慈しむ気持ち,ではないでしょうか。
これを取り上げたら悲しむだろうな,これをあげたら歓ぶだろうな。
こんなことしたらこう思うだろうな,という,相手に幸せでいてもらいたい,という気持ちではないでしょうか。
僕は見返りのあるなしで愛かどうかなんて決められるとは思いません。
その人の幸せだけを願う。
それも立派な愛だとおもいますし、自分も愛されたいし、相手も愛すというような愛もあるとおもいます。
アイドルのファンになるのも見返りはありませんが立派な愛でしょう。
見返りを求めない愛は神にしかない、なんて嘘だとおもいます。
「恋」には見返りを求める部分もあるかもしれませんがこと「愛」に関しては。
愛は「愛している」と自分が思えばそれは愛だとおもいます。
でないとぬいぐるみやアイドルを愛することができなくなってしまいますから。
藍あればこそ、ですよ。
なるほど。自分の直感が愛している、であれば、愛なのですね。ありがとうございました。
人の幸せが自分の幸せになる=愛というように考えれば、「偽善」にならないのではないかと。人の幸せが増えれば、自分も幸せと思える、というようにならないのであれば、愛は無いってことじゃないでしょうか。
もし、人の幸せが自分の幸せと感じなければ、っていうようになれば、偽善なのでしょうが、そのように思えないのであれば、それは、愛がないってことで、偽善じゃないですし。
んーーーなるほど。。人の幸せ=自分の幸せ、と感じられない人はそれを「偽善」と考えるほかにその原理を理解する方法がないわけですね。とてもよくわかりました。ありがとうございます。
私と嫁さん+子供2人でそれなりに幸せに暮らしています。
子供達を愛しています。
ある夜よめさんと話をしました。
「ふと、もし子供が道路に飛び出して、もう助けるのは無理だと思っても、道路に飛び出して、自分の命と引き換えに子供を助けようとしてしまいそうなことに気づいて怖い」と言ったところ、よめさんも自分も同じだと思うといってました。
なので、私は「自分よりもその人の幸せを願える状態のこと」ということに賛成です。
愛の形はいろいろあるのかもしれませんが、その一部ではあると思います。
読んでいて涙が出そうになりました。私には子供がいないので、とても具体的なご意見に胸がきゅんとしました。ありがとうございました。
>「見返りを求めない愛情は神くらいしかなしえない。単なる偽善である」
これは誤っていると感じます。
はてなは有料サイトであるものの、世間の金銭感覚の常識から考えて、回答者は労働力に見合うだけの報酬が得られるわけではありません。
はてな以外の無料Q&Aサイトで素晴らしい回答をする方がいることから考えて、やはり偽善者でない本当の愛を持った人は存在すると私は思います。
また、神の存在を否定するわけではありませんが、何も悪いことをしていない人が殺されたり、病気になったりするのを放っておく神は、そんなに愛情が深いとは思えません。
単なる無料Q&Aサイトでも愛になりえるのですね。しかし単なる質問&答えくらいであれば、知らない人に知っている人が教えてあげるのは普通だと思うのですが。それが有料化されることによって確実な回答が数多く得られる、というだけであって。違う視点からのご回答、とても興味深く読みました。ありがとうございました。
仏教語の『愛』は、「愛欲」という用い方のように、否定的な意味を持つことが多い。一歩まちがえると憎しみに転じる、憎しみと背中合わせの感情とされている。
ayaka2002さんが問題にしている感情は、仏教語では『慈悲』と呼びます。
「慈」は、他人にたのしみをあたえること。
「悲」は、他人のくるしみをのぞくこと。
以上は、中村元先生のご説です。
そこからぼくの考えた、愛するという感情の解釈は、『その人のよろこびをその人と同じくらい、それ以上によろこぶこと。その人のかなしみをその人と同じくらい、それ以上にかなしむこと』です。
『愛』には、その人がよろこべば、その人と同じくらい、それ以上にうれしくなれるという見返りがちゃんとあるように思います。
よろこびを相手と同じくらいに喜ぶのはできるような気がするんですがかなしみは難しいです。ありがとうございました。
その人の為なら全てを捧げることができる…そのような気持ちです。母親が子供の命と引き換えに死ぬことや、戦場で家族守る為に散っていった人などがそうです。自ら自覚した上で、命を投げ出すという行為は、愛がなければできない行為です。神を用いることでしか、愛を否定できない者には永遠に愛など理解できないでしょう。
その通りですね、ありがとうございました。
自分よりまずその人の幸せを願いたい、という気持ちは偽りではなく確かに存在しうると思います。そこに自己犠牲の自覚はなく、そうしたいからしているだけ、という場合も少なくないのではないかと。
しかし少なくとも私は、与えた愛に見合う(多分に主観的な判断基準によりますが)見返りを心の中では常に求めていますし、周囲の人も大抵そのようです。
自己犠牲の精神自体は偽りでなくても、心のどこかで見返りを求めるのがごく当たり前の人情だろう、というのが私の認識です。
ところで、三浦綾子氏がエッセイの中で「沈没寸前の船の中で、最後のひとつの救命胴衣を見ず知らずの若い女性に譲り、自らは死んでいった」という神父の話を取り上げ、これを「無償の愛」と呼べるのではないか、と述べています。
実際に自分が同じ状況に立たされたときに同じ行動を取るかと考えるととてもその自信はありませんが、人間でも、一途や信仰心や意志の力によってこのような行動を取りうるのだということは言えるのではないかと思います。
確かに、相手の幸せを願いそのように努力していたとして、どこかで反応を求めてしまいますね。ありがとうございました。
人を愛するという気持ちに同じものはないと思います。
「自分よりも相手の幸せを願える」という気持ちもあるひとつの愛する形だと思います。
例えば、彼女の身代わりに自分が死ぬ。という場面。
映画などではここで身代わりになって死ぬのが愛の証であるように表現されています。しかし、みんながみんなこんな映画のようにできるわけがありません。
死がどうしても恐ろしい人もいると思います。彼女のためならなんだってささげられる。しかし死ぬのだけはどうしても怖いんだ。
この男性が彼女のことを愛していないとはいえません。死以外のすべてをかけて彼のできるかぎりに彼女を愛しているからです。
だから、客観的に愛を計ることはできないと思います。
見返りを求めない愛情は神くらいしかなしえない のは神の愛の形でしょう。
私は彼女が一万円くれといわれても絶対にあげません。けど彼女が困っているなら全財産渡せます。彼女と同じくじをひいたら自分があたってほしいと思います。
それでも彼女をあいしています。
よくわからないですね。
最後のくだりはとてもリアリティーがありました。愛の形に答えはないのでしょうね。ありがとうございました。
人を愛する気持ちというのは、好きな人のことを思うだけで心がうきうきしてくる気持ちです。嬉しくて嬉しくて仕方がない。無上の喜びが途切れることなく四六時中続いていく。そんな気持ちです。
だから、何にでも感謝したくなってしまうんです。誰にでも優しくしたくなります。そんな嬉しい気持ちが愛する人に注がれる時、それが「見返りを求めず尽くしたい心」「自分のことなど度外視して相手の幸せをひたすら願う気持ち」になって現れるわけです。
けっして何も得ずして相手に尽くしているわけじゃない。予めそれ以上の喜びを受け取っているから、偽善ではない無償の愛(実は報償を先取りしている愛)が注げるんだと。私はそう思います。
定量化できないから「愛」なのではないか?
もし数値化してしまえば、「愛」は「愛」としての意味をなくしてしまう。
つまりは、目には見えないけど、個人だったり周りのコミュニティだったり大きく言えば国や人類を幸せにする気持ちが「愛」であると思います。
そこには何らかのアクションがあればベストだと思いますが、ただ思いやる気持ちが伴わなければ、意味をなさないのではないか?と思います。
相手を思いやれない行為は、ただの独りよがりであって、それこそ「偽善」ではないかと考えています。
簡単に愛するということを文章にするのが難しいと思います。
私は26歳でその時は「愛している」という気持ちを持っていた相手と結婚をしました。しかし、素直に「自分よりもその人の幸せを願える状態のこと」ではなかったように思います。どちらかというと、その人にとって私しか支えられない、という気持ちが強かったように感じます。
しかし、元々前兆らしきモノはあったココロの病と気管支喘息の突発的な自傷行為と発作で私までココロだけでなく、体まで変調を来し、会社を休職。それだけではありませんが、結果、32歳で離婚となりました。
その6年間の間(実質、結婚生活が破綻するまで3年もなかったとは思いますが)、なにも相手に求めた記憶はありません。となると、「見返りを求めない愛情は神くらいしかなしえない。単なる偽善である」もイマイチしっくりきません。
愛情のあるべき姿は私には分かりませんが、私にとって愛情という感情は現在まったくもって分からなくなっています。
答えになってはいないと思いますが、愛情とはとても説明を出来ない感情なんだと思います。
大変な経験をされましたね。。多くの方それぞれの考え価値観あると思います。とても貴重なひとつのご意見です。ありがとうございました。
愛するのとすきなのは難しいですね。。
微妙ですよね。
自分より相手の方が大事だということは確かに愛かもしれませんが
そのような人間が地球上にどれほどいるのでしょうか。。
それならそこまで思えない人間は愛をもってないということなのdしょうか。
そうかんがえると、自分よりも相手を思うことが愛であることは確かだろうけれど、そこまでいかない、ただたんに相手のことがすきで世界で二番目に大事だと思うこともあいだといえると思います。
なるほど。。。
対象の幸福が自分の幸福感に繋がる状態でしょう。
「見返りを求めない愛情は神くらいしかなしえない。単なる偽善である」という人が居ますが
1.例えば薬物中毒者はどう考えても自己破壊行為なのに薬物に手を出します。このように実際に利己的行動であるか否かと欲求は別問題である場合があります。
2.遺伝子の観点からは、自己と近い遺伝子の人である子孫、親族、同胞、同種は、時に命を投げ出しても護衛したほうがいい場合があります。特に対象が優れた遺伝子を持っていそうな場合はなおさらです。
3.自分の幸福感を見返りとみなす場合、神も自己満足という見返りを求めているのではという仮説が立てられるのではないでしょうか。人間もシムシティなど仮想空間に愛着がわくことがありますよね。…私はたまに怪獣呼んで破壊して遊びますけど。
自分より他の人の幸せを願える状況があると言うことはとても幸せなことだと思います。そのことによって自分自身が生き甲斐を感じられますし、その思いが相手に届けばもっと嬉しいと思いますし。
「見返りを求めない愛情は神くらいしかなしえない。単なる偽善である」というセリフを言う人はまだその人が本当に幸せを願えるだけの人に出会っていないことへの不満を吐露しているだけのように感じてしまいますが。
その相手のことばかりいつも考えてしまいやっぱりその人とずっとそばにいたいと思うことではないでしょうか
それは愛ではなくて恋だと思いますがどうでしょうか。
>見返りを求めない愛情は神くらいしかなしえない
そんなことは無いのでしょうと思います
わが子のために、自分の命を捨てて守ることが出来る人は世の中に沢山居ます。
それこそが愛だと私は思っています
本当に愛した人が出来ると、その人のためにこの世に二つとない命さえも捨てることが出来ます
人を愛するという事は奉仕です。
奉仕する事によって相手が幸せ感に慕ってくれれば、愛が通じたのです。
相手の幸せ感は自分の幸せ感に通じます。
その愛の奉仕が通じない事もありますが、愛とはそういうものなのです。
偽善ではないと思います。神じゃなくても見返りを求めずに人を愛すことはできると思います。でも、誰かを好きになったらせめて自分と同じ分くらいは好きでいてほしいと思うのは自然なことだと思いますが、本当に深く愛するようになったら自分が相手を思っているだけで十分だと思うようになると思います。その人に幸せになってほしいと思えるのです。
RADWIMPSの「愛し」という曲があります。この曲を聴くと人を愛する気持ちが分かるような気がします。
http://www2.kget.jp/lyric.asp?c=1&a=RADWIMPS&t=&b=&f=&n=0e55cbf4...
偶然数日前に、友人にこの曲を送ってもらっていましたが、よくよく歌詞を見ていませんでした。読んでみて、わかりました。ありがとうございました。
相手を理解できていることが前提ですね。ありがとうございました。