簡単にいうと映画マトリックスのような世界のことですよね?
正直、区別できないと思います。人間のほとんどは目に見える、自分が体験したことがある事しか信じない生き物ですから気付く事はないでしょう。
あえて区別する方法があるとしたら、ふとした時に感じる『違和感』『喪失感』『直感』ですかね。映画、アニメ、漫画ではそんな感じです。
もしかしたら今このときが現実とは限りませんよ?
確実に区別することはできないと考えます。
現実世界そのものが五感というセンサーを通して脳が作り上げた仮想世界と言えると思います。
たとえば、耳鳴りという現象は現実世界には「音」は存在しませんが、本人には実際に「音」として聞こえています。脳の作り上げる仮想世界においては音として存在している、ということになります。
聞こえる音が「耳鳴り」なのか「実際に生じている音」なのかは自分以外の外部のセンサー(他人あるいは機械など)を頼らなければ、判断不可能でしょうが、その外部センサーの信頼性を保証するものはない(現実世界の産物か仮想世界の産物か確認できない)と思われます。
特に条件もないようなのでつらつらと。
この場合は、仮想現実の例として「夢」を想像するとわかりやすいと思います。
まず、自分で「これは夢だ」と気付くというケースは割とレアです。大抵、夢を見ているときの夢の中の自分は夢を現実だという前提で感じ、考えてます。完璧な仮想現実が実現するとしたら、それは意識に働きかけ、操作を行うような仕組みがいくらか用いられるでしょうから、夢を夢だと確実に気付く手段がないのと同程度に、現実世界と仮想世界を見分けるのが困難だろうと予想します。
それくらい仮想技術が発展したとしたら覚醒装置の実装が法で義務付けられたりしそうですね。
夢との比較で考えましたが、完璧な仮想現実とは人工の夢なのかもしれません。ほっぺをつねるといっても、痛覚の再現ぐらい実現されそうな気もしますから、やはり覚醒装置がないと区別するのは困難ではないかと思います。
それでも区別する方法があるとしたら、逆転の発想ですが、今見てる夢(仮想世界)こそが現実だと認めてしまうことだと思います。現実とは意識の承認作用だと定義すれば、認めることで仮想世界を現実世界にできるのではないか……なんて、かなり苦しい方法ですねー。
http://www.imb.me-h.ne.jp/~kihara/
古典的なのは、ほっぺをつねる、という奴ですね。
つねる場所は、何もほっぺでなくても、
腕、背中、急所…いろいろあるでしょう。
仮想世界が内側で、現実世界が外側です。
仮想世界とは、自分で生み出した世界、あるいは機械的に作られたバーチャルリアリティ等がありますが、そのいずれも現実世界の中で生み出された世界です。
「仮にこうあればいいなぁと想う世界」それが仮想世界であって、どう考えても現実の中で生まれてます。
可能世界の話と推察しました。主客問題や社会学的なアプローチでしたらごめんなさい。下のサイトは面白いですよ。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060618
哲学的な記述なら
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4140017902/
がよかったです。
その「仮想現実世界」が、どういう機構で成立しているのか、現実世界とどういう関係になっているかで、答えは違ってくるでしょう。
例えば、夢を見て、現実と区別できない場合があり(夢のなかで、夢だという自覚がない場合)、そこで自分が死ぬとかいうことになった場合、目覚めれば死んでいなかったということになります。
また、こういう場合でも、夢の中の死の恐怖があまりに大きく、仮に身体にまで影響するような激しい感情で、心臓などの脈拍数が極度に高まり、その人が、心臓に何か問題を持っていた場合、心臓が止まって死んでしまうというようなことが起こるかも知れません。
仮想世界というのは結局自分の中だけの世界で現実世界は、自分だけの世界ではなくて、ほかの人間たちと共有している世界だと思います。絵や小説などは、自分の中の仮想世界をみんなと共有している現実世界にひっぱり出している状態だと思います。
まず、設定条件を自分なりに明らかにしてみたいと思います。
「区別する」を「違いを認識すること」と理解し、
「認識する」という行為を「脳による情報処理」と考えたときに、
「脳に対するインプット」が「実在」する→現実世界、「実在しない」→仮想世界、という話だと理解するのが一般的(学者ではない自分が考えられる範囲)かと思います。
つまり「実在」するとはどういうことかをまず考える必要があるだろうというのが私の考えなのですが、「実在する」かどうかを認識するのもまた脳の判断ですから、「区別は無理」ではないかというのがとりあえずの結論です。
自殺をして目覚めれば仮想世界だったとわかりますが、目覚めなかったときに「現実だった」とわかることができないので欠陥回答かな、と。
さて、概念的なものと「実在」については、養老孟司さんが「完璧な直線は頭の中にしか存在しないが(概念に過ぎない)、役に立っている」と書いています(「カミとヒトの解剖学」)。
物理的な存在については、batti55 さんが紹介されている1つ目のリンクにある話がおもしろいですね。
そして、「ユーザー イリュージョン」という話もありますね。
amazon : http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314009241/249-1479352-...
文学だと、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を思い出します。
仮想という言葉を「バーチャル」と解釈するなら、
virtual = (形容詞)表面的にはそうではないが、実質上の
なので、仮想世界は現実世界です。カメラでモノを見て、マジックハンドでモノをつかんでるようなもんでしょう。
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しかし、仮想という言葉が和英辞典のとおりに
imaginary = (形容詞)想像上の
ならば、これは物語の世界を意味するでしょう。
現実世界で「本」を読んでいる脳の内部状態とでも言おうか。
一人の人間の中だけで完成している世界が仮想世界、人とのかかわりによって生まれる経験や体験が現実世界という感じでしょうか。
例えば、同じサッカーをするという行為をとっても、テレビゲームによって感じる体験は仮想世界。実際にボールをけって感じる体験は現実世界。
世界の比較については、何をもって内側とするかが不明瞭ですが、仮に、二つの世界に主従関係があり、主=外側、従=内側とすると、現実世界を主、仮想世界を従とすると、従は主に含まれ、仮想世界が「内側」と考えることはできます。
しかしこれは、現実世界を主、仮想世界を従と考えたからです。逆に、現実世界を従、仮想世界を主とすると内側と外側は入れ替わります。
ある、定義によって、二つの世界の相対関係がわかれば、内側、外側、という判断はつけられると思います。あとは定義しだいという感じでしょうか。
胸骨をこぶしでゴリゴリとしごく。女性なら乳頭をつねってみれば良いのです。痛いと思えばめでたし!!現実だーね、痛い、痛みを感じるって言うのは自分の脊髄、脳のわけだから勿論内側でしょ!
どんな状態の仮想世界であろうと、その世界に住むに人がその世界で生まれ育ったと言う認識を持っているのであればその世界の他に世界があるかどうかを認識することすら不可能です。
たとえ現実世界とは全く違う物理法則を持ち、三次元空間ですらないような世界であろうともその世界で暮らし、その世界を当たり前と考えて生きてきているのですからその世界を仮想世界だと見破る確証的な思考や、物的証拠が出てくるはずがありません。
自分の世界が実は仮想世界ではないかと言う疑いは誰もが持つでしょうが、現実世界の人も同じ疑問を感じているでしょうから現実世界の人間とそれほどの差異がなく、確証足りえません。
魔法や空間の歪み等、現実問題ありえないものがあったとしてもそれを当たり前だと認識しているのであれば見破ることは人間には不可能であると言えます。
一つ方法があるとすれば、現実世界の者が仮想世界のものに干渉すると言うケースのみですね。このケースならば仮想世界の者は世界が二つ以上あることを確証的な体験により認識できます。
ですが、逆に現実世界の者が「仮想世界が実世界であり、現実世界が仮想世界であるのではないか?もしくは第三世界によりその両方の世界が作られているのではないか?」という思考が巡り、堂々巡りになってしまいます。
当然仮想世界のものも同じ考えをもつでしょう。あくまで現実世界のものと同じ立場に立っただけといえます。
もし、解決策があるとすれば異次元世界の存在、非存在を完全証明する理論が現実世界に既に完成しており、それにより仮想世界や現実世界などの区別がつけられている場合ですね。
これはオーバーテクノロジーですのでなんともいえませんが
人によると思うけど、
僕は、区別できます。
只、普通に日本に生きてると区別しにくいと感じた時はあります。
ケガや重い病気、
海外での生活など
自分と向き合う時に
リアリティー感じる
と思います。
海外で生活してみてください。
区別できるようになりますよ。
きっと。
世界とは認識の範囲です。その内、現実世界とは限定されないものであり、仮想世界とは限定されたもの(必要条件)です。なので、現実世界は可変で、仮想世界を含みます。
世界と世界があった場合、その全体が現実世界です。仮想世界があった場合、認識の範囲を定義し、知っているはずです。
意識はひとつしかなく、知らないものには言及できないのですから。
というのが私の考えです。
私が思いますに、仮想世界が現実世界化はそれらの外側からのメタな視点がどうしても必要だと思います。
例えば、カーテンを閉めた入居前のアパートの部屋が何号室かを知るには外に出て扉に書かれている部屋番号を見る必要がありますよね?それと同じです。
以上が私が普通に考えた結果ですが、ここから下はへそ曲がりな考えです。
意味論的に言うならば、仮想世界という言葉も自身の設定した定義を満たすものなので自分の頭の中での定義を設定しなおせばいくらでも区別ができるようになりますので(例えば「りんごが存在するのが現実世界」と定義すれば、今のこの世界が現実世界となります)、私としては強引に定義付けることしかないと思います。
http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/LaoChuang/DreamOf...
「どちらが内側の世界かわかりますか? 」ということですが、
内側にいる人からは、外側の存在すら見えないので、比較すること自体ができないでしょう。
外側の人は、内側の存在が見えるので、比較することにより区別できるでしょう。ただし、さらに外側があることには気づかない。
すなわち、内側=仮想、外側=現実という二極対立的な構造ではなく、卵の黄身の外側に白身があり、さらに殻があるように、どこまで行っても、さらに外側が無限にある構造なのだと思います。
ただし、無限だと本当にわかったとき、自分より外側の存在に気づいたことになる。これが、仏教などでいう悟りの境地ではないでしょうか?色即是空とは正にこのことでしょう。
言葉足らずで、ちょっと飛躍がありますが、この辺で終わりたいと思います。
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