの読み物ならとにかく、過去の質問の答えとしてはだめだめですね。
左脳と右脳の機能分担が宇宙人にあるとも思えませんし。
左右という大事なものをこんなもので決めるのは変ですね。読み物としては、なにかの落ちがほしいです。
ありがとうございます。
「だめだめ」ですか・・・
この話はお互いの体の特徴が似ていて、しかも「人間の心理」で右と左の傾向を利用して伝えているんですよね?
すでに出ていた質問のほうでは、「文化も体の特徴もわからない」という前提でしたので趣旨はかなり違いますね。
このエピソードの方法では不十分のような気がします。人間の心理、というのはどこの国でも同じなのでしょうか。右利きであるか左利きであるかと言うのも文化や教育の違いで生じるもので、生まれながらに人間は両利きであると言われています。それが、周囲にいる人が右手を主に使い、それを真似て右手ばかり使うようになるので右利きになります。
無意識のうちにしてしまう行動も、その人が育ってきた環境、年齢や性別なども影響してきます。無意識の行動に関する左右の違いも個人によって違ってくるでしょう。
したがって、「心理」を利用して左右を説明するのでは「右が右」と伝えるには不十分のように思えます。
ありがとうございます。
「自転車の前のブレーキをかける方が右です」っていうのもあるんですが、競輪の自転車はブレーキ無いでしょう。
宇宙人が自転車使うか分らないですしね。
Yahoo! JAPAN
いくつかの点から考えて見ます。
「いろいろ調べることから始めました。」のくだりですが、上下を区別するためには重力の必要性などがあり、本質的な意味では合致しないと考えられます。
「大の国の宇宙人と和の国の人間が極めて似ているということが、お互いによって確認され」
は、明らかに仮定として条件をつけすぎているように感じます…がその前提が有ってなので次に進むと。
「和の国の委員は「う」が「みぎ」らしい思いました。」の理論発展はあまりにもとっぴ過ぎると思います。
以下のエピソードも同じ。
「実際に双方が直接面談できる時まで暫定的に『みぎ』を『う』とする」という約束が大の国と和の国の間で交わされました。」
これは、「了解」させることが出来るか、という問には答えていると思います。
ただし、私の想像している質問についてであれば、問は正しく左右を判別できるかであり、無矛盾であれば良いという問ではありませんでした。
さらに言うならば、体の構成、臓器や食糧、染色体、そのすべてが合致する国の人としか左右を決めることが出来ないことになってしまいます。
そもそも、「経験によりできた業績から」の経験は地球上での経験な以上、それを地球以外に適用することは論外だと考えられます。
どのような理論にも適用範囲があるわけで、一般常識、哲学、心理学、経済学(以下略
は地球の人間へのテストの反復的試行によって得られている以上、適用範囲は狭いと思います。
結論を出すために、仮定条件をつけすぎていると思います。
このエピソードと、以下のエピソードは同程度の議論だと考えられてしまいます。
「宇宙人は結婚すると片方の腕の指にわっかをつけます。よってその手が左手です。」
「宇宙人は突然ものが飛んでくると、片方の手で払います。その手が右手です」
どう評価しますか…
論点のすり替え、理論の適用範囲の逸脱。あまり洗練された議論ではないと感じられます。
ありがとうございます。
厳しいですね。(もちろんかまいません)
まとまって回答が来たのですが、コメント書いている間に来なくなりました。
こんな事だって言えなくはないんです。
これは仏教学からです。
「阿弥陀仏に向かって右にみえるのが、観世音菩薩です。向かって左にみえるのが大勢至菩薩でこちらのほうは観世音菩薩よりもデカイです。そちらにも行っているので、観法をしてください。」
これは真宗学からです。
「阿弥陀如来が立って上げている方の手が右手です。どこにでも至りとどいているのですから、信受してください」
これだったら、余所でやれ! 邪魔だ黙れ!!
となるでしょう。けれど、仏教の僧侶はこれが本当のことという話を年がら年中しているわけです。
うがった見方をすると、「この『右と左を伝えられるか?』、という質問は、本当の話を伝えるのに理論や科学といった文化文明の尺度に位置する道具を使って伝えることは不可能であるし、ときに非常に堅固な拒絶にすら遭ってしまうものである。」ということを、宗教者を養成する学校の方が学生に体得させようとして与えた課題ではないかと考えてしまうくらいです。
まだ、10件ぐらいは待っていますので、どうぞお気軽にお書き下さい。
http://www.hatena.ne.jp/1123431362#:detail]
この具体例が統計的にかなりの確率で正しいことを示す数値があれば、面白くはありますね。
ただ、ここには示されていないので、違和感が残ります。
URLの質問が元質問だとすると、他の回答とは発想方法が違う点は面白いと思います。
ありがとうございます。URLが元の質問です。
発想方法の話を振っていただいたので、「テレパシーで伝える」とも、考えたんです。
テレパシー・シンクロニシティーの探求はしました。
それで、画像を見てテレパシーを用紙不要のファックシミリとして使う感覚で画像伝送が出来るか試行して、出来ないと言うのは無理だというふうに考えています。
別になりますが、念写とかポジティブな影響のでる分野はどうか?とも試行したんです。
写真もモノクロなら撮影から後の全工程自分で処理できる技術を身につけて、やってみたんです。
念写はできますね。シッカリした画像や意味の取れる画像は私では力が足りないらしいですが、雲のような光とか、ピンぼけの花のような念写は出来てしまうようです。
それから、写真屋さんには大変申し訳なかったんですが、写真を撮影して現像処理を注文するときに、現像を業者が失敗したようにみえる、影像をフィルムに念写することを試してみたんですが、三回試して、三度とも「お詫びの手紙付き料金不要で代替フィルム差し上げます」となりました。
ということは、気をつけないと、私の場合大切なシーンを撮影したフィルムを台無しにしてしまう危険な体質かもしれないので、気をつけなければいけないと思っているんです。(昔の事ですが写真屋さんゴメンナサイ)
長コメントもゴメンナサイ。
紹介の書の読者ではないのですが、左右の尊卑は日本でも歴史上の対立をしてきているはずです。そして今も矛盾を抱えたまま。
漢音では「左右」と言い、訓読みでは「みぎひだり」と言う。ここで順序によって優劣を示している。
個人的に私は、左尊 右尊はコリオリの力と関係している…と考えている。古事記の国生み神話では、それに決着をつけることから始めているのが興味深い。これは仏教と神道の違いとしても見出せるかもしれません。
(3)に関して言えば、右利きが正道だとの常識が先にあり、自然光を取り入れるために南窓を固定され、書記中手の影にならない様に黒板を西方に配したという合理的な背景があったはず。例題に本末転倒を感じざるを得ませんわ。
「左右」、これは「さう」と読むのが多いですね。
漢音ではなく呉音ではないかと思うんですが、いかがでしょう?
漢音で読んでももちろんかまわないんですが、それだと「サイウ」なので、現在は「さゆう」。本題からそれました。
(3)は、先生してる友達などに取材したんですが、必ずしも窓が南に固定されているとは限らないんです。私が大学で教職課程履修しているとき、これ(生徒からすれば左で前の方の席に座ると、先生とのアイコンタクトが盛んにあるので、積極的な子が座りたがる席だ)は、かなり有力な説だったんです。
本末転倒ですか…
いえ。そういうことではなく、左右の対概念を総称するときに、
左右:さゆう、さう
右左:みぎひだり
と、入れ替わる事を指摘しているのです。
漢字、呉音、音読み表記は迷いましたが、表現の主体はそこではありません。紛らわしい表現で申し訳ありませんでした。
教室の空間的配置は位置関係を伝えやすくするための便宜ですので、正確な一致がなされているという指摘ではありませんのでご理解を。
蛇足ながら、
板書と教師と生徒の位置関係ですが、教師の利き手に左右されるのはもちろんのこと、その板書時の教師の姿勢の癖によっても、生徒の位置は変わるでしょう。振り返る向きも、板書しながらチラ見する教師は空き手側から生徒を見るだろうけれど、利き手側から向き返る教師も居る。黒板に対し左右立ち位置によっても変える人はいる。板書にノートに複写する事に熱意ある者は、教師の背に隠れ書記中の文字が見えない事を嫌い、利き手側に席を取るでしょう。これは他の質問にあるような右脳左脳の役割の差異を表出したような質問ほど、この設問の結果が一般性があるとも、統計的な優位が左右の差として表れるとは、私にはとても思えないのですが。
特定の教師の経験上、そういった確信に至る事は大いに有り得るとは思いますが。
「黒板を背にして話をします」なので、板書しない講義のつもりで書いたんですが、「もっと詳細に書かなければ質問する資格が無い」と指摘されたものと解釈させていただきます。
myogab様、皆様、どうも失礼いたしました。
次に新しいことで、質問しますので終了にいたします。
ありがとうございました。
どうもありがとうございます。
批判的にみても、全然かまわないのです。
http://www.hatena.ne.jp/1123431362
の質問が締切ったまま終了しないので、困っているんだろうと、思ったのです。
終了してくれないと、いわしに書けないので、待っていると忘れてしまうので、公開して、「どうですか?」と言ってみたのです。
「暫定的に決める」のは、政治的な雰囲気ですね。
なるほど。