【質問】
日本史上の「踏み絵」を踏んでしまったキリスト教徒は、神学では許されますか?
一般論として「物理的なモノを否定すれば、心は弱くなる」とは思いますが、
ガチガチの神学ではどのように考えるのかな? …と疑問がわいて質問しました。
申し訳ありませんが、以下のページは対象外とさせてください。
(パッと見たくさんあったのですが、強い感銘を受けなかったので。)
・遠藤周作の著作が、主要な情報源になっているもの。
・「踏み絵はただの図像(またはイコン)である。
わたしの宗派では、このようなものに聖性を認めない。」という構成のもの。
・印象批評…「わたしならこうする・こう思う」がメインのもの。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AD%A6
神学 - Wikipedia
残念ながら、決して答えることのできない質問です。これはまず「ガチガチの神学」という共通見解が存在しないことによります。神学そのものが一枚岩ではない以上、いくつもの流派があり、異なった意見が出てくるものと思われます。
福音書派や、エホバの証人、カソリック、プロテスタント等宗派によっても考えの差はあるでしょう。答えるとしては「神学によっては許すだろうし、許さない可能性もあるだろう」と言うくらいしかできないと思われます。神学の多様性を指摘することで「答えはない」と申し上げることならできますが・・・
http://www.kinpouden.com/tek/dial/0205.htm
七たびを七十倍するまで
キリスト教で新約聖書の記述以上の神学は存在しないのではないかと思います。
聖書の記述には次の様にあります。(大意です)
「もし、誰かが私に罪を犯した場合、何度まで赦さなければなりませんか?」という弟子の質問に対して、イエス・キリストは
「七度を七十倍するまで赦しなさい。」
と言いました。その罪を犯した人が悔い改めて来たなら。
大事な事は、隣人を大事にすることだと思います。過ちを犯してしまったとき、互いに理解し合い、和解することを大切にしていると思います。
イエス・キリストは「一番大事な教えは何ですか?」と質問された時、神を愛することの他に、
「あなたの隣人を愛しなさい。」と言ったと聖書にあります。他人を自分のように大事にしなさい、と教えました。
踏み絵を踏んでしまったことについて、私自身は個人的に何を言うことも、言えるとも思いません。そして、誰もそれを裁くことはできないでしょう。
キリスト教では、神様が赦してくれるかは、人が言及できるレベルとは言えないでしょう。
そして、「神を現した」と言われるイエス・キリストは、「あらゆる人の罪の赦しのため」自ら十字架の死を受け入れたとされています。
十字架に付けられた時に、キリストは七つの言葉を言ったと記録されていて、その中には
「主よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか分からないでいるのです。」
という、自分をムチ打ち、ツバキをかけ、ののしり、挙句の果てに極刑である十字架刑で抹殺しようとした人々に赦しの言葉を残しました。
これを超える神学は、絶対にないはずです。
参考にして下されば、と思います。
みなさま、回答ありがとうございます。
>zappa様
操作を間違えたため、まとめてコメント状態になり申し訳ありません。
「再建主義大論争」のページ、見せていただきました。全部理解できたとは思えませんが、各派入り乱れてものすごいですね。
「ガチガチの神学」という表現ですが、高校の世界史レベルで「神学=カトリック」という印象を持っていたかもしれません。
神学も現代社会とは無縁ではないようで、「少数の有力意見に収束するのでは…?」と期待するのは間違いでした。
>hareluya_hate様
わたしの質問自体が、
「この行為をしたものは、この罪に値する」という、法律的な決め方ができるという前提を持っていたな…と思いました。
いまさらですが、キリスト教は内心を問題にするものだったのですね。