前回みなさんのお陰で友がモルモン教に入っていることと、モルモンの功罪について学びました。さて、モルモンはだめ、と言った場合、なら他の宗教をすすめるのか、それとも宗教自体をすすめないのか、悩みます。

単に友ではなく、自分の子供だったらと考えるとこの機会に何か自分なりの基準を儲けたいのです、何かを信じることは悪ではないし、かといって新興宗教にコントロールされると助けられないし。参考になる意見をお願いします。

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回答8件)

id:PPPz No.1

回答回数1124ベストアンサー獲得回数13

ポイント14pt

みなさんがどのようなこと考えているのにいろいろ触れてみるといいと思います。

けっこう前の調査なのですが、こんな調査の結果がのっていました。


こと宗教については、サービス業などで話題にしてはいけないこととも言われているように、非常にデリケートなことだと思います。

いずれにしても、金銭的なトラブルでもないかぎり、他人に対しても信仰の自由を尊重するべきではあると思います。

なにかを信じるということはたしかに悪いことではないですよね。


まずすべてを肯定してみて、そこでいろいろ判断してみるといいかもしれませんね。

id:COKE-YES-COKE

本当にとくに日本では否定的な面も含めてデリケートですね。

2006/02/13 04:03:33
id:koyajiinu No.2

回答回数81ベストアンサー獲得回数0

ポイント14pt

http://www.hatena.ne.jp/1139738675#

人力検索はてな - 前回みなさんのお陰で友がモルモン教に入っていることと、モルモンの功罪について学びました。さて、モルモンはだめ、と言った場合、なら他の宗教をすすめるのか、それとも..

僕の友達も一時期、(新興)宗教にはまって大変だった経験があります。


その時に感じたことは、宗教は社会生活を円滑にするものだったり、心を豊かや平穏にしたりするものであるはずだということです。


そのことから、「他宗教を批判する宗教」はまず間違いで、「お金を取る」のは論外だと思いました。


http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2004msg/040613.htm

ユダヤ教、イスラム教、キリスト教

また、キリスト教に関するサイトで、『本来、キリスト教は入るのも出るのも自由です。それは教会も同じで、気に入らなければ出て行けば良いのです。ところがたまに強制、脅かしなどで離脱を妨げたり、強烈な指導でマインドコントロールじみた束縛を与えることがあります。最近、いわゆる教会のカルト化ということがしきりに言われるようになりましたが、これなどは未熟でキリストの教えを全く履き違えた教会と言わねばなりません。』


とありますが、これにも賛同します。


宗教を信じること自体は素晴らしいことだと思います。現に日本以外のほとんどの国の人は宗教を信じているわけですので、これからの国際社会の中で、宗教に対して批判的ではまずいと思います。

id:COKE-YES-COKE

それは言えます。宗教は人のためであって神のためではないと考えたいです。

2006/02/13 04:04:37
id:jyouseki No.3

回答回数5251ベストアンサー獲得回数38

ポイント14pt

http://www.jtvan.co.jp/link/

宗教関連リンク集

宗教は勧めない方がいいでしょう。

今の世の中、非常に多くの種類がありすぎて混迷しています。

入信することによって、救われる人も中にはいますが、不幸のどん底に陥る人もいます。

その人に勧めたことによって不幸になったら、あなたに責任はあります。

でも勧めなかったからといって、幸せになれなかったとしても、あなたは何も悪くありません。

基本的にこれからの時代の宗教は本人が自分の意思で行うべきであり、他人を勧誘して、その人の人生を変えてしまうことは許されるべきではないと思います。

id:COKE-YES-COKE

大人でも入ってしまって抜けられないこともありますからね。

2006/02/13 04:05:15
id:impetigo No.4

回答回数2545ベストアンサー獲得回数8

ポイント14pt

http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/96f8edaac377bf9803d52b2c0bf...

玄倉川の岸辺:異教徒は異教徒として誠実でありたい

余りにもスケールが大きくてすいません。

でも、この様な記事が貴方の周りのストレス緩和、物の考え方にちょっとでも参考になれば・・・それにしても外交も絡んでおりいくら何でもと思います。その時は怒ってください。善処いたします。

id:COKE-YES-COKE

よんでみます。時間下さい。

2006/02/13 04:05:36
id:baggins No.5

回答回数144ベストアンサー獲得回数3

ポイント14pt

まず第一に、無宗教か宗教かというのは選択の問題ではない気がします。超現実的なものを信じる人は宗教を否定されても他の宗教に走るか超越的なものを信じ始めるかしてしまうのではないでしょうか。

(たとえば、昔なら共産主義やオカルト、今なら細木数子とか江原啓介とか)


そうなると、次はどの宗教をすすめるか(好ましいか)という問題になります。

この時問題になるのが誰の利益を最優先するかです。


・あなたの利益を最優先する場合

あなたの友人(子供)があなたを煩わせない宗教がいいでしょう。その点、カルトや原理主義は積極的に布教を試みるため望ましくありません。メジャーな宗教、できれば多神教がよいと思います。(仏教など)


・次に友人(子供)の利益を最優先する場合

宗教というのは信じている本人はたいてい幸せなので、その宗教が長く続いていくかが問題です。(たとえばオウム信者の悲劇は麻原が逮捕されて洗脳が解けてしまったことにあります。家族の苦労はともかく、いまだアーレフにとどまっている信者は主観的には幸せでしょう。)そうなると問題はその宗教が長く続くか、信者を引き止めておく力があるかが問題です。この点から見れば、カルトや原理主義がいいかもしれません。ただしカルトに関しては教祖が逮捕されて洗脳が解けてしまう可能性があるので注意が必要です。長い歴史を持つ宗教もこれからもすたれないであろう、という点では優れています。


普通は自分の利益も友人(子供)の利益も考えると思うので総合的に判断してみます。そうすると、あまり積極的な布教もせず、これからも長く続いていくであろう仏教(の歴史を持つ一派)が良いのではないでしょうか?

ただし、あなたの友人の場合、キリスト教系の宗教を信じていますから、キリスト教の中で穏健な教説をとる教派の方が誘導が簡単かもしれません。

id:COKE-YES-COKE

ほんとに難しい問題ですね。

2006/02/13 04:06:11
id:nischiura2006 No.6

回答回数734ベストアンサー獲得回数4

ポイント14pt

①モルモン教は新興宗教ではありません

②信仰の自由は親子でも侵せません

③私は無宗教ですが人の宗教に口を挟むつもりは全くありません

id:shingo_uno No.7

回答回数24ベストアンサー獲得回数0

ポイント13pt

http://goodlinks.jp/

Good Links Japan - グッドリンクス

アドレスダミーです。


宗教を信じる、信じないと言うのは個人の自由だと思います。

新興宗教だから、無宗教だから駄目だということはないでしょう。

ですが、特定の宗教を他人に強制するというようなことは許されないと思います。


現代の日本は物的に豊かになりましたし、滅多なことで死ぬということはなくなりました。それが現在の日本の宗教離れを加速させているのだと思います。


そもそも宗教は人間の弱い部分をカバーする為に生まれたものですが、それを商売に利用したり、政治活動に利用したりするようなことが行われているのは明らかにおかしいことです。


基準と言うことですが、それは自分の正義と法と一般常識に照らし合わせて判断すればいいと思います。

id:COKE-YES-COKE

モルモン教は結婚するなら同じ教会員をしか許されないのでしょうか。このようなパターンは新興宗教と似ていると思うのですが、その意味で、あまり良い印象は得られませんね。

2006/02/13 04:08:46
id:TomCat No.8

回答回数5402ベストアンサー獲得回数215

ポイント13pt

http://www.geocities.jp/asatosen/

一粒のぶどう 無教会キリスト教入門

私は、自分自身は信仰を持っていますが、

宗教団体というものに関しては否定的です。


神を信じるということは、全ての人々が

等しく万物の創造主である神に愛されている

と信じることですから、これはいいことだと思います。

そこから、人類愛が育まれてきます。


でも、宗教団体という組織に縛られてしまうと、

主義主張が、その団体の利益のためだけのものになってしまう。

ここが問題なんです。


宗教団体にのめり込んでいくことは、

望遠鏡通して遠くを眺めることに似ています。


たしかに高尚な教えを得て、未信者には見えないような

真理までを見通せるようになったつもりにはなれるでしょう。


しかし、望遠鏡を通して見る視野では、

自分の足元が見えません。

自分の手の届く隣りすらも見ることが出来ないんです。


もし道を行くの行列があったとして、それが全員

望遠鏡を覗きながら歩いていたとしたらどうでしょう。

「おい、足元ドブ」

と忠告したって誰も気が付かない。

次々とドブにはまって転んでいく仲間の姿すら見えません。


わずかにドブにはまらなかった人たちだけが、

正しい道を進んでいると信じて、

相変わらず望遠鏡で遠くを見ながら黙々と進んで行く。

そんな行列。


宗教団体って、そういう恐さがあると思うんですよね。

これでは信仰とは遠く無縁の世界に行き着いてしまいます。

こういう恐さは、伝統宗教にも新興宗教にも存在します。


信仰は、団体などに所属することなく行えます。

キリスト教で言えば、ただ聖書を読み、

イエス様を個人的な救い主として信じると心の中で宣言する。

それだけでいいんです。

その日から、その人は霊の世界において

クリスチャンとなります。


人の社会においてクリスチャンと名乗りたければ

どこかの教会に所属して洗礼を受けなければなりませんが、

信仰そのものは、そんな組織団体とは無関係に持つことが出来るんです。


教えの全ても、ただ聖書のみに存在します。

人に教わる必要なんてありません。


福音も、ただ人のため、社会のために

尽くしていく行動で現せばいいんです。

信者を増やそうなんていう行動は全く必要ありません。

本当の信仰なら、全ての人が同じ神によって創られたと信じるなら、

そもそも布教などすることが間違いなんです。

全ての人は生まれながらに、その創造主たる神と

しっかり愛で結ばれているはずなのですから。


カトリックのマザーテレサは、インドに渡り、

ヒンドゥ教寺院を拠点に活動されました。

教会など無い所に乗り込んで、違う宗教の施設を借りて、

そこで異教徒の人々の救済に尽くしてきたんです。


それがカトリックの指令だったわけじゃない。

それで信者が増えるわけでもない。

何の見返りもない、宗教とは無縁の人道活動。

でも、それでたくさんの人々が救われました。

人の作った宗派教派の垣根をブチ破って、

ただ人類愛を発揮して働き続けました。

ここに信仰に基づく行動の神髄があると思うんですよね。

ひとつの宗教団体にこだわっていたら、

とても出来ない活動です。


私は、信仰を持つことは良いことだと思います。

しかし、それは宗教団体に所属することとは違います。

自らの意志で、自らの心に、内なる信仰を確立する。

そして、信仰で咲いた花は、特定の団体の中ではなく、

広く社会の中に役立てて実らせていく。

それが大切だと思っています。


キリスト教には「無教会」という潮流があります。

たった一人で聖書に基づく信仰を行う人もいます。

仲間同士集まってグループを作る人たちもいますが、

宗教団体としての特別な枠は作りません。


誰も縛らず、誰にも縛られず、ただ一人一人が一房の葡萄のように、

イエス様という葡萄の木につながっていく。

キリスト教には、そういう信仰のあり方もあるんです。


特定の団体に固執する人には、そういう潮流も知ってもらえると

少しは何かが変わってくるかな、という気がします。

id:COKE-YES-COKE

私もそう思いますし、そうあるべきが理にかなっているとも思います。ああ、しかし悲しいかな

特定団体にかたくなに入ってしまった人は

なかなか救えませんね。

2006/02/13 10:31:38

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