私は美輪明宏さんの本をこのところ続けて読んでいます。
それによると、戦後、食べることに必死、トタン屋根の住まい、米袋の衣服・・・等、生きることに必死になった親達の元に育った子供達は「生きる力最優先」という価値観を持つことになり、そこから「経済至上主義」が主流となり、・・・つまり、戦後そういう「こんな国」は始まった・・・と思います。
戦後ちょっとの間は戦前までの文化や美意識が残っていたそうです。でも、その後、そういうものよりお金、経済力が重視されるようになった。
誰も回答していなかったので書こうと思いました。青いさんの思うことは正しいと思います。あなたは凄くまともです。
また、秘密と言って文書を提出させ、それが職場中に筒抜けになることに憤慨した経験が私にもあります。おかしいですよね。
かつて、私はいじめに遭っていました。もう既に遠い昔の事ですが、その頃の凄惨な記憶は今でも生々しく蘇ります。
今に限った事ではありません。昔から教員の間にはは保身ばかりが横行していました。生徒の中でいじめがあっても教師は見て見ぬふりを繰り返すばかりで、日々私の精神はすさんでゆきました。もちろん、周りの生徒も見て見ぬふり、母も耳を貸そうとはしません。私は一人で闘うしか道が残されていませんでした。
http://q.hatena.ne.jp/1163154756
にて書いた物語は、単なる創作でなく、単なるタイムリーな話をネタにしたものでもありません。あの中には私の怨念と情念が入り込んでいます(提示された物語の、母子家庭という点でも境遇は一致しています)。
そうした意味で、情報公開ということ自体は、私は賛成です。あまりに聖域が多すぎて、今まではこうしたことが明るみにはでてきませんでした。情報の共有は個人攻撃という問題も同時に孕みますが、個人個人が卑怯な真似をしないという教育をしてゆくことで、それは徐々に解決してゆくべき事でしょう。問題は情報共有ではなく、教える側の卑怯さであると思います。作家の北方謙三氏は、
「最近の奴らは学生運動とか起こさないね」
と嘆いてらっしゃいました。起こさないでしょう。なにしろ、教師が生徒に魂をたたき込んでいないのですから。
学校が腐敗している原因の一つに、PTAの存在が上げられると思います。初めは熱い想いを胸に教員生活を始めた先生も、一年ないし二年もすれば、大抵がおざなりになってしまいます。PTAが口やかましく、未熟な子供を擁護するからです。職員の全てが悪いわけではなく、未熟な保護者側にも大きな問題があるのです。この話は何も学校の現場に限ったことではなく、家庭環境の問題にまで発展します。
そして、そういった現代の軒並み問題である家庭環境で育った子供達は、またしても問題のある家庭環境を作り出します。これは、掘り下げると核家族化が進むと同時に進行してきた問題であると思われます。多くの頭でっかちな子供達は、多数の人間がいる大家族で育たなかったからこそ、あのように頭だけで物事を判断し、全てを「個性」の一言で済ませます。既におわかりだとは思いますが、現代を生きる教師もこうした歪んだ(本人は気付いていない)家庭からでた人々なのです。私にしたところで、それは例外ではありません。
つまりは、PTAに代表される親も、教師も、生徒も全てがおかしい。これらは一つに集約して考えることは出来ない問題なのです。
(※大家族は大家族で因習がありましたから、どちらがよいかは分かりません)
これらの問題を解決するには、学校サイド、PTAのみならず、それらを監視する第三の機関が必要ではないかと思うのです。そうなると行政という話になりますが、行政がそんな大役を買って出てくれるとは思えません。
一番良いのは、各学校の状況をカテゴリごとにグラフ化し、インターネット経由で国が発表する事だと思います。調査員をもうけ、一年間、一ヶ月ごとに監視体制を敷くのです。
これらを義務化すれば、入学に際してのめどが立ちますし、不正が横行する学校は衰退するでしょう。ランキング化は哀しい事ですが、これも時代、と諦めるところも必要でしょう。
しかし、これらのことよりも、まず個人が闘うことが重要かと思います。ポストなど糞食らえ、私は今までそういった生き方をし、様々な場所で正直に自分の想いを吐露してきました。損することもありましたが、後悔はありません。
暑苦しい内容で恐縮です。
貴重なお話しありがとうございました。
こういう議論も出来てうれしいです。
これからもよろしくお願いします。
私は美輪明宏さんの本をこのところ続けて読んでいます。
それによると、戦後、食べることに必死、トタン屋根の住まい、米袋の衣服・・・等、生きることに必死になった親達の元に育った子供達は「生きる力最優先」という価値観を持つことになり、そこから「経済至上主義」が主流となり、・・・つまり、戦後そういう「こんな国」は始まった・・・と思います。
戦後ちょっとの間は戦前までの文化や美意識が残っていたそうです。でも、その後、そういうものよりお金、経済力が重視されるようになった。
誰も回答していなかったので書こうと思いました。青いさんの思うことは正しいと思います。あなたは凄くまともです。
また、秘密と言って文書を提出させ、それが職場中に筒抜けになることに憤慨した経験が私にもあります。おかしいですよね。
ありがとうございます。わたしだけに打ち明けてくれた勇気を踏みにじるくらいなら、今日、辞めようかと思いました。幸い、相手も理解してくれて、中身ではなく、「相談している事実」は共有してもいいよ、ということでした。こんなことを言わせる自分が苦しいのです。でもご意見を読んで心強く思いました。ありがとうございました。
たしかに今の教育界は腐っています。でも私は少しずつ、教育界の内部から、改革の火の手が上がってきているのを感じています。生徒のためにと決死の覚悟で現場を立て直していこうとする先生方の姿が、少しずつ見え始めています。
しかし問題は、教育を腐らせた「張本人」の責任逃れです。教育を、こんなに風通しの悪い「密室」にしてしまったのは、誰でもない、「政府」なんですよ。
戦後すぐ、日本の公教育は、国家からは独立した、公選制の教育委員会が指導監督することとなりました。この時点で教育の場は、広く国民に開かれたものになったんです。教師達は新しい日本の担い手を育てる希望に満ちて教壇に立ちました。この時、日本の教育は輝いていたんです。
その教育委員会を公選制から任命制に「改正」し、いつの間にか市町村役場の一部課にしてしまったのが「政府」です。教育の「国家統制」の復活です。ここから現在の社会から隔絶された閉鎖的な学校運営が始まってしまいました。そこで澱んだ膿が、今一気に吹き出しているんです。
教育を腐らせたのは、誰でもない、政府なんですよ。その権力者の責任を曖昧にして、責任を現場に押しつけようと「工作」している連中が、「保身」に走るんです。権力者の代理人となって教育を腐らせてきた人間が、今必死に「権力者の保身」を代弁しているんです。
「俺たちは生徒のために頑張るんだ」、「俺たちは権力者の下僕じゃない、子供たちと共に歩む教師なんだ」という意識の人達は、逆にどんどん権力の横暴と、それによってねじ曲げられた教育の問題点を告発し始めています。
全ての教育者は、教育者たるの誇りをもって、教育を腐らせてきた張本人、政府の責任をこそ、堂々と追求すべき時に来ています。現場は、何の保身を図る必要もありません。全ての罪は政府にあるのです。
そうだったんですか。
なんだかむずかしいですね。
ありがとうございました。
礼儀正しさといった、今まで世界から見ても良いとされてきた日本人らしさが薄れてきたように思います。
今はなんとなく自由を履き違えてるような気がします。
この前のテレビでやってた小学校の状態を見て唖然としました。
こんなにひどいのかと。
これなら教師を辞めたくなるのも当然です。
親の教育がなってないのが明らかです。
私もわがままとは言えますが、先生を尊敬してました。
もう一度教育改革を見直すべきです。
自由は完全にはき違えてますね。
親も生徒も、そして教師も。
かなしいです。
ありがとうございました。
現在の日本は自由主義の名の下に、個人の権利が強く叫ばれています。しかし、この考え方は欧米の文化を基盤に発達した考え方です。欧米人と日本人は文化が違うので、基本の考え方が違います。欧米型の個人主義に基づいた考えをそのまま輸入したところに問題があるのです。考え方の違うところに異文化をそのまま持ってきても不都合が生じるのは明らかです。
日本人は戦後アメリカから個人主義の表面しか教わっていないのです。個人主義に基づく権利というものは義務を果たした上で初めて得られるもののはずです。
教育現場に口出しする権利がある人は、家庭で充分に教育している人に限られるべきなのです。
それを、家庭でろくに教育せずに、すべてを学校の責任にして、自分たち親は自分の気ままに生きている人たちがいます。そのような人に限って、すぐに学校の責任にしたり、給食費を払わなかったりするのではないでしょうか。
学校は社会性を学ぶところです。人間性や基本的な立ち居振る舞いは家庭で教育するものです。
もう一つは、体罰問題の頃から教師の立場が悪くなったようにおもいます。体罰はよいこととは言いませんが、「怒る」体罰ではなく、「叱る」体罰ならば許容すべきではないでしょうか。自分も体罰を受けましたが(多分30歳以上の人は体罰を受けて育ってきたと思いますが)、子供心にも、教師が私心で怒っているのと、教育のために叱ってくれているのとは何となく区別は付きました。また、数年たてば教育のために叱ってくれていたのは恩となって感じるものです。それを、形式的に「叩いた」からあの教師はダメだ、とか騒ぐからいけないのです。
これは非常識な大人が増えたことが問題でしょうけど、他にも問題はあると思います。
例えば、信号無視して警察に負われて、逃走中に信号無視して事故でけがしたとき、それに対して文句を言う親も親ですが、その文句を世間に伝えて、警察の責任と言わんばかりにニュースとしたマスコミにも責任があると思います。
ある一事象を捉えて、それがすべてであるような印象を社会に植え付けるマスコミの報道姿勢にも問題があると思います。最近のマスコミ報道は明らかに恣意的です。その報道をおもしろおかしく楽しんでみている我々社会にも問題があるのでしょう。
根は深いと思いますが、我々社会が成熟するのがもっとも確実なことでしょう。それにはこのようなちょっとした場でも、こういった市民レベルので意見交換がなされるのは非常によいことだとおもいます。
うまくコメントできなくて歯がゆいのですが、
とてもよく伝わります。
ありがとうございました。
学校が知識だけを教えるところになってしまったことが間違いだと思います。
ニュースでやってましたが、一部の学校が予備校の先生を招いて授業してもらったりしているそうです。
知識詰め込むだけなら予備校や熟で十分ですよね。
学校の存在意義は知識だけでなく家庭と協力し合って人として育てることだったはずです。
いじめが悪いと誰もが口をそろえて言うけど、いじめられる側の気持ちや痛みを知ろうともしないでいじめるような人間にしてしまったのは、家庭や学校ですよね。
死んでいく子達はいじめに耐えられないだけでなく、いじめの事実を訴え、自分を苦しめた子達に後悔してほしいって気持ちきっとあるんだと思うのですが、もちろんなかには後悔している子達もいるでしょうが、報道によれば今度は新たなターゲットを見つけていじめを続けていたりする。彼らにとっていじめはゲームのひとつなのかもしれません。
いじめをする子達は当然悪いけど、いくら攻め立ててもなくなる傾向は感じない。
日本の教育のあり方そのものを変えていかないといけないのではないかと思うんです。
特に進学のありがたとか。
超有名大学に在籍したり卒業していても犯罪をおかしている人たちがいてますよね。
何のために進学したいのか。一流会社に勤めてそこで何がしたいのか。
受け入れる学校側が求めるのは学力だけなのか。どういう人材を学校は育てたいのか。
学校だけでなく、教育委員会も学校の存在意義、進学のあり方を考えるべきだと思います。
なぜ、校長先生までが自殺したのか。誰もが教育委員会の圧力ぐらいは想像つきますよね。それが真実かどうかは別にして。
教師や親全員が本当に子供たちのことを考えているとは言いがたいですが、少しはそれでも本気で考えている人たちはいますよね。
でも、教育委員会に子供たちのことを真剣に考えている人たちが本当にいるのか、私は、疑問を感じます。
本当に変わらないといけないのは、教育委員会かもしれないですね。しいて言うなら大人社会も変わらないといけないのではないかと思います。子供社会は、大人社会の鏡ですからね。大人社会にも陰湿ないじめはいっぱいありますからね。
あなたの質問の答えになってないですね。ごめんなさい。
いつからこんな社会になったのか。一気になったのではなく、少しづつ着実にまるで虫歯になるように気づかないうちに神経にたっしてしまったってことじゃないかなと思います。
こんな社会を作ってしまったのは、きっと私たち大人の世代です。
本当は、社会すべての責任なんだと自覚して、一人ひとりが自分自身を変えていかないといけないんでしょうね。
大人の世界もいじめが横行していますね。
さみしいです。
ありがとうございました。
最近なんだかだれもが頭でっかちの生徒、教師、親それぞれが
自分の権利だけを前面に相互に主張しているようにみえる。
みんなが頭が良くなったか、悪賢くなったのか、
当時はみんなもっと馬鹿だったように思える。
雰囲気としては教師と先生、教員の違いでしょうか?
教員→会社員、親(社会)→顧客、教育→商品製造(生徒)の
ような状態。
顧客の言いなりで業務範囲を無視して商品以外の
無償サービスを多量バンドル無償提供して
結果的に品質低下させているように見える。
以前、教育はサービスと言われました。
それは事実であり、間違いであるような気もします。ありがとうございました。
学校の内側には入ったことがないので、ニュースとか知り合いの話を聞くとか、俯瞰でしか眺められない立場ではありますが、「迷走してるなぁ」っていう印象はあります。
各方面の人たちがそれぞれに自らの立場からいろんな考えを述べているけれど、いじめ、学力低下、学級崩壊、そのほかたくさんの悩みと苦しみ、解決できたことってひとつでもあるんでしょうかね。
どうにかしなきゃ、って意識はそれ相応の数の人が持っていると思うのですが、でも個々の力では全体を変えられないし、そもそも個々の考えが違っているからまとまらないし…。というような感じなのでしょうか。
ところでわたしは塾講師をしています。
個人的に受けた相談の内容が講師全員に共有されているというのはよくある話ですね。
生徒は「この先生だから」と話してくれるわけですから、悲しいことだと思います。
塾にとって生徒は有体に言ってしまえば「金づる」なわけですが、保護者の方々が汗水たらして稼いできたお金をいただいてお預りするわけですから、生半可な指導はできない、確かな学力をつけさせなければいけない、という意識が常にあります。これは結構、教壇に立つときの心持ちに影響を与えるように思います。どこか逆説的ですが、塾の先生のほうが学校の先生よりわかりやすいと言われたりするのは(数字で結果を出さなければいけないという切迫した事情がある場合もままありますが)このような「プロ意識」に基づいた熱意によるものではないかと個人的に考えています。
たぶん、学校で働くよりずっと楽しい仕事だろうと自負しております。
わたしは学校は嫌いでした(し、今でもどっちかと言えば嫌いです)が、塾は好きでした。
建物がきれいだとか、サービスがいいとか、チヤホヤされるとか、そういういまどきの塾とは違うものすごく古風な厳しい進学塾でしたが、それでも塾のほうが好きでした。
同じ勉強の場でも、学校は無償の義務教育を受ける場であるのに対して塾は有償で教育サービスを受ける場であるということは子どもにもわかりますし、現状では、塾のほうがこの資本主義社会の中で違和感なく存在できているような気さえしています。
だからといって学校も金を取れとか言っているわけではもちろんありません。ElekiBrainさんのご意見と同じく、外部の人間がわかりやすい指標をもって客観的に各公立校を判断する機会が必要かと思います。それによって、各校がこぞって意識を高め合い切磋琢磨するという状況が生まれ、何かしら風通しがよくなっていい方向に向かうきっかけになるのではないかと思います。
「個人的に受けた相談の内容が講師全員に共有されているというのはよくある話ですね。
生徒は「この先生だから」と話してくれるわけですから、悲しいことだと思います。」
この部分が悲しいです。「大人社会の論理」なのでしょう。さみしいですね。
ありがとうございました。
ありがとうございます。わたしだけに打ち明けてくれた勇気を踏みにじるくらいなら、今日、辞めようかと思いました。幸い、相手も理解してくれて、中身ではなく、「相談している事実」は共有してもいいよ、ということでした。こんなことを言わせる自分が苦しいのです。でもご意見を読んで心強く思いました。ありがとうございました。